第五十五話 炎天の下で

 折しも、その年は猛暑だった。

 当時高校で陸上部に所属していたHさんは、夏休みも毎日のように、練習に駆り出されていた。

 晴天に晒された無風のグラウンドは、ねっとりとした灼熱の空気に満ちている。立ち止まっているだけで焼けただれそうな中を、汗だくになって走る毎日が続いていた。

 八月の始めのことだ。いつものようにみんなでグラウンドの周回を始めた時、Hさんは彼方に妙なものを見た。

 白線で描かれたコースの、スタート地点から見てちょうど対角線上――。そこからさらに少し離れた、ひと気のない校舎脇に、何かがうずくまっているのだ。

 炎天の下、立ち込める陽炎かげろうに遮られて、「それ」はただの黒い塊に映った。

 しかしコースを進むにつれ、「それ」との距離が縮まってくると、どうやら人の形をしたものらしいと思えてきた。

 体を折り曲げて、屈んでいるように見えた。正体は分からない。

 走りながら前を通り過ぎる。横目でやり過ごし、「それ」が視界から外れる。

 コースを辿ってスタート地点に戻り、二週目に入ったところで、Hさんが遠目に見やると、「それ」はまだ同じ場所にいた。

 少しだけ体勢が変わったのか、身を起こしかけているように見えた。

 何だろう――と思ったが、走っている最中では、深く考えることなどできない。

 前を通り過ぎる。二週目を終えても、やはり「それ」はいた。

 すでに身を起こし切り、立ち上がっていた。

 体のところどころがボロボロに欠けて見えた。

 人の形をしているはずなのに、「それ」は明らかにいびつだった。

 Hさんは目を逸らした。見るべきでないものを見てしまったのかもしれない。

 ――熱い。

 滴る汗が乾いて、肌に張りつくのを感じる。

 走るうちに、またも「それ」との距離が縮まってくる。

 近づきたくない――。

 そう思い、横目にやり過ごしかけた時だ。

 不意に「それ」が跳ね、コース上に躍り出た。

 まるで、Hさんが前を通りかかるのを待っていたかのように思えた。

 歪な体をくねらせるようにして、「それ」はHさんを後ろから追いかけ始めた。

 周りの部員はまったく声を上げない。Hさんの目にしか映っていないのかもしれない。

 しかし幻ではない。振り返らずとも、むわっとするような熱気の塊が背中に迫るのが、はっきりと伝わってくる。

 ――熱い!

 炎に焼かれるかのような、チリチリとした感覚が、ユニフォーム越しに背中を焦げつかせる。

 ――追いつかれたくない!

 ――捕まりたくない!

 Hさんはペースを速めた。その弾みに、一つ前を走っていた部員を追い抜いた。

「あっ!」

 悲鳴が上がった。

 たった今Hさんに追い抜かれた部員が、すぐ背後でドサッと倒れたのだ。

 Hさんは足を止め振り返った。起き上がろうとしない部員の姿に、グラウンドが騒然となっていた。

 つい今まで自分を追っていた「それ」は、もうどこにもいなかった。


 倒れた部員は病院に運ばれ、熱中症と診断された。

 幸い命に別状はなく、数時間もすると回復した。ただ、彼は妙なものを見たと言い張った。

 ――Hさんに追い抜かれた直後、何者かに後ろから肩を叩かれた。振り返ってみると、そこにはグネグネと走る何かがいて、片方が欠けた目を細めて、ニタァッと笑ったそうだ。

 この話は、生徒達の間に一気に広まった。正体は空襲で爆撃を受けた子供だとか、炎天下の練習で命を落とした部員だとか、いろいろな憶測がまことしやかにささやかれた。

 しかし実際は、それよりも遥かに禍々まがまがしいものだった――。Hさんは、あの炎天の記憶を思い起こすたびに、そう考えている。

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