第八十一話 駅のトイレ
いささか
男子大学生のGさんが、入学して間もない頃に体験した話だ。
帰り道、いつも乗り換えている駅で、ふと尿意を催し、トイレに入った。
初めて利用するトイレだった。中にはすでに利用者がいて、五つ並んだ小便器の前にそれぞれ立って、用を足している。
彼らの背中側――ちょうど小便器の対面には、個室が三つ並んでいる。もし空いていれば、そちらに入ってもよかったが、どの個室も扉に鍵がかかり、「使用中」を示す赤い印が出ていた。
仕方ないので、小便器が空くまで待機することにした。
すぐに一人が抜けたので、そこに入った。ようやく用を足し始めてホッとしていると、他の利用者も一人抜け二人抜け、瞬く間にGさん一人だけが取り残された。
……いや、取り残されたわけではない。個室に、まだ人がいる。
自分の後ろに誰かがいると思うと、どうも落ち着かない。
トイレの中がいやに静かなのも手伝って、Gさんは何となく神妙な顔つきになりながら、小便器の前に立ち続けていた。
その時だ。
……カタッ、とすぐ後ろで、個室の鍵が開く音がした。
――ああ、中にいた人が出てくるんだな。
そう思いながら、自分も用を足し終える。
そして、ズボンのチャックを上げているところで――ふと、違和感に気づいた。
……誰も、出てこない。
背後で音がしたのは間違いない。なのに、人が個室から出てきた気配がないのだ。
気のせいだったのかな、と思いながら、Gさんは振り返ってみた。
そこで――視線が合った。
開いていたのは、入り口に一番近い、左側の個室だった。
扉がわずかに開き、そこから男が一人顔を覗かせて、Gさんをじっと見つめていた。
妙に土気色の肌をした、気味の悪い男だった。
Gさんが思わず固まる。無視するか、問い質すか――。どちらの反応もできずにいるうちに、男はまたバタンと扉を閉め、中に引っ込んでしまった。
カタッ、と鍵が鳴り、「使用中」の印が現れた。
――何なんだよ、いったい。
Gさんは、少し嫌な気分になりながら、そそくさと駅のトイレを後にした。
それから半月ほど経ってのことだ。
また同じ駅で尿意を催して、トイレに向かった。
中の様子は前と変わらなかった。小便器と個室がどれも塞がっていて、Gさんは小便器が空くのを待って、そこに入った。
用を足しているうちに、一人きりになったのも同じだ。
そして――また、カタッ、と背後で個室の扉が鳴った。
やはり、誰も出てくる気配がない。
用を足し終えて振り向くと、今度は真ん中の扉がわずかに開いて、あの男が顔を覗かせている。
男は前と同じように、じっとGさんを見つめていた。
Gさんが何か言おうとした瞬間、再び男は扉の奥に引っ込んでしまった。
――思えば、妙な話だった。
Gさんは用を足している間、背後で鍵が開く音以外、何も聞いていないのだ。
紙を抜き取る音も、水を流す音も、身じろぐ音さえも――ない。
……あの男は、いったい個室の中で、何をしていたのだろう。
考えても分からなかった。いや、むしろ真剣に考えたところで、確かめるつもりは毛頭ない。気にするだけ無駄というものである。
だからGさんは、すぐに男のことを忘れた。
そして――一月ほどが経った。
三度目だった。
Gさんが、やはり同じ駅で尿意を覚えてトイレに入ると、他の利用者は一人もいなかった。
ただし、三つの個室を除いては。
――今度は一番右の扉が開くんじゃないだろうな。
何だか嫌な予感を覚えながら、Gさんは小便器の前に立った。
そして、用を足し始めた途端……。
――カタッ。
――カタッ。
――カタッ。
すぐ背後で三つの扉が、すべて同時に鳴った。
Gさんは、背中に強烈な視線を感じながら用を足し終え、それから一瞬だけ個室の方を振り返った。
すべての扉から、あの土気色のまったく同じ顔が三つ、覗いていた。
Gさんは、思わず漏れそうになった悲鳴を呑み込むと、脇目も振らずにトイレを後にしたという。
……これだけなら、ほんのり不気味な話として片づけても、よかったかもしれない。
しかし、後日談がある。
それから数ヶ月ほど経ってのことだ。Gさんがこの駅のホームを歩いていると、突然下腹に、強烈な痛みが襲ってきた。
到底次の駅まで持ち堪えられないと感じて、急いで例のトイレに駆け込んだ。
人の姿はなかった。ただ個室は、やはりすべて閉まっている。
音は一切しない。
この瞬間――Gさんは、ある意味で臨界点を突破したのだろう。
「クソする気がねぇならさっさと出ろ、ボケッ!」
思わず、そう大声で叫んだ途端――。
バタン! とすべての扉が大きく開かれた。
……中には誰もいなかった。
Gさんは急いで手前の個室に駆け込むと、妙に勝ち誇った気分になりながら、ゆっくりと用を足したという。
人間、追い詰められれば、何も怖いものはない。
そういうこと――なのだろう。たぶん。
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