第三十五話 一人だけ

 男性編集者のCさんは、かつて大学生だった頃、実家を離れて、学生寮に住んでいた。

 住み始めたのは、一年生の春からだ。

 学生寮というだけあって、場所は大学に近く、家賃も安い。一見好条件だが、しかし建物自体はずいぶん古く、部屋も三人部屋のみだったという。

 そのせいもあってか、入寮を申し込んだ際は、特に選考や抽選の必要もなく、一発で通ってしまったらしい。

 ……後から思えば、いくら三人部屋しかないからと言って、入学シーズンにすんなりと学生寮に入れる方が、おかしかったのだろう。しかし、すでに生活の変化に追われていたCさんにしてみれば、あまり物事を深く考える余裕もなかったようだ。

 そんなわけで――とにかくCさんは、何の疑いも抱かずに、この学生寮に移ったという。


 Cさんが引っ越してきたのは、入学式の半月前だった。

 家具のたぐいは備えつけのものが用意されていたため、衣類など必要なものだけをスーツケースに詰めての、手軽な引っ越しであった。

 昼過ぎに寮に着くと、すぐに管理人に案内されて、部屋に入った。

 二階の角部屋である。ドアを開けると、三和土たたきの先にリビング――と呼ぶにはやや手狭な空間があり、三台の勉強机が並んでいる。その奥は寝室で、やはり人数分のベッドとクローゼット、貴重品用の金庫などが据えられていた。

 ちなみにバストイレは、一階の共同のものを使う。バスは、ちょっとした広さの浴場があるが、利用可能な時間が決められている。また一階にはサロンがあって、寮内で唯一のテレビが据えられている他、食事もここで出るようになっていた。

 それはともかく――肝心のルームメイトが、部屋に見当たらない。

「この時間は、まだ会えないと思うよ」

 管理人はそう言うと、それ以上は特に何も告げず、足早に引き上げていった。

 おかげでCさんは、手狭とはいえ三人部屋に、一人だけでポツンと取り残される形になってしまった。

 それから荷物の整理などしているうちに、次第に日が暮れてきた。

 ルームメイトは、まだ戻らない。

 やがて夕食の時間になったので、一人きりでサロンに向かった。

 何とも寂しい思いだったが、幸いサロンには、他の部屋の住人が大勢いた。Cさんはさっそく一同に挨拶あいさつし、ようやくこの寮の新たな仲間として、迎えてもらうことができた。

 ……ただ、少し奇妙なことがあった。

 Cさんが、自分の入居した部屋番号を口にした途端、先輩達の数人が、一瞬表情を強張らせたのだ。

 不思議に思ったものの、もしかしたら自分の気のせいかもしれない――。そう思って、特に理由を尋ねたりはしなかった。

 食事を終えた後は、仲良くなった何人かで風呂を済ませ、部屋に戻った。

 ルームメイトは相変わらず、帰ってこない。

 そうこうしているうちに、どんどん夜が更けていく。

 いい加減眠くなってきたが、さすがに挨拶もしないまま、先に寝てしまうのも失礼かもしれない……。そう思って頑張って起きていたが、しかしそこで、寮の門限がとっくに過ぎていることに気づいた。

 ――今日はもう、会えないのかもな。

 Cさんは諦めて部屋の明かりを消し、使われている形跡のない一番端のベッドに、静かに身を横たえた。


 それから――どれぐらい時間が経ったか。

 ふと何かを耳にして、Cさんは目を覚ました。

 慣れない寝室に、ひんやりとした空気が立ち込めている。

 何かが耳にさわる。いびき、だろうか。

 ……視線を巡らせると、隣のベッドの掛布団が膨らんでいた。

 ルームメイトが、戻ってきているのだろうか。

 目を凝らすと、さらにもう一つ先のベッドも膨らんでいるのが分かる。

 ――ちゃんと、いる。

 部屋に自分一人だけでないのだと知り、不意に安堵の気持ちが生まれた。

 朝になったら挨拶しようと思い、Cさんはそのまま目を閉じた。 


 ところが――だ。

 次の朝目を覚ますと、二人の姿はどこにもなかった。

 べつにCさんが寝坊した、というわけではない。むしろまだ明け方に近い。

 なのに、ルームメイトが寝ていた二台のベッドは、すでにもぬけの殻になっていた。

 サロンにいるだろうか、と思い、様子を見にいったが、やはりそれらしき姿はない。

 ――もしかしたら、二人ともスポーツ系のサークルか何かに入っていて、朝練に出てしまったのかもしれない。

 Cさんはそう考えて、無理やり自分を納得させた。

 しかしその日も二人は、Cさんが夜眠りにつくまで、戻ってくる気配がなかった。


 ……こんなことが、四日間続いた。

 二人のルームメイトは、日中は一切、姿を現さない。

 夜Cさんが眠ると、いつの間にか、そばのベッドでいびきをかいている。

 うるさくて目が覚めるが、さすがにこのタイミングでは声もかけづらい。仕方なく眠り直し朝を待つのだが、次に起きた時には、すでに二人の姿はない――。

 ……どう考えても、何かがおかしかった。

 だから五日目の朝――。

 目を覚ましたCさんは、ルームメイトがどこにもいないのを確かめると、すぐに彼らの寝ていたベッドをあらためてみた。

 掛布団の上に、うっすらとほこりが積もっているのが分かった。

 クローゼットも覗いてみたが、服が入っているのは、Cさんのクローゼットのみである。

 もはや、疑いようもなかった。

 始めから――この三人部屋に住んでいるのは、だったのだ。

 Cさんはすぐに部屋を飛び出し、管理人室に直行した。

 管理人は、最初からこうなることを予想していたようで、素直に事情を教えてくれた。

 ……もう何年も前のことだ。あの角部屋で、火事があったという。

 原因は、寝タバコだったそうだ。焼けたのは寝室だけだったが、ちょうどそこで寝ていた学生が三人とも、煙を吸って亡くなった。

 それ以来――、というわけだ。

「でも僕が見たのは、二人だけでしたけど」

「そりゃ、三人部屋だからねえ」

 Cさんの疑問に、管理人はそう言って苦笑した。


 管理人の言葉の意味が分かったのは、翌日のことだ。

 問題の角部屋に、新たな住人が入ってきた。

 紛れもない、生きた人間である。Cさんと同じ新入生で、正真正銘のルームメイトというわけだ。

 実のところ、Cさんは昨日の時点で、真剣に引っ越しを検討していた。だから、さっさと寮を出ていきたいというのが、本音だったのだが……。

 しかし、もし自分が出ていけば、今度はこの新入生が一人になってしまう。

 さすがにそれも忍びなかったので、結局Cさんは、寮に留まることにした。

 しかし――、ということだろうか。

 生きた住人が二人になったことで、今度は幽霊の方が、になった。

 さらに入学式の前日に、新たにもう一人、新入生が入った。

 こうして角部屋が埋まると、ようやく幽霊は、一人も出なくなったという。


 ちなみに、Cさん達三人が卒業して寮を引き上げた後は、幽霊も三人に戻ったそうだ。

 留年しなくてよかった――とは、Cさんの談である。

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