第七十九話 撒き餌
C県に在住のKさんが、都市部を離れた某所で川釣りをしていた時の話だ。
春先の、まだ薄暗い早朝だった。
あまり人の踏み入らない、草深い岸辺に立って釣り糸を垂らしていると、数メートルほど下流の方で、ガサガサと草の擦れる音がした。
見れば、いつの間に現れたのか、人の姿がある。
どうやら女のようだ。目深に被った帽子の下から、長い髪がはみ出している。
釣りをしにきた――というわけではないらしい。それは、彼女が釣り竿を持っていないことと、動き辛そうな長いコートをまとっていることから、すぐに分かった。
ただ、奇妙なことがあった。
彼女が手に、大きなクーラーボックスを提げているのだ。
Kさんにとって、やはり川辺でクーラーボックスというと、どうしても釣りを連想してしまう。
それとも、普通に食べ物が入っているだけなのだろうか。だとしたら、ピクニックかバーベキューでも始めるつもりか。
まだ肌寒い早朝の、しかもこんな草深い岸辺で、それもないと思うが――。
Kさんは何となく気になって、釣り糸を垂れる
女がクーラーボックスを下ろす。一抱えはあろうかという大きな
蓋が開けられた。
……ふと、異臭を覚えた。
女は身を屈め、クーラーボックスに片腕を袖ごと突っ込んで、何やら
すぐに腕が引き上げられた。
手に、何かが握られている。女はそれを、目の前を流れる川に、無造作に放り投げた。
チャポン、と水音が鳴った。
――魚が逃げるじゃないか。
Kさんが顔をしかめる。注意しにいこうかと思ったが、その途端、水音の鳴った辺りで、バシャバシャと
魚だ。女が投げたものに反応して、群がっているようだ。
いわゆる「
しかしあの女は、釣りをするわけでもないのに、なぜ餌など撒いたのだろう。
Kさんが様子を見ていると、女はまたも身を屈めて、クーラーボックスに片腕を突っ込んだ。
掻き混ぜ、引き上げ、投げ入れる。同じ動きである。
魚が群がり、激しく水音を立てる。
せめてあの魚が、こちらにも泳いできてくれればいいのだが――。
アタリはまったく来ない。
そうこうしているうちに、空がいよいよ明るくなってきた。
女は、なおもクーラーボックスに腕を突っ込んで、掻き回している。
――あの餌を分けてもらえないだろうか。
Kさんはふと、そう思った。
向こうはどうせ釣る気もなく、ただ魚に
Kさんは竿を置き、女の方に歩み寄った。
そして――思わず足を止めた。
晴れてきた視界の中で、ようやく気づいたのだ。
……クーラーボックスに突っ込まれた女の腕が、べったりと赤く染まっていることに。
女は、まるでKさんの存在など見えていないかのように、一心不乱に、グチャグチャと何かを掻き混ぜている。
無言で、つかみ出す。
水に投げ入れると同時に、魚が群がる。
また腕を突っ込む。
ズルッ……と、何か大きなものが引き上げられた。
赤黒い色をした、丸い塊だった。
小さな目と、鼻と、口が付いているのが見えた。
それは、赤ん坊の頭だった。
血にまみれて半ば腐ったそれを、女は無造作に、川に放り投げた。
魚が食らいつく。女はそれを、黙って見ている。
水の中で
同時に、小さな唇がぬめりと開き、あぁぁぁぁぁぁ、と泣き出した。
Kさんは悲鳴を上げると、竿を拾うことも忘れて、すぐにその場から逃げ去っていった。
その後、Kさんの通報を受けて警察が岸辺を調べたが、そこには女の姿も、赤ん坊の頭も、血が撒かれたような跡も、何もなかった。
ただ、Kさんが忘れた釣り道具だけが、ポツンと残されていただけだったそうだ。
「何かの見間違いでしょう」
警察からは、そう説明された。
しかし、いったい何をどう見間違えたら、あんな悪夢のような光景を目の当たりにするのか。
Kさんはそう思ったが、警官の一人がぼそりと呟いた一言で、押し黙るしかなくなった。
「……この川では、よくあることですから」
よくあるとは、どういう意味なのか。
もしかしたら、あまり考えない方がいいこと――だったのかもしれない。
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