第五十七話 混線

 数年前のことだ。

 都内のある寺のそばを歩いていたところ、不意に携帯電話が鳴った。

 ××さんという、知り合いの男性編集者からである。その場で立ち止まり、電話に出た。

「もしもし」

『……おせわになっております。○○へんしゅうぶの××です』

 聞こえてきたのは、知らない女の声だった。

 ただ、名乗った名前は、確かに男性編集者のものである。「あれ?」と思っていると、すぐ直後に、当の××さんの声が続いた。

『お世話になっております。○○編集部の××です』

「ああ、どうもお疲れ様です」

『……おつかれさまです』

 また女の声がした。

 僕が再び首を傾げると、すぐに××さんの言葉が続いた。

『お疲れ様です』

 まるで××さんが、女の台詞を真似て、後に繰り返しているようである。

『……いま、おでんわだいじょうぶですか?』

『今、お電話大丈夫ですか?』

 女の声と××さんの声が、順番に続く。あまりに妙だと思い、僕は××さんの言葉を遮って、尋ねてみた。

「あの、隣にどなたかいらっしゃいます? 女性のかたとか――」

『……いいえ、とくにだれも』

『いいえ、特に誰も』

 また、先に女の声がした。

 どこかよその会話が混線している――と考えるべきだろうか。しかしそれならば、二人の台詞がピタリと一致しているのは、なぜだろう。

 もしかしたら実際には、××さんの横に誰かがいるのではないか。その人は彼の女上司か何かで、××さんに指示して、一字一句違わぬ台詞で、僕への電話をかけさせている――。

 ……いや、さすがに無理がある。ミステリー小説でもあるまいし、いったいどんな状況になれば、そんな事態が起こるのか。

 馬鹿なことを考えるのはやめて、僕はもう一度××さんに聞いてみた。

「さっきから女性の声がするんですよ。その声と同じことを××さんが繰り返してるから、そばに誰かいるのかなって――」

『……ああこれ、そちらでもきこえてますか』

『ああこれ、そちらでも聞こえてますか』

 女の声と××さんの声が、やはり順番に応えた。

『……さっきからぼくがいおうとしてることをさきにいうんで、きもちわるいんですけど』

『さっきから僕が言おうとしてることを先に言うんで、気持ち悪いんですけど』

 それから僕と××さんは、しばし押し黙った。

 ふと振り返れば、ひと気のない寺が、ひっそりと佇んでいる。

 この場所が悪い――のだろうか。

 僕がそう思った時だ。

『……はやくなにかいって』

 女の声が、ぼそりと呟いた。

 スピーカーの向こうで、××さんの怯えたようなうめきが、微かに聞こえた。

 僕もまた慌てて、「今外出先なんで、一時間後にまたかけ直してください」と叫び、一方的に電話を切った。

 それからもう一度、寺を振り返る。何だかここに立っていることが、無性に不安になって、僕は足早に帰路を歩き出した。

 いや、一番不安なのは、××さんの方だったに違いないが――。

 ……そう思ったところで、ふと気づいた。

 最後の女の言葉――。あれはもしかしたら、××さんの心の声を、僕にそのまま伝えていただけかもしれない、と。

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