第七十八話 ください
もう四十年以上も前のことになる。当時大学生だったNさんが、春休みの一人旅で、K海峡を訪れた時のことだ。
お目当ては、高名な二人の剣豪に
船内には、ところどころに妙な張り紙があった。
『他の方から物をねだられることがあります。そのような場合は無視して、船内の係員にお伝えください』
そう言われても、よく意味が分からない。
とりあえず張り紙の内容は忘れ、Nさんは一番上のデッキに出た。
よく晴れた日だった。何人もの乗客が
Nさんも、さっそく空いた場所に陣取って、町に囲まれた海原にカメラを向けた。
海風に頬を撫でられながら、当時開通して間もない、日本最長だった橋をフィルムに収めていると、ふと後ろから声をかけられた。
「――ください」
ただ一言、それだけを言われた。
風にかき消されそうなほど、ぼそりとした声である。
振り返ると、女が一人立っていた。
「――ください」
ゾロリとした長い髪を風で散らしながら、女は繰り返した。
春だというのに、冬物の長いコートをバタバタとはためかせている。顔は
何だか気味悪く思えて、Nさんは女に背を向け、そそくさと下のデッキに移った。
気を取り直して、改めてカメラのポジションを決める。それからふと、さっきいた上のデッキを振り仰ぐと、自分の立っていた場所は、すでに若いカップルに占拠されていた。
ただ――やはり彼らの後ろに、あの女がいる。
どうやらカップルにも話しかけているようで、二人が振り返って、相手をしているのが分かる。
――何が欲しいんだよ。やれるもんならやるよ。
男が気軽にそう答えている声が、風に乗ってうっすらと耳に届いてきた。
物好きだな、とNさんは肩を
そこで――思い出した。
「あ、そう言えば、あの張り紙……」
もしかしたら、あの女のことではないのか。
Nさんが、それに気づいた時だ。
不意に上のデッキで悲鳴が上がった。
ハッとしてもう一度振り返ると、あのカップルが二人して、手摺から身を投げようとしていた。
あっ、と叫ぶ間もなかった。
二人は勢いよく跳び、海に落ちた。
波が瞬く間に、二人の体を呑み込んでいった。
カップルの遺体が海から引き上げられたのは、それから二時間後のことだった。
上のデッキにいた乗客達は、船が港に着いた後、事情聴取を受けたようだ。ただ、二人が飛び込んだ理由は、誰にも分からなかったらしい。
そんな中、Nさんは船員の一人を捕まえて、あの時見た女の話をした。
もしかしたら、カップルの自殺に関係しているのではないか――。そう思ったからだ。
だが話をした途端に、船員の顔色がサッと変わった。
彼はすぐに船長室へと走っていった。それから少しして船長がやってきて、「このことはご内密に――」と、真顔で頭を下げられた。
事情は、最後まで説明されなかった。あの女が何者かも、何を欲しがっていたのかも一切語られず、後日Nさんの自宅に、遊覧船の招待券が束で送られてきた。
口止め料――ということだろう。
どうやらNさんは、見てはいけないものを見てしまったらしい。しかしそれが何なのかは、さっぱり分からなかった。
それから一年が経った。
Nさんは春休みを利用して、再びK海峡を訪れることにした。
せっかく招待券をもらったから――というのもあるが、それ以上に、前回は楽しめなかった小島を、もう一度見たいという気持ちが強かったからだ。
一年ぶりのK海峡は、この日もよく晴れていた。
もちろん遊覧船に乗った。
船長は同じ人だった。船の上でたまたますれ違い、簡単に挨拶を交わした。
それからNさんは、上のデッキに向かった。相変わらず人が多かったが、空いている手摺の前を見つけて陣取り、カメラを取り出した。
海風を浴び、やがて橋が近づいてくる。
その時だ。
「――ください」
「――ください」
すぐ背後で、二つの声が囁いた。
振り返ると、若い男女が佇んでいた。
……あのカップルだった。
Nさんは――ようやく、自分の見たものが、生きた人間ではなかったことを理解した。
すぐに下のデッキに逃げ、船員に話をすると、彼は慌ただしく走っていった。
追いかけていったNさんは、船員が海に向かって、何かを放り投げるのを見た。
さほど大きくないものだったが、何なのかは、よく見えなかった。
聞いても答えはなく、ただ「ご内密に」と、お決まりの台詞を返されただけだった。
結局その航海は、何事もなく無事終わったという。
この出来事から四十年経った最近、Nさんは久しぶりに、K海峡を
乗った船はまったく別の遊覧船だったが、張り紙はなく、妙なことも起こらなかったという。
もしかしたら、今はもう、アレが出ることはないのかもしれない。
あるいは――乗客の知らないところで、船員がきちんと、海に投げ入れているのだろうか。
……アレが欲しがっていた、何かを。
Nさんは、後者ではないかと疑っている。
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