第五十六話 閉ざされたプールに
O県の小学校で音楽を教えている、I先生という女性から聞いた話だ。
I先生が管理を任されている音楽室は、校舎の四階にある。
窓からは、隣の低い校舎の屋上が見下ろせる。そちらはプールになっていて、夏の日中ともなれば、常に生徒が賑やかな声を上げている。
もっとも、それも秋までの話だ。九月半ばにプール納めを済ませれば、また翌年の夏が来るまで、プールは閉鎖される。
肌寒い季節に、緑色に濁った水を湛えるプールの景色は、あまり眺めていて気持ちのいいものではない。だからI先生は、閉鎖中のプールなど、いつも気に留めていなかった。
ある秋のことだ。
文化祭が近づくにつれて、音楽の授業でも、舞台でやるコーラスや演奏の練習が増えてきた。中には放課後練習するというクラスもあって、I先生も指導に駆り出されることになった。
この練習自体は一時間ほどで終わったが、当然その後は、明日の授業の準備がある。I先生は、練習場である体育館から生徒達を送り出すと、急いで音楽室に向かった。
鍵を開けて中に入ると、放課後特有のひっそりとした空間が、そこにあった。
授業で流すCDをリストアップし、機材の調子をチェックする。それから、しばらく使っていなかった楽器の点検などをしているうちに、少し疲れを覚えてきた。
外の空気を吸おうと、窓を開けた。
西日の強い夕方だった。自然と、隣のプールサイドが目に入った。
そこに――男の子がいた。
服は着ていない。剥き出しの背中を丸め、両足を濁った水に浸し、一人でプールの縁に座り込んでいる。
顔は、
……あの子、何やってるんだろう。
I先生は首を傾げた。
今は十月だ。プールは閉鎖されている。生徒は入れないはずだ。
ましてや――裸で、だなんて。
屈んでいるせいで、水着を着けているかどうかは、遠目にはよく分からない。ただ少なくとも、水泳帽は被っていない。濡れた黒髪が、丸い頭にペッタリと張りついている。
……あの濁った水で泳いでいるのだろうか。何にしたって、普通ではない。
声をかけようか――と思った。しかし、それにはやや距離がある。
I先生は気にしながら、窓を開けたまま、授業の準備に戻った。
そのまま三十分ほど作業をして、もう一度窓の外を見ると、男の子の姿はもうなかった。
後で職員室に戻って聞いてみたが、プールを使う許可を生徒に出した先生は、一人もいなかった。
それからというもの、I先生はしばしば、この男の子の姿を見るようになった。
男の子はいつも、放課後のプールサイドにいる。
前屈みの姿勢を変えることなく、丸めた裸の背を西日にかざし、じっと動かない。
やがて秋が終わりに近づき、プールの底が見えなくなるほど水が濁っても、それは同じだった。
さすがに――異常だ。
見かねて、一度プールに行ってみたことがあった。
しかしいざ着いてみると、フェンスに鍵がかかっていて、中に入れない。
プールを管理している先生に事情を話し、鍵を持ってついてきてもらったが、プールサイドには男の子の姿など、どこにもなかった。
ただ、濃い緑色に濁った水が、静かに
「……このプール、幽霊でも出るんですか?」
自分より長く勤務している先生にそう尋ねたが、「ここで亡くなった子なんていませんよ」と苦笑されただけだった。
……こうして原因が分からないまま、冬が来た。
気がつくと、男の子は現れなくなっていた。
I先生はホッとして、次第にこのことを忘れていった。
そして――翌年の六月のこと。
間もなくプール開きということで、六年生が総出で、プールの清掃をおこなうことになった。
当日は、朝のうちから排水を始めて放置し、水が抜け切った放課後から清掃となる。もちろん生徒だけでなく先生も参加するが、I先生は管轄外なので、手伝う必要はない。
だから――この日、I先生が休み時間に音楽室の窓からプールを眺めたのも、特に理由はなかった。
本当に、何気なくだった。
何気なく、排水中のプールを眺めたら――。
……あの子がいた。
プールサイドではない。底だ。
水位が下がり、肉眼で見えるようになったプールの底に、あの男の子が、体育座りでうずくまっていた。
まるで――冬に姿を消してから、ずっとそうして隠れていたかのように。
「あ……」
I先生がそう声を漏らした瞬間だった。
むくり、と男の子が動いた。
思わず息を呑んだI先生の視線の先で、どろどろに汚れた小さな体が、スッと立ち上がった。
そして――初めて顔を上げた。
目が合った。
男の子はこちらを見上げ、苔にまみれた顔を歪めて、ニタァ……と笑った。
形容し難い笑顔だった。
少なくとも、人間の顔ではなかった。
I先生が硬直する中、男の子は素早くプールの壁をよじ登ると、ペタペタと走って、どこかへ消えていった。
後には、一筋の
しかし、そんな謎の男の子の存在を示す唯一の手がかりも、放課後のプール清掃で、きれいに消されてしまったという。
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