第七十六話 足りない
以下の複数の話は、すべてH県の、ある特定の地域で起きたものである。
時期が異なるため、直接的な関係の有無は分からないが、かなり狭い範囲でのことなので、並べて紹介させていただこうと思う。
Aさんという女子中学生がいた。
新年度の初日、新しいクラスでホームルームをしていた時のことだ。
先生がプリントを配り始め、前の席から順番に紙が回ってきた。
各々が自分の分を一枚取り、後ろの席に回す。デジタルとは無縁の、昔ながらのやり方である。
Aさんの手元に着いた時点で、プリントは二枚あった。
一枚取り、残りの一枚を自分の肩越しに後ろに突き出すと、すぅっと紙が抜き取られる感触があった。
しかし――そこで、ハッとした。
昨年度までの癖で後ろにプリントを送ったが、今日から新しいクラスである。当然、席の並びも変わっている。
……Aさんの席は、一番後ろだった。
慌てて振り向いた。
だが自分の背後には、もちろん席などなく、回したはずのプリントも、どこにも見当たらなかった。
後で先生にそのことを話すと、「間違えて一枚多く回しちゃったみたいだな」と言われた。
しかし、その一枚多いプリントの行方については、なぜかまったく言及がなかったそうだ。
……それ以来、先生が配るプリントは、必ずきちんとAさんのところで終わるようになった。
ただ、プリントが配られるたびに、Aさんのすぐ背後で、
「――足りない」
誰かがそう囁くようになったという。
この声は、二学期に席替えをするまで、ずっと続いたそうだ。
次は、十数年前に、当時大学生だったOさんの身に起きた話だ。
Oさんはその頃、生協でアルバイトをしていた。
仕事の内容は、主に配達である。利用客はマンションの住人が多く、特に同じ建物内で複数の配達先がある場合も珍しくない。中には、いくつものグループがそれぞれ大量に共同購入する――というケースもある。
だからOさんはいつも、商品の入った大量の発泡スチロールケースを台車に積んでは、トラックと各フロアとの間を、何度も往復していた。
ただ、マンションによっては、配達先が一件しかないところもある。こういうところは、まだ「開拓」の芽がある。
そんなマンションの郵便受けに、宣伝用のチラシを
……ある時のことだ。
新築で、まだ配達先が二件しかないマンションがあった。
チラシ配りには打ってつけの場である。だがその日は、すでに他の配達先を回り終えていたこともあって、手持ちのチラシは、だいぶ数が減っていた。
もっとも、これが無くなれば仕事が一つ片づくわけだから、Oさんにとっては、悪いことではない。
Oさんは、配達先の部屋に荷物を引き渡した後、空になった台車をエレベーターの脇に置くと、チラシを手に、今いるフロアを回り始めた。
本来なら一階の郵便受けに投函するところだが、枚数が少ないのだから、このままその辺のドアに直接挿し込んでいった方が早いだろう――と、そう思ったのだ。
ドアの新聞受けに一枚ずつチラシを入れていき、フロアのすべての部屋に投函を終えた時点で、ほんの数枚が残った。
あと一フロア回れば、終わる数である。
Oさんは、そのまま階段で一つ下のフロアに移動すると、一番手前の一号室のドアから順番に、チラシを挿し始めた。
二号室、三号室、四号室……と進み、奥から二番目のドアの新聞受けに投函したところで、ちょうどチラシが尽きた。
これで、このマンションでの仕事は終わりである。Oさんは、チラシの入らなかった一番奥のドアに背を向け、通路を戻ろうとした。
……その時だ。
「――足りない」
すぐ背後で、声がした。
女の声だ。
振り返ると、奥のドアの新聞受けの蓋が、パックリと開いている。
「――足りない」
もう一度、声がした。
新聞受けの中――ドアの内側からだ。
部屋の住人がチラシを欲しがっている……のだろうか。
どことなく奇妙な気がした。
それに、中にいるはずの人間が、どうしてOさんが外でチラシを配っていると分かったのだろう。
見張られていたのか――と思うと、気味が悪い。
しかしどのみち、渡すチラシは、もうない。
「――足りない」
声は、なおも続いている。
Oさんは横目で、奥から二番目――自分が最後のチラシを投函したドアを見た。
チラシは、まだ新聞受けに挟まったままになっている。
一度挿し込んだとはいえ、ただの宣伝用のチラシだ。回収しても構わないだろう――。
そう思ってOさんは、そちらのドアからチラシを引っ張り抜くと、「足りない、足りない」と繰り返す奥のドアの新聞受けに、それを挿し込んだ。
すぅっ――と、内側から引っ張られる感触があって、チラシは瞬く間に内側に消えた。
パタン、と新聞受けの蓋が閉まった。声も、もうしない。
ホッとして、今度こそ戻ろうとした時だ。
「――足りない」
……また、同じ声がした。
嫌な予感がした。
振り返ると今度は、チラシを抜かれた方のドアが、やはり新聞受けの蓋をパックリと開けている。
「――足りない」
何なんだこれは――。
Oさんは全身に鳥肌を浮かべながら、さらに一つ手前のドアからチラシを抜き、開いた新聞受けに突っ込んだ。
すぅっ、とチラシが吸い込まれていく。
すると、新たにチラシを抜かれたドアの新聞受けが、またパックリと開いた。
「――足りない」
……まったく同じだった。
Oさんは半ばパニックになりながら、さらに前のドアからチラシを抜き、そちらに移した。
「――足りない」
チラシを抜かれたドアから、同じ声がする。
前から抜いて、そちらに移す。
「――足りない」
また言われる。移す。
「――足りない」
何度でも言われる。
Oさんは、悲鳴にも似た声を上げて、ひたすらチラシを順番に移し続けていった。
やがて残る部屋は、一号室と二号室だけになった。
「――足りない」
二号室の新聞受けが開いて、Oさんに言った。
Oさんは、一号室のドアからチラシを抜いて二号室に突っ込むと、すぐさま脇目も振らずに階段へ向かった。
「――足りない」
最後の声は、一号室の住人だったのだろう。
Oさんは無視して、必死で階段を駆け下りた。
マンションの外に出てトラックに飛び乗り、息を荒げて本部に戻ったところで、台車を回収し忘れていたことに気づいた。
怒られるだろうな、と思いながら上司に報告しようとすると、上司の方から声をかけてきた。
「さっきから、『チラシが足りない』ってクレームの電話が何度も来てるんだけど、心当たりある?」
Oさんは――結局台車の回収がてら、追加のチラシを渡されて、マンションに戻ることになった。
もっとも、置き去りになっていた台車を回収した後は、チラシを一階の郵便受けにまとめて投函しただけで、急いでその場を去った。
さらに、もう二度とそのマンションに足を運ばなくて済むよう、仕事もすぐに辞めたということだ。
この二つの話と関係があるのかは分からないが、同地域では、三十年ほど前に、こんな怪談が語られていたことがある。
……ある学生グループが、夏休みに人を集めて、肝試しの大会を催した。
場所は、その地域ではよく知られた廃墟である。林の中に打ち捨てられたように建つ、古い屋敷だ。
参加者はその屋敷を探索するわけだが、ここで一つ、ルールが設けられた。
――主催者は、参加人数分のメモ用紙を用意し、あらかじめ屋敷内のあちこちに隠しておく。
メモにはそれぞれ、1、2、3……と順番に数字が書かれていて、参加者はいずれか一枚を見つけて回収し、外に戻ってくる。
メモに書かれた数字は、そのままくじ引きの番号になっていて、後で該当する景品と交換できる――。
つまり、ただ集まって中を探索するのではなく、完全にイベントとして楽しむための肝試しだったわけだ。
参加者は、外で待つ主催グループを除いて、十人が集まった。
いずれも学生である。中には女子もいた。
……Kさんという子も、そんな女子の一人だった。
夜の八時を合図に、Kさんも含めた十人が、いっせいに屋敷に入っていった。
メモの置き場所は、台所から奥座敷まで様々だったが、そうそう見つけ辛い場所には隠されていない。十分も経つと、一人、二人……と次第に参加者が戻ってきた。
やがて九人までが戻った。
時刻は八時半を指していた。
一同は景品を交換したり、缶ビールを呷ったりしながら、最後の一人を待った。
ところが――その一人が、なかなか戻ってこない。
Kさんである。
女の子だから、中で一人にしておくには、いささか不安がある――。そう思って、主催グループのメンバーが、彼女を捜しに入った。
真っ暗な屋敷の中で懐中電灯の明かりを走らせながら、Kさんの名を呼ぶと、奥の方から声だけが返ってきた。
「――ない」
どことなく、泣いているように聞こえた。
どうやら、最後のメモが見つからずに、ずっと捜し続けているらしい。
「おーい、もういいから出ようぜ」
主催者の一人が、そう叫んだ。
やはり奥の方から、声が戻ってきた。
「――ない」
一同は顔を見合わせ、それから屋敷の奥へと向かった。
……だが、Kさんの姿は、どこにも見当たらない。
全員で名前を呼んだが、もう何の反応もない。
仕方なく諦めて、一度外に戻った。
それから参加者も含めて、大勢で屋敷の中を捜し回ったが、結果は同じだった。
Kさんはもう、屋敷のどこにもいない――。
……その夜のうちに、家族と警察に連絡が行き、本格的な捜索に切り替わった。
しかし、それでも彼女の行方は、ようとして知れなかった。
なお――後で分かったことだが、肝試しに用いたメモの最後の一枚は、参加者の一人が隠し持っていたそうだ。
つまり、人数分しかないものを、余計に回収していたわけである。
当人は、ちょっとしたいたずらのつもりだったらしい。まさかこんなことになるとは思いもよらなかった――とその人物が白状したのは、Kさんが行方不明になってから、一箇月以上も経ってのことだった。
ともあれ――それ以来Kさんは、ずっと行方不明のままだ。
一方、地元の学生達の間では、こんな不気味な噂が囁かれるようになった。
……毎夜八時を過ぎた頃、例の屋敷の奥を、声だけがさまようという。
「――足りない」
「――足りない」
それは女の声で、泣きながら、ずっとそう繰り返しているそうだ。
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