第五十九話 婚約
男性会社員のFさんと、その恋人であるCさんの身に起きた話だ。
……きっかけは、Fさんからのプロポーズだったという。
場所は某県の運河にかかる、都市の夜景が臨めるブリッジだった。
一見恰好のデートスポットに思えるが、意外にもカップルの姿は他になく、
もっとも、プロポーズを前に緊張していたFさんにとっては、周りの視線の有無など気にかけている余裕もなかった。だからとにかく大きな声で、堂々とCさんに、結婚の意志を示したそうだ。
Cさんも喜んで受け入れた。二人にとっては、この上ない瞬間だったに違いない。
ところが――それからというもの、奇妙なことが立て続けに起こり始めた。
最初の異変は、互いの家族同士で会食をおこなった時のことだ。
もともとFさんもCさんも、両家公認のカップルである。今回の婚約も、誰からの異存もなく、そういう意味では、気楽な祝いの席になるはずだった。
Fさんの名でレストランを予約し、当日は全員で待ち合わせて、そちらへ向かった。
ところが、いざ店に着いてみると、案内役の店員から「すでにお連れ様がお見えになっています」と笑顔で言われた。
お連れ様も何も――互いの家族が全員で揃って来たのだ。他に連れはいない。
何かの間違いじゃないか、と店員に尋ねたが、「F様のお名前で、先ほど女性のかたがお見えに――」と返された。
「昔の彼女が押しかけてきたんじゃないか?」
Fさんの父親が、そんな軽口を叩いた。
そう言われても、Fさんには身に覚えのない話だ。とにかく実際に顔を見て確かめようということになり、店員の案内で、全員でテーブルに向かった。
もっとも、相手の正体は分からなかった。そこには誰の姿もなかったからだ。
しかし、やはり店員の勘違いだった――と決めつけるのも、早いようだった。
テーブルの上には、水の入ったグラスが置かれたままになっていた。
中身が減っている。誰かがここに座っていた、ということだろうか。
店員も含めて全員が、
だが、店の中にその「連れ」の姿が見当たらないのは、確かだ。
他の店員にも確かめたが、誰もそんな女性客のことは覚えていないという。
だとしたら――先に現れてこのテーブルに着いていたのは、何者だったのか。
結局答えはうやむやのまま、その日は終わった。
しかしこの奇妙な出来事は、一度きりでは済まなかった。
Fさんが、友人達との飲み会の席に、Cさんを連れていった時のことだ。
あらかじめ「婚約者を紹介する」と伝えておいたのだが、いざ二人で会場の居酒屋に遅れて着いてみると、店の入り口まで迎えに出てきた友達から、おかしなことを言われた。
「あれ? お前の嫁さんなら、とっくに一人で来てるぞ」
……その女性は、自らFさんの婚約者だと名乗り、酒宴に加わっているらしい。
Fさんは慌てて友人達のもとに向かった。だがそこには見知った顔があるばかりで、それらしき女性など、どこにも見当たらない。
「本当にいたの?」
念のため一同にそう聞いてみたが、誰もが「間違いない」と、はっきり頷いた。
ただし、確かに「Fさんの婚約者」と飲んでいた記憶は一様にあるものの、相手がどんな容姿だったのか、そしていつの間に消えてしまったのかまでは、誰一人として、まったく思い出せなかったという。
もっとも――食事の席に現れるだけなら、まだ害は少なかったかもしれない。
ところが事は、二人の新居にまで及んだ。
ある日曜日のことだ。FさんとCさん、それにCさんのご両親も同伴で、不動産屋の案内で、いくつかの物件を回った。その夜みんなで相談し、「ここに決めよう」と結論を出して、翌朝Fさんから不動産屋に電話をした。
しかし相手の反応は、どうにも奇妙なものだった。
『その物件でしたら、先ほど奥様の方から、ここに決めたいということでお電話をいただいておりますが……』
もちろん、後でCさんに確かめても、「私は電話してない」という答えが返ってきただけだった。
ともあれ――目当ての物件であることには違いない。二人は釈然としないまま手続きを済ませ、日を見て引っ越すことにした。
ところが今度は引っ越し当日になって、またも不可解なことが起きた。
二人の立会いのもと、引っ越し業者が慌ただしく新居に出入りをする。その中でふと、玄関に見慣れぬ靴が置いてあることに気づいた。
女物の白いハイヒールである。Cさんのものではないが、かと言って、引っ越し業者がこんな靴を
――誰かがどさくさに紛れて、家に忍び込んだのではないか。
そんな不安を覚えもしたが、あちこち調べても、不審者が隠れている様子はない。そもそも人の家に忍び込むつもりなら、玄関に靴を放置したりはしないだろう。
問題のハイヒールは、土がこびりついて、だいぶ汚れていた。気味が悪かったので、引っ越し業者が引き上げた後で、ゴミ袋に突っ込んだ。
ところが――実はもう一つおかしなものが、どさくさに紛れて新居に上がり込んでいた。
荷物、である。
二人で片づけをしていると、まったく覚えのない段ボール箱が、他の荷物に紛れて置かれているのに気づいた。開けてみると、これまた土でどろどろに汚れた女物の服が、ぎゅうぎゅうに詰まっている。
もちろん、これもCさんのものではない。
思わず二人で顔を見合わせた。
警察に相談するべきか――と思った。もしかしたら、悪質なストーカー事件かもしれないからだ。
だが、結婚を前に厄介事を背負いたくない、という気持ちが
それから数日してのことだ。Fさんの婚約者を名乗る女が、今度は市役所に現れた。
Fさん達が婚姻届を出そうとしていた、まさにその日だった。
二人に先駆けて市役所に現れたその女は、前もって用意してきたFさんとの婚姻届を、窓口に提出しようとしたらしい。しかし書類の内容に不備がありすぎた上に、女の挙動が明らかにおかしかったので、断られたそうだ。
後でFさんとCさんが窓口を訪れ、そこでFさんの名前を見た窓口の職員が気づき、「そういえば、実はさっき……」となったわけだ。
幸い二人の婚姻届は無事受理されたが、職員の「おめでとうございます」という言葉には、どこか空々しさが付きまとっていた。
そして――この頃から、得体の知れない何者かの自己主張は、次第に激しさを増していったという。
それは女で、明らかに二人の新居に住みついている。そして、まるでFさんの妻であるかのように振る舞っている……ように思えるのだ。
例えば、Fさんが仕事から帰ってくると、「お帰りなさい」と囁く声が聞こえる。
思わず「ただいま」と答えかけるが、共働きであるCさんはまだ帰っておらず、家の中は真っ暗である。
だったら今の声は何だったのか……と思うが、他には誰の姿もない。
ただ居間のテーブルを見ると、空っぽの茶碗や皿や箸が、まるで夕食の支度でもしてあるかのように、きちんと並べられているという。
そういう時は決まって、浴室のバスタブに、水だけが張ってある。
沸いてはいない。あくまで、水のままだ。
もちろんこれも、あらかじめ二人のどちらかが入れていったものではない。
もっとも――これだけで済めば、まだどうにか我慢できる範囲だろう。
しかし得体の知れない怪異は、二人の安眠すら阻んだ。
……夜中になってFさんが布団に入ると、足の裏にぺったりと、人肌のような感触が当たる。
――布団の中に、誰かが入り込んでいる。
Cさんではない。Cさんは隣の布団で寝息を立てている。
……だったら、何がいるのか。
Fさんは恐る恐る、自分の布団を剥ぐ。が、誰もいない。
不可解に思うものの、仕方なくその布団で眠る。すると今度は、隣でCさんが悲鳴を上げて飛び起きる。
何でも夢の中で、見知らぬ女に首を絞められたと言うのだ。
それでも夢だと分かると、安心してまた眠りにつく。しかし少しすると、再びうなされて飛び起きる。
それが何度も繰り返される。Cさんは怯えて、Fさんの布団に入り込んでくる。そのまま添い寝する形で眠るが、気がつくとCさんの体は独りでに元の布団に戻っていて、また夢の中で首を絞められて、悲鳴を上げる――。
こんなことが、毎晩でないとはいえ、幾度となく起きた。
Cさんは堪らなくなって、一時的に実家に戻った。
その後Fさんが一人で新居にいる間は、いつも
そして極めつけは、挙式の日のことだった。
Cさんがウェディングドレスに着替えようと控え室に入った直後、凄まじい悲鳴が上がった。
Fさんが慌てて飛び込んでみると、Cさんがうずくまって泣きじゃくっている。
隣には、着付けを手伝うはずだった式場の女性職員がいたが、こちらも顔がすっかり青ざめている。
聞けば、この控え室に、見知らぬ女がいた――という。
女はウェディングドレスを着て、奥の壁を向いて立っていたそうだ。
そのドレスが、Cさんが着るはずのものだったこともあって、職員が不審に思って声をかけた。すると、その女がクルリと振り返った。
顔が――血塗られたように、べったりと真っ赤に染まっていた。
Cさん達が驚いて悲鳴を上げると同時に、女はパッと消えた。
女の着ていたドレスは、そのまま床に落ちたという。見れば確かに、控え室の奥に、ドレスが無造作に脱ぎ捨てられている。
ところどころに、土が付着しているのが見えた。
職員が、すぐに別のドレスを用意すると申し出てきた。しかしCさんは、「もう帰りたい」と
Fさんは、そんなCさんをどうにか宥めて、何とか式に臨んだ。ところが今度は、会場のマイクやスピーカーが次々と不調を
さらに、新郎新婦の生い立ちを紹介するスライドショーでは、Cさんの生い立ちだけが機械の故障で映らなくなった。
出された食事は、Cさんの皿にだけ、虫が混入していた。
とにかく――まるでCさんを狙い撃ちにするかのように、次々とトラブルが起こる。
結局、式は最後までおこなわれたが、Cさんの表情は、誰が見ても分かるほど青ざめ、晴れの舞台とは程遠い有り様だった。
……その式が終わった、直後のことだ。
この日のために郷里から出てきていたFさんの祖母が、すたすたと――もう八十を過ぎているが、足腰はしっかりしている――近寄ってきて、何があったのかと尋ねてきた。
人生の
Fさんが包み隠さずに事情を話すと、「そういうことは、もっと早く周りに相談するもんだ」と叱られた。
少なくとも、FさんとCさんが、何か厄介なものに付きまとわれているのは、間違いないのだ。
祖母はさらに、「どこで結婚の約束をした?」と聞いてきた。
Fさんが、プロポーズしたブリッジの名を告げる。祖母は、合点が行ったように頷いた。
「橋か。橋はいかんわ。場所によっては、こういうことが起きるからなぁ」
祖母はそう言うと、すぐに紙とペンを用意して、Fさんに「あるもの」を書かせた。
三本の長い線と、一本の短い線――。即ち、
三行半というのは、江戸時代の庶民の間で、離縁状として扱われていたものだ。祖母はこの三行半を丁寧に折り畳むと、Fさんに持たせた。
「さっき言った橋の欄干から、川に落とすんだ」
ただしこれは、Fさん一人でやらなければならない、という。
Fさんは半信半疑ながらも、祖母の言葉に従うことにした。
さっそく車で例のブリッジに行き、三行半を、欄干の上から離した。
……それは、風に舞うこともなければ、
まるで何かに引きずり込まれるかのように、あっという間に水中に没し、見えなくなったそうだ。
しかしこれを境に、FさんとCさんの身に起き続けた怪異は、ようやく
……後から知ったことだが、そのブリッジはいわゆる「縁切りスポット」として有名であり、デートには不向きな場所だったらしい。
何故にそのような
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