第七十五話 お供え物
Oさんが小学生の時に体験した話だ。
ある日の放課後のことだ。いつものように友達と集まって遊んでいると、M君という子が、「××橋に行こう」と言い出した。
××橋は隣町にある橋だ。そこではつい昨日、交通事故があって、子供が一人亡くなっている。M君は、その現場を見にいこうと言っているわけだ。
反対する者は一人もいなかった。何となく、野次馬心をかき立てられたからだろう。
……着いた事故現場には、いくつもの花が供えられていた。
きっと、大勢の人々が手を合わせにきたに違いない。中には、亡くなったのが子供だからか、菓子なども供えられている。
特に目を引いたのが、チョコレート菓子の大袋だった。
もちろん未開封である。袋の中に、個包装された菓子がいくつも入っているのが見える。
それを――不意にM君が、拾い上げた。
「逃げろっ!」
M君は菓子を手に、そう叫んで走り出した。
特に人目があったわけではない。しかし、見つかったら
Oさんも全力で走った。
近くの公園まで走り、そこでようやく息をついた。
M君が、さっそく袋を開けて、中身をみんなに配った。
何人かが、その場で食べた。M君も笑いながら菓子を頬張った。
ただ、Oさんも含めた残りのメンバーは、受け取った菓子をポケットに入れただけで、手を付けようとはしなかった。
さすがに後ろめたい気持ちが強かったわけだ。
それから一時間ほど遊んで、その日は解散になった。
後から知ったことだが、この解散の後で、こっそり事故現場に菓子を返しにいった子も、何人かいたらしい。
……Oさんは、持ち帰った。
もっとも、こんなものを両親に見せるわけにもいかないから、仕方なく、自室の机の引き出しに仕舞っておいたという。
その日の、真夜中のことだ。
自室の布団で寝ていたOさんの耳に、ふと妙な音が響いた。
カタ、カタカタ……。
――何だろう。
夢うつつに思い、うっすらと目を開ける。
部屋の暗さが、まだ夜であることを告げる。眠気から、もう一度目を閉じようとする。
カタ、カタ、カタ……。
再び、音が鳴った。
とっさに意識がはっきりした。Oさんはようやく、この部屋で異変が起きていることに気づいた。
音は――机の方から聞こえている。
慌てて視線を巡らせる。カーテン越しの夜明かりが、部屋の中に、いくつものシルエットを浮かび上がらせているのが分かる。
本棚。箪笥。机。椅子――。
そんな、いつもと同じ影に交じって、一つだけ、妙なものがある。
……いや、「いる」と言うべきだろうか。
それは、机の前に立っていた。
影だから真っ黒に見える。背丈は、Oさんより頭一つ分ほど高い。
ただ、形をどう表現したらいいかは、分からなかった。
強いて言えば――細長い。
少なくとも人間の形ではない。頭や体、手足といった明確なパーツが、ない。
まるで、棒のようである。
太さは、大人の腕と同じぐらいだろうか。
それが、ぐねぐねと動きながら、机の引き出しを鳴らしている。
カタカタ、カタカタカタ……。
カタッ……。
引き出しが、開かれた。
その開かれた引き出し目がけて、細長い影が、ぐねりと折れ曲がった。
先端が、引き出しに挿し込まれた。そして、何かが――おそらくあの菓子が――ガサガサと取り出された。
影の先端が、まっすぐに菓子を掲げる。
バリッ、と包装の破かれる音がした。
部屋の床に、カツン、と中身が落ちたのが分かった。
仰向けのまま強張ったOさんの頬に、砕けた菓子の破片が飛んできて、ぺたりと当たった。
ただの菓子なのに、異様に冷たかった。思わず全身が
影が、再びぐねりと折れ曲がった。
まるで「U」の字を逆さまにしたように、先端が床に付く。影はそのまま、まるで鳥のように、床を
コツ、コツ……。
カリッ……。
コツ、コツ……。
カリ……。
――お菓子を食べてるんだ。
そうとしか、解釈のしようがない。
――だとしたら、つまり、今ここに来ているのは……。
それもまた、一つしか解釈のしようがなかった。
Oさんは、手で掛け布団をぎゅぅっとつかみ、静かに震え続けた。
わずかにでも声を上げれば、細長い影に、自分が起きていることがバレてしまう――。そう思ったからだ。
コツ、コツ……。
コツ……。
床を啄む音が、次第に布団に近づいてくる。
……菓子の破片は、Oさんの頬にも飛んできた。もしこの細長い影が、散らばった破片をすべて食べるつもりなら、当然Oさんの顔のもとまで伸びてくることになる。
――来るな。
とっさにそう念じた。
しかし、無駄な祈りだった。
コツ、コツ……。
コツ……。
コツ。
先端が、枕元に辿り着いた。
枕がグイッと押された。
耳の横で、シーツが、ぎゅぅ、ぎゅぅ……と鳴る。
そして――。
……カリッ。
耳元ではっきりと、菓子の噛み砕かれる音がした。
「うぅ……」
思わず、くぐもった声が漏れた。
その途端、影の先端が、ふっと顔の横から離れる気配があった。
――食べ終わったのかな。
Oさんが、そう思った刹那。
固く冷たいものが、不意にOさんの頬に、グイっと押し当てられた。
まるで舌で舐め回すような――それでいて温もりのない、強張った
Oさんは――そこで意識を失った。
翌朝目が覚めると、影の姿はどこにもなかった。
ただ床の上に、菓子を包んでいた個包装の紙だけが、ポツンと落ちていた。
その後登校したOさんは、例の細長い影が、他のみんなのもとにも現れていたことを知った。
Oさんのように、菓子を持ち帰って部屋に置いていた子が、揃ってまったく同じ体験をしたという。
もっとも、菓子を事故現場に返していた子は、何事もなかったらしい。
……しかし一番気になるのは、菓子を食べてしまった子だ。
彼らは皆、学校を休んでいた。
先生の話によれば、夜中に突然腹痛を起こして、病院に運ばれたらしい。その中にはもちろん、お供え物の菓子を盗った張本人であるM君も、含まれていた。
入院が必要で、数日は欠席する――とのことだった。
彼らが病院から戻ってきたのは、一週間後のことだ。
医者の診断では、食中毒だったらしい。
原因に心当たりはないかと聞かれた一人が、お供え物の菓子を食べたことを、医者に白状した。その話は学校側の耳にも入り、Oさんも含めた一同が、こっぴどく叱られた。
しかし――未開封のチョコレート菓子で、なぜ食中毒などが起きたのか。
その点に疑問を持った大人は、あいにく一人もいなかった。
Oさんは今でも、「あれは絶対にただの食中毒じゃなかった」と信じている。
なぜなら……M君だけがひとり、退院できなかったからだ。
――毎晩、細長いものが来る。
うわ言のようにそれを訴えながら、M君は別の病院に移され、その後学校には二度と戻ってこなかったという。
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