第五十四話 山道で遭ったもの
軽登山を趣味にしている、地方公務員のCさんが体験した話だ。
初夏の連休を利用して、数年ぶりに、N県の某山に遠征した。
早朝から山に入り、まだ涼しげな空気の立ち込める森の土道を歩いていく。
始めは緩やかな傾斜は、次第にところどころで急勾配を挟むようになり、やがて天然の石段に至る。
石段と言っても、小ぶりの岩の塊が
かつて初心者時代に一度来た時は、仲間の手を貸りてここを乗り越えたが、今日は一人だ。周りには他の登山者もいない。
実は少し遠回りをすれば、もっと緩やかなコースもあった。それでもCさんが、敢えてこの石段を選んだのは、ひとえに自分の成長ぶりを確かめたかったからだ。
すぐそばの沢から立ち昇る細かな水の粒が、深緑の樹々を抜けて流れてくる。気温が上がり、体が熱くなってくる時間には、心地よい。
ゴウゴウと轟く水音に鼓舞されながら、Cさんは石段を登り始めた。
一歩一歩、全身を持ち上げるようにして、少しずつ岩を踏み越えていく。
転ばぬよう慎重に足に力をこめ、滴る汗をタオルで拭い、ようやく中ほどまで来る。
一息つこうと、顔を上げた。そこで――Cさんはようやく気づいた。
数メートルほど進んだ先に、人がいた。
相手は、同じ登山姿の男だった。石段の傍らにある平らな岩の上に、ザックを背負ったまま腰を下ろし、水筒の水を口に含んでいる。
今まで登るのに夢中で、まったく気づかなかった。
年齢は自分と同じで、四十代ぐらいだろう。色が浅黒く、ギョロリとした目をしている。顎の周りに無精ひげが目立つ。
仲間がいることに勇気づけられ、Cさんは再び登り始めた。
男に追いつく。「こんにちは」とお辞儀をして、前を通り過ぎようとする。
……その時だ。男の姿を間近で見た瞬間、Cさんは思わず、我が目を疑った。
左足がないのだ。
ズボンの片側が膝の辺りで結ばれていて、そこから先が何もない。
ギョッとして、つい表情が強張る。が――すぐに思い直した。
最近は、こういう人でも登山を楽しめるようにと、いろいろな活動がおこなわれているらしい。中には充分にトレーニングを重ねて、健常者以上の体力やテクニックを身に着けている人も、少なくないと聞く。
山にこのような人がいたからといって、珍しいことではないのだ。
驚いたことをむしろ恥じながら、Cさんは男の前を通りすぎた。
石段はまだまだ続いている。沢の轟きを全身に感じながら、少しペースを上げ、十ほどの岩を伝って登る。
しかし、だいぶ男との距離が開いたところで、Cさんはもう一度足を止めた。
手を貸した方がいいのだろうか――。
ふと、そう思ったのだ。
彼は一人だった。介助者はいないようだ。ここは自分が助けるべきではないのか。
……いや、逆かもしれない。ここまで一人で来られるだけの技術があるということは、こちらが余計な手を出せば、迷惑がられてしまう可能性もある。
どうしようか、と迷いながら、Cさんは後ろを振り返った。
男は、まだ座っている。
二人の間には、すでに数メートルの高低差ができている。眼下にやや小さく見える男を、Cさんは目を凝らして、よく眺めた。
「……あれ?」
そこで、妙なことに気づいた。
男は、杖のような体の支えになりそうなものを、何一つ持ってないのだ。
彼は……どうやってここまで登ってきたのだろう。
Cさんがそう思った時だ。
男が、不意に立ち上がった。
片脚だけでよろめくこともなく、重そうなザックを軽々と背負ったまま身を起こし、こちらをまっすぐに見上げた。
ギョロリとした目玉が、Cさんを捉えた。
男はニィッと歯を見せて笑うと、そのまま石段を、凄まじい速さで登り始めた。
片脚だけで、ピョンピョン飛び跳ねながら。
「うわぁっ!」
思わず悲鳴を上げたCさんの目の前に、瞬く間に男の顔が、グイッと迫った。
黄色く濁った目玉が、Cさんを真正面から、ギョロリと睨んだ。
――ぶつかる!
とっさに身を竦ませた。……だが、その必要はなかった。
男はそのまま、Cさんの頭の上をピョーンと飛び越えて、風のように石段を登り去っていった。
Cさんは、その場に尻餅をつきながら、男の消えていった彼方を、呆然と見上げた。
沢の轟く音が、まるで男の笑い声のように聞こえる。
下りよう――と思った。
震える足を叱咤して、石段を逆に伝った。さっき男が座っていた岩の上には、なぜか一握りの塩が、こんもりと盛られていた。
Cさんはそれ以来、この山には登っていない。
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