第八十二話 雨の日に

 T県の小学校に勤めているM先生は、雨の日にはいつも、奇妙なものに遭うという。

 初めて見たのは、学校でのことだ。

 下校時刻をとうに過ぎた、雨の降る六月の夕暮れ。M先生が校舎の一階の廊下を歩いていると、ふと窓の外を、何か背の低い黄色いものが、サッと横切ったのに気づいた。

 傘――のように思えた。

 それも小さな、子供用の傘である。

 どうやら誰かが傘を手に、窓の外を通ったらしい。窓の位置は、大人の腰ほどの高さにある。だから黄色い傘の上側だけが、窓越しに見えたというわけだ。

 ――誰だろう。

 見えたのは傘だけだ。しかし、子供なのは間違いない。

 窓の外は中庭だ。もしかしたら、まだ生徒が残って遊んでいるのかもしれない。

 注意しようと思い、M先生は窓辺に寄ってみた。

 パタパタパタ……と、雨粒がガラスを叩く音が、近くなる。

 窓に手をかけ、開いた。途端に雨が吹き込み、無防備な顔と手を、ボタボタと濡らした。

 M先生は眉をひそめながら、窓から顔を出して、傘が横切っていった方を見た。

 ……誰もいない。

 外は、まっすぐな校舎の壁に沿って花壇が並ぶばかりで、特に死角などない。にもかかわらず、たった今目にしたばかりの黄色い傘は、もうどこにも見当たらなかった。

 M先生は首を傾げながら窓を閉め、腕で顔を拭った。それから職員室に戻って、他の先生達に今の話をしたが、誰も残っている生徒など見ていない――とのことだった。

 結局M先生の勘違いだろうということで、その日は片づいた。


 ところがそれからというもの、M先生は雨が降るたびに、この黄色い傘を見かけるようになった。

 それは決まって、M先生が窓のそばにいる時に現れる。

 例えば一階の教室で授業をしていると、窓の外を、さっと傘が横切る。

 外は校庭だが、雨だから体育はおこなわれていない。試しに窓に寄って覗いてみるが、やはり誰の姿もない。

 なのに――しばらくするとまた、サッと傘が横切る。

「今ここを誰か通らなかったか?」

 窓際に座っている生徒にそう尋ねても、みんな首を傾げるばかりである。どうやら気づいているのは、M先生一人だけらしい。

 しかも同じようなことが、教室や廊下以外でも起こる。

 例えば――外でも、起こる。

 こんなことがあった。

 雨の日にM先生が中庭を歩いていると、校舎の一階の窓越しにを、黄色い傘がサッと横切っていくのが見えた。

 ちょうどM先生が初めて傘を見た時と、逆の位置関係になったわけだ。

 もっとも、校舎の中で傘を差すなど、相当不自然である。しかも目立つ。

 ……にもかかわらず、同じものを見たという人が、M先生の他に誰もいない。

 たとえ人のいる日中であっても、それは変わらなかった。

 とにかく雨の降る日に、M先生だけが、――。

 この時点でようやくM先生は、自分がに遭遇しているのだと、気づいたそうだ。

 しかも、やむ様子がない。

 とにかく雨が降りさえすれば、は現れる。

 場所も、次第に学校内に留まらなくなっていった。

 やがて通勤中のバスの中でも、見かけるようになった。

 M先生が吊り革につかまって立っていると、走行中のバスの外を、サッと黄色い傘が横切る。

 それも――バスの進行方向に向かって、だ。

「えっ?」

 思わず声を上げて目で追うが、もうそこに傘はない。あくまで一瞬、窓の外に見えるだけである。

 また電車に乗っていても、同じことが起きるそうだ。


 もちろん、実害はない。

 単に窓の向こうを横切るだけなのだから、気にしなければいいだけの話だ。

 しかし、気味が悪いことには変わりない。

 それに――このまま行くと、自分が住むマンションにも、現れるのではないか。

 M先生はそう思い、それ以来自宅の窓のカーテンを、雨の日はずっと閉めっ放しにしているという。

 おかげで今のところ、家であの黄色い傘を見かけることはない。

 ただ――雨が降ると、カーテン越しに、誰かがベランダを歩き回る音が、ずっと聞こえ続けているそうだ。

 ……ベランダの窓だから、もしカーテンを開ければ、相手の全身が見えるだろう。

 開けるべきか開けないべきか――。M先生は、今もまだ迷っている。

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