第七十七話 風船

 OLのWさんが、中学生だった時のことだ。

 一学期の期末試験が近かったため、自室で夜遅くまで勉強していた。

 Wさんの部屋は二階にある。下では両親と祖母が寝ている。

 午前一時を回った頃だ。そろそろ一息入れようか、と思った時、ふと窓の外に妙なものが見えた。

 蒸し暑い日で、窓は開け放ってある。代わりに網戸を閉めているのだが、その網戸に、何やら白くて丸いものが引っかかっている。

 風船のように思えた。

 紐は付いていない。なのに、網戸に引っかかるというのもおかしい。

 網戸を開けてみると、白い風船は、部屋の中にふわふわと入り込んできた。

 何気なく――指先でつついてみた。

 指は、ぬるりと風船の中にめり込んだ。

 ゴムとは違う、ひんやりとした感触が指先を取り囲んだ。

 思わず「きゃっ」と叫んで指を引くと、風船はふわふわと窓から出て、虚空に消えていった。

 風船に触れた瞬間、なぜか祖母の顔が脳裏に浮かんだのが、気がかりだった。


 翌朝、下で寝ていた祖母が亡くなっていた。

 あの風船が何だったのか――Wさんは、ようやく理解した。

 だから、窓から逃がしてしまったことを、両親には打ち明けられなかった。

 ――祖母を死なせたのは、自分のせいだ。

 ――今度同じようなことが起きたら、絶対に風船を逃がさないようにしよう。

 Wさんは、そう心に誓ったそうだ。


 それから数年後。高校に上がったWさんは、もう一度風船を見た。

 相手は、同じクラスの男子生徒だった。

 通学路も一緒だったが、それ以外には特に接点はなかった。

 その男子生徒が、通学路で突然車にはねられた。

 Wさんの目の前で起きた出来事だった。

 辺りが騒然となる中、Wさんは、彼の体から風船がぬるりと抜け出そうとしているのを見た。見えているのは、どうやら自分だけのようだ。

 捕まえよう、と思った。捕まえられるのは自分だけだから、と。

 しかし伸ばしかけた手は、すぐに止まった。

 抜け出した風船は――あの時とは違う、どす黒い色をしていた。

 突然触れるのが恐ろしくなって、Wさんは、虚空に消えていく風船を黙って見送った。

 男子生徒は、救急車で運ばれていった先の病院で、すぐに亡くなった。

 Wさんは後悔よりも、自己嫌悪で胸がいっぱいになったそうだ。


 ――もし私が死にかけた時、私の体から抜け出す風船は、何色なんだろう。

 ――誰かがそれを見た時、私は助けてもらえるだろうか。

 あの交通事故以来、Wさんは、よくそんなことを考えるようになった。

 Wさんは――きっと自分は、とてつもなく嫌な色なのだろう、と思っている。

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