第六十話 住職の話
S県某寺の住職であるGさんは、その立場上、しばしば町の人から、奇怪な依頼を持ち込まれるという。
怪しい写真が撮れてしまったから供養してほしいとか、妙なものに付きまとわれているから追い払ってほしいとか、大抵はそのような感じだ。
そういう時、Gさんは必ず初めに、相手にこう伝える。
――自分には、いわゆる霊能力と呼べるようなものはない。目に見えないものを見通す。超常的なものと対話をする。そういったことには一切期待しないでほしい。
――自分の役目は、あくまで経を読むことである。正しく、心を込めて、読む。
――その心を、生者死者を問わず聴く者に伝えることによって、仏道に導く。
――それを理解した上で、経を読んでほしいというのであれば、謹んでお受けする。
このように言うと、依頼者の六割ぐらいは帰っていくそうだ。
一見意地悪に聞こえるかもしれない。しかしGさんにしてみれば、至って正論を言っているだけである。
僧侶は宗教家であって、霊能者ではない。オカルトストーリーのようなフィクションを真に受けて、おかしな幻想を抱かれても、その期待に応えることはできない。
もし依頼者が、霊能力的なものに期待しているのなら、最初から霊能者を名乗っている人を当たるべきである――というわけだ。
こうして、六割が減る。
残りは四割である。
その四割は、
Gさんは、僧としての自分を見込んでくれた彼らのために、全身全霊で経を読む。
例えば、こんなことがあった。
依頼者は三十代の男性だった。
独身なのだが、ここ数箇月、何者かに付きまとわれているという。
何者なのかは分からない。しかし昼夜を問わず、彼が一人でいる時は、背後に佇んでいる。息づかいでそれが分かる。
振り返って正体を確かめようとしても、誰もいない。洗面所や風呂場の鏡にも、何も映らない。
なのに時々、指先でうなじを
妙にねっとりとした、まるで愛撫のような撫で方だそうだ。
かと言って、払い除けようにも実体がないから、どうすることもできない。
ある時、諦めて撫でられるがままにしていたら、不意にぬらりとした生暖かい感触が、首筋をつっ……と走った。
舌だ――と気づいた。
さすがに悲鳴を上げて洗面所に走り、首筋を水で洗った。
それからタオルでうなじを拭うと、そのタオルに、覚えのない口紅の色が、べったりと染みついたという。
……こんなことが、もうずっと続いている。
どうしても助けてほしいと男性が言うので、Gさんは彼を仏堂に通し、経を読んだ。
一時間も読んだ頃、ふと背後で、女の囁く声がした。
「――ごめんなさい」
詫びるような声とともに、何かがすぅっと消える気配があった。
その後男性は、ようやく背後の気配から解放されたそうだ。
例えば、こんなこともあった。
依頼者は二十代の女性で、彼氏と二人で訪れた。
ここ数箇月、妙な女につけ回されているという。
ボサボサ髪に、化粧の濃い、中年女だそうだ。
それがいつも、どこからか自分を睨んでいる。
家にいれば窓の外から。通勤電車では駅のホームから。会社では廊下から。買い物先のスーパーでは棚の陰から――。
とにかくどこにいても、出る。
明らかにおかしいと感じて、別の会社に勤めている彼氏に相談してみた。彼はその中年女の特徴を聞くと、サッと顔を青ざめさせて、「もしかしたら、俺の知ってる人かも」と呟いた。
彼の同僚だったそうだ。ただ、すでに会社は辞めているという。
辞めた理由は分からない。そもそも、同じ部署であるにもかかわらず、言葉を交わしたことなどまったくなかったからだ。
……一つ確かなのは、その中年女が会社を辞めた時期は、彼が依頼者の女性と付き合い始めた時期と、ピタリと一致する――ということだ。
もしかしたら、典型的なストーキング事件かもしれない――。二人はそう思って、警察に相談した。
問題の中年女のことを話すと、警察の方でも調べてみてくれた。
……しかし、すでに亡くなっている、とのことだった。
死因は教えてもらえなかった。聞いても言葉を濁されたから、少なくとも、まともな死に方ではなかったのだろう。
問題の中年女は、それからも現れ続けた。
一番最近では、つい一昨日のことだ。
彼氏と二人でタクシーに乗ったら、そのタクシーの助手席に座っていたそうだ。
運転手は何も言わない。そもそも存在に気づいてない。
二人は仕方なく目的地まで、死んでいるはずの中年女に無言で睨まれながら、じっと乗り続けたという。
……話を聞き終えたGさんは、さっそく読経に移った。
「――ごめんなさい」
一時間ほどで、女の声がどこからともなく聞こえ、そして消えた。
また、こんなこともあった。
ある高校生の少年が、両親と妹と四人で訪ねてきた。
何でも彼と同じクラスの女子が、
場所は校舎だったり家の中だったりと、様々である。しかし怪我をした全員が、「誰もいないはずなのに、誰かに突き飛ばされた」と証言しているらしい。
担任の先生も女性だったが、やはり階段から転げ落ちた。
もっとも少年自身は、初めはこの出来事に関心がなかった。ただあまりに続く事故に、「気味が悪いな」と、漠然と思っていただけだったそうだ。
ところがある日、学校ではないすぐ身近なところで、同じことが起きた。
被害に遭ったのは、隣に住んでいる奥さんだった。普段からよく挨拶もする親しい人だったが、その奥さんがまったく同じように、歩道橋の階段から転げ落ちた。
……さすがに、嫌な予感を覚えた。
もしかしたら、一連の事故に遭っているのは、自分に関係のある女の人ばかりなのではないか――。
友達にその話をすると、自意識過剰だと笑われた。しかしその日のうちに、今度は母親と妹が階段から落ちた。
幸い二人とも軽傷だったが、一週間はまともに歩けなかったという。
こんなことが散々続き――ついに昨夜のことだ。
少年がベッドで眠っていた時だ。不意に息苦しさを覚えて、ハッと目を覚ました。
見ると、自分の首元に、何者かがしがみついている。
ボサボサ髪の、気味悪い女だった。
少年が悲鳴を上げて暴れると、女はパッと消えたそうだ。
……話を聞き終えたGさんは、さっそく四人の前で経を読んだ。
やはり一時間ほどで、また女の声が聞こえたという。
「――ごめんなさい」
小声で囁き、そしていつものように、消えた。
普通に考えれば、一つの町でこんなことが、何度も起こるわけがない。
おそらく怪異を起こしているのは、いつも同じ者なのだろう。
経を聴けば、一時的に諦める。けれどもほとぼりが冷めると、また邪念を募らせ、男に憑く――。
きっとその女性は、自分でも抗えないほど深い、おぞましい色欲に囚われているに違いない。
だから、Gさんは思う。
――自分は霊能者ではない。しかし、僧侶である。
――ならばこそ、いつかこの女性の魂を、救い出したい。
それが自分の務めであると信じて、Gさんは日々、経を読み続けている。
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