第五十一話 不可解な話
以前紹介した、第四十六話「糸玉」を、少しだけ彷彿させる話である。
僕の知人に、Fさんという男性がいる。
某大学に研究員として勤めていらっしゃるかただが、このFさんから、どうにも居心地の悪い、不可解な話を聞かされた。
……以前Fさんが、プライベートでN県に行った時のことだ。
目的は、某山中にある史跡の見学だったが、その際に奇妙なものを見たという。
糸が――樹々に絡みついていた、というのだ。
「糸玉の話、あったじゃないですか。あれと同じ感じですよ」
かつて僕から聞いた怪談を挙げて、Fさんはそう説明した。
しかし「糸玉」は、I県での話である。Fさんが行ったN県とは、だいぶ離れている。
いや、もちろん場所が違うからと言って、まったく同じことが起こらないという保証はないのだが――。
とにかくFさんの話では、白い糸のようなものが、そこかしこの樹に絡みつきながら、山奥の方に伸びていたのだという。
ただ、釣り糸やクモの巣ではない。もちろん髪の毛でもない。
「植物の
Fさんは、そう解釈した。
苧麻というのは、植物の名前である。繊維を取り出して糸状にし、織物などに用いる。昔の日本ではメジャーな素材だったが、今では合成繊維に取って代わられがちである。
もっとも、いくら植物由来のものだからと言って、それが山の樹々に絡みついている理由がない。
ともあれ――Fさんは、辿っていったそうだ。
山道の途中に、
それでもだいぶ進むと、道は行き止まりになっていたらしい。
いや、道そのものが途切れていたわけではない。途中に金網で出来た背の高いフェンスがあって、それ以上は進めなかった――というのだ。
しかし研究者としての血が騒いだのか、Fさんは「ここまで来て引き返すのはもったいない」と、金網越しに奥を覗いてみたそうだ。
そこに――。
家があった、という。
山小屋ではない。平屋建てだが、和風の立派な屋敷だったそうだ。
ただ、塀はなかった。
玄関の扉は閉ざされている。日中だが、窓や雨戸もすべて閉まっているように見えた。
糸は金網を突き抜けて、その家まで続いていた。
そして、家の外壁に、ぐるぐると巻きついていた――そうだ。
……正直、どう解釈していいか分からなかった、とFさんは言った。
家に巻きついた糸の量は、尋常ではなかった。
よく
ただしそのような建て物は、出入り口が確保できているだけ、まだマシである。
この家は、その出入り口すらない。
扉も、窓も、雨戸も――すべてが閉ざされた上で、そこに糸が巻きつき、人の出入りを完全に封じてしまっているのだ。
まるで家全体が、巨大なクモの巣に囚われたようにも見えた。
しかも、このフェンスである。誰がなぜこのような状況を作ったのかは分からないが、とにかくあの家は、かなり厳重に封印されているもののようだ。
……これ以上調べるとしたら、あとはフェンスを乗り越えるしかない。
Fさんは少し迷ったが――さすがに引き返すことにしたそうだ。
とりあえずスマートフォンで、家の動画と写真を撮った。そして、いずれまた来ようと思いながら、引き返しかけた時だ。
不意に――声がした、という。
ただし、人の声ではない。
犬の吠え声だったそうだ。
ひとたび始まった吠え声は、そのまま狂ったように、延々と続いた。
野犬かと思ったが、どうやら森ではなく、あの家の中から聞こえているようだ。
Fさんはもう一度、家の方に目を凝らしてみた。
あの中に、犬がいるのだろうか。
すべての出入り口を封じられた、あの家の中に……。
……そう思っているうちに、Fさんは何だか、不可思議な気持ちになってきた。
ずっと続いている犬の吠え声が、次第に別のものに変わっていくように、感じられる。
――人だ。
Fさんは、そう思ったそうだ。
犬ではない。あれは人の声だ、と――。
人が、犬のような声で叫んでいるのだ、と――。
そう考えた途端、気味が悪くなった。
引き返そう、と今度こそ思って、フェンスに背を向けた。
その刹那――。
ピタリと、吠え声が止んだ。
そしてはっきりと、聞こえた。
「――モ」
……間違いなくそれは、人の声だったそうだ。
仮名にしてただ一文字のこの声が、Fさんには異様に恐ろしく感じられて、すぐにその場から逃げ出した――ということだ。
さて、問題はここからである。
山を下りたFさんのスマートフォンには、撮影したはずの家の動画と写真が、まったく残されていなかった。
もちろん自分で削除したわけではない。つまり、何らかの理由で自動的に消滅した――ということになる。
それでもFさんは、自分の目で見たものが事実だったことを確かめようと、後日もう一度、この山に登ってみたそうだ。
しかし、家を見つけることはできなかった。
まず、目印の糸がなかった。それでも例の枝道を見つけ出して奥へ向かったが、途中で普通に藪に行き当たり、それ以上は何もなかったという。
その後、
……ただ、手ぶらで帰ってきたわけでもなかった。
「枝道の奥で、こんなものを拾ったんですよ。これをどうしても見せたくて」
そう言ってFさんが僕に見せたのは、一枚のメモ紙だった。
……ここから先は、正直どう解釈していいものか、本当に分からない。
Fさんが見せてくれたメモには、赤のボールペンで、メールアドレスだけが書かれていた。
そのアドレスが――なぜか、僕のものなのだ。
どういうことなのだろう。
少なくとも僕は、その山に登ったことは、一度もないのだが。
それとも知らず知らずのうちに、僕が例の家にまつわる怪異に関わっていた、とでも言うのだろうか。
ただ幸い――かどうかは分からないが、そのメモに書かれていたアドレスは、現在僕が使用しているものではなかった。数年前に解約した、昔のアドレスである。
だから、たとえ誰かが、そこにメールや別の何かを送ったとしても、絶対に僕のもとには届かないのだが――。
いずれにせよ、もうこの件には、触れるべきではないのかもしれない。
したがって、ここで怪談として紹介した上で、ひとまず忘れようと思う。
……これ以上何事もなければ、の話だが。
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