第五十話 川面に映ったもの

 W県の、とある山中であった話だ。

 天気のいい春のことである。渓流釣りを始めてまだ日の浅いUさんは、ベテランのSさんに同行して、早朝からこの山で釣りを楽しんでいた。

 渓流釣りでは、釣り人が一箇所に留まることは、あまりない。魚影を求めて、下流から上流へと移動しながら、要所要所で釣り糸を垂らしていくのが基本だ。

 UさんもSさんに先導されながら、川をさかのぼって進んでいた。文字どおり水の中を歩くことが多いため、体力的には、かなりハードである。

 やがて、川幅の広い場所に出た。流れは緩いが深みがあり、水が青々としている。

 解放感と同時に疲れを覚えて、Uさんは岸辺で一人、休憩することにした。

 一方Sさんは、さっそく浅瀬の側に立って、糸を垂らし始めている。

 そんな先輩の動きを、Uさんは遠目に、咥えタバコで眺めていた。

 日の光を受け、川面かわもにSさんの姿が映って見える。絵になると思い、せっかくだからカメラに収めておこうと、スマートフォンを取り出しかけた時だ。

 ……ふと、水に映るSさんのすぐ隣に、何か赤いものが映っているのが見えた。

 水面に揺らぎがあるため、鏡ほどくっきり反射しているわけではない。だから、何が映っているのかは、はっきりしない。

 しかし、だいたいSさんと同じぐらいの大きさのようである。

 最初はSさんのリュックかと思った。しかし、いくら何でもそんなに大きなリュックは背負っていないし、そもそもSさんのリュックは赤くない。

 いや、リュックだけではない。服装も含めて、Sさんの体やその周りに、赤いものは何一つ存在しない。

 なのに――川面にだけ、それが映っている。

 赤い、Sさんと同じぐらいの大きさのもの――。

 ……だろうか。

 不意に、Uさんは気づいた。

 あれはもしかしたら、ではないのか。

 もちろん実際には、Sさんの隣には誰もいない。だから本来なら、そんな人影が映るはずがない。

 ……なのに、確かにいる。

 Sさんの隣に、いないはずの人間が、ぴったりと張りつくようにして立っている。

 何となく――女の姿のように思えた。

 Uさんは、震える手でスマートフォンを取り出した。

 Sさんに気づかせるよりも先に、「この瞬間をカメラに収めなければ」という気持ちの方が、先に動いた。

 ……後から思えば、ここですぐSさんに声をかけていれば、その後の展開も変わっていたかもしれない。

 Uさんがカメラを向けた時には、すでに赤い何者かの姿は、川面から消えていた。

 同時に――Sさんの姿も消えていた。

 いや、Sさん自身は、確かにそこにいる。なのに、今度はそのSさんの姿が、水に映っていない。

 まるで、水に映るSさんの姿だけを、あの真っ赤な「誰か」が連れ去ってしまった――。

 ついそんな想像をし、Uさんは言い知れぬ不安を覚えた。

 それもあってUさんは、結局最後まで、自分が見たものをSさんに打ち明けることができなかったという。


 ……Sさんが急死したとの報せをUさんが受けたのは、その翌朝のことだ。

 昨夜帰宅した直後、突然倒れて意識不明になり、そのまま帰らぬ人となったらしい。

 それから数年経った今でも、Uさんは、あの時自分が声を上げなかったことを悔やんでいる。

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