第三十四話 二人いる
男性会社員のBさんが、高校生の頃に体験した話だ。
Bさんには、姉が一人いた。もっとも、大学進学に合わせて家を出ていったため、一緒に暮らしていたわけではない。
とはいえ、姉の移った先は電車で数駅ほどしか離れていないため、その気になればいつでも帰ってこられる距離である。実際、一人暮らしを始めたばかりの頃は、ホームシックに駆られてか、休みの日になると、ちょくちょく家に顔を出しにきていた。
しかし半年も経つと、さすがにそれも落ち着いて、帰ってくることはほとんどなくなったという。
Bさんの姉が一人暮らしを始めた、その翌年の初夏のことだ。
平日の夕方、Bさんが家に一人でいると、突然玄関のドアが開いて、姉が入ってきた。
「あれ、急にどうしたの?」
驚いて尋ねたが、姉は無言である。
いや、それどころか表情もない。まるで反応を見せないまま、フラフラとした足取りで、洗面所へ入っていく。
手でも洗うのかな――と思いながら、気になってBさんが覗いてみると、姉は備えつけの棚を探っている。
彼女が手にしたのは、父親の
姉は剃刀を手にフラフラと、隣接する浴室に入っていこうとした。
さすがにおかしいと感じて、Bさんは慌てて姉の腕に飛びついた。
「何やってんだよ! それ放せよ!」
急いで姉の手から剃刀をもぎ取る。すると姉は、まるで逃げるかのように洗面所を飛び出し、玄関から走り去っていった。
Bさんは急いで、パートに出ている母親に電話をした。事情を伝えると、母親も焦ったように、自分から姉に電話してみると答えた。
……それから、十分ほど経った。
Bさんの携帯電話が鳴った。母親からだ。
すぐに出てみると、真っ先に怒鳴り声が飛んできた。
『今××に電話したけど、ちょうど講義が終わったばかりで、家になんか帰ってないってよ! B、冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ!』
××とは、姉の名だ。
どうやら――姉は、さっきの出来事を否定したらしい。
しかし、Bさんが姉を見たのは事実だ。つまり、姉は嘘をついていることになる。
Bさんは電話を切ってから、自ら姉にかけてみた。
姉はすぐに出た。
『B、お母さんに変なこと言ったでしょ。何で私がリスカしなきゃいけないわけ?』
怒っているようだが、ある意味では当たり前の反応だった。思いつめている様子もなければ、何かを誤魔化している感じでもない。
結局――Bさんが
それから数日後の、土曜日のことだ。
その日も母親はパートに出ていて、家にはBさんと父親だけがいた。
そこへ――突然姉が帰ってきた。
「××、どうした?」
いきなりの訪問に父親が尋ねた。しかし姉は無言のまま、フラフラと洗面所へ行く。
Bさんは嫌な予感がして、急いで姉のもとへ走った。
姉はやはり、剃刀を手に取っていた。
「××、やめろ!」
叫びながら、Bさんは姉を後ろから羽交い絞めにした。
後から飛んできた父親も、姉が剃刀を持っているのを見て、異変を察したらしい。すぐに彼女の手から剃刀をもぎ取り、「何があったんだ!」と強い口調で姉に尋ねた。
姉は答えなかった。無言でBさんの腕を振り解き、また玄関から飛び出していった。
ただ――Bさんには、「ある予感」があった。
その場で姉の携帯電話にかけてみた。姉は、すぐに出た。
ずいぶんと賑やかな音が、電話越しに聞こえた。今ちょうど友達と一緒に、繁華街に来ているという。
嘘をついている感じではない。
そこへ父親が「代われ」と言ってきたので、電話を預けた。父親は、姉としばらく押し問答を続けていたようだが、やがて口数が減り、「じゃあ」と電話を切った。
「でも、さっきのは××だったよな?」
父親に問われ、Bさんは頷いた。ただ、自信があるわけでもない。
「××は、手首なんか切らないよ」
「そう……だよな」
二人して、そう確かめ合うしかなかった。
姉がまたも家に現れたのは、翌週の火曜日のことだ。
Bさんがまだ帰っていない時間である。目撃したのは、家にいた母親だった。
やはり姉が突然帰ってきて、剃刀を手に浴室に入ろうとしたという。
母親が慌てて止めると、姉はいつものように、玄関から逃げていった。
もちろん――当人に電話をしても、「私じゃない」の一点張りだった。
とにかくこれで、姉を除く三人が全員、「姉そっくりの誰か」を見たことになる。
さすがに異常だというので、次の休日を待って、家に姉を呼んだ。緊急の家族会議というわけだ。
姉はBさん達の話を聞いて、気味悪がっている様子だった。しかし、とにかく身に覚えがないという。
そもそも、手首を切る動機がない。特に不満なく生きているから心配しないで――と姉は言った。
もっとも、Bさんの不安はかえって高まった。
もしあれが本物の姉でないのなら――アレは何なのだろう。
あの「姉」が手首を切った時、本物の姉はどうなるのだろう。
「誰か一人、必ず家にいた方がいいんじゃないかな」
Bさんはそう提案したが、さすがに通らなかった。両親とも働きに出ているし、Bさんには学校がある。それに、まさかこんな奇妙なことのために、誰かを呼びつけて留守番してもらうわけにもいかない。
話は何もまとまらなかった。やがて日が落ちたので、そのまま姉も交えての夕食になった。
さすがに
その後姉は「そろそろ帰る」と言って、出ていった。姉の帰る先がよそにあることが、Bさんには、少し切なかった。
ところが――見送った直後である。
出ていったはずの姉が、まだ一分も経たないうちに、突然戻ってきた。
「あれ、忘れ物?」
尋ねたが、姉は無言で洗面所へ向かう。
とっさに全員が気づいて、「姉」を押さえつけた。
Bさんは「姉」を両親に任せて、すぐに本物の姉の携帯電話を呼び出した。
『――B、どうしたの?』
何事もない声が、スピーカー越しに聞こえてきた。やはり、今ここにいる「姉」は本物ではないのだ。
「××、もう一人の××が今家にいる! すぐ戻ってきて!」
そうBさんが叫んだ時だ。両親に押さえられていた姉が、突然凄まじい力で二人を振り解いた。
ただし、玄関には向かわなかった。
もう一人の「姉」は剃刀を手にすると、すぐさま浴室に飛び込んで、内側から鍵をかけてしまった。
「××、何やってんだ!」
「すぐ出てきなさい!」
両親がドアを叩きながら叫ぶ。Bさんは焦りながらも、本物の姉が戻ってくるのを、じっと待った。
本物と偽物――。二人を引き合わせて何が起こるかは、分からない。ただ、この二人が「別人なのだ」と証明できれば、得体の知れない呪縛のようなものから、解放されるのではないか……。
そんな気持ちが、Bさんの中にはあった。
「ドアを破るぞ」
父親が言って、洗面所を出ていった。何か道具を取ってくるつもりだろう。
Bさんは、手にした携帯電話に目をやった。すでに切られている。
姉は……まだ戻ってこない。
さっき電話をしてから、三分は経つ。
偽物が現れたのは、姉が家を出てすぐだった。Bさんが電話をしたのもその時だから、もう戻ってきてもいいはずなのに――。
嫌な予感がした。
Bさんは恐る恐る、もう一度姉の番号を呼び出してみた。
……着信音が聞こえた。
音は、浴室からだった。
頭が真っ白になると同時に、父親が金槌を持ってきて、ドアの鍵を叩き壊した。
真紅に染まった浴槽が見えた。両親がともに悲鳴を上げるのが、分かった。
……結局、Bさんの姉は助からなかった。
手首ならまだしも、彼女が切り裂いたのは、首そのものだったからだ。
動機についても、やはり分からなかった。
ただ一つ言えるのは、あの夜すぐに戻ってきた「姉」は、本物だった――ということだ。少なくともBさんの両親は、そう考えている。
しかし、Bさんだけは納得できていない。
もしあの「姉」が本物だったなら、Bさんの電話に出た姉は何だったのか。その時の着信音は、どこで鳴っていたというのか。
分からないことだらけだった。しかし事実、Bさんの姉は、もうこの世にいない。
――自分そっくりの人間が現れると、死期が近い。
古くから語られるそんな忌まわしい言い伝えを、Bさんはそれ以来、嫌でも信じているそうだ。
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