第六十四話 最上階の住人
H県の、十二階建ての某マンションであった話だ。
このマンションでは、各階に一人ずつ、理事会の役員がいる。四階に住む会社員のBさんも、その一人だ。
役員の仕事は様々だが、その一つに、回覧板の管理がある。自分の階に回覧板を回し、すべての部屋を回って手元に戻ってきたら、それを理事長のところに届けるというものだ。
もっとも回すだけなら、隣室のドアノブに引っかけておけば、あとは勝手に回ってくれる。ただ、最後に理事長に届ける時だけ、わざわざエレベーターで別の階まで行かないといけないので、それが面倒と言えば面倒だった。
Bさんが重い風邪で仕事を休んだ、その夕方のことだ。
外から帰ってきた小学二年生の息子のY君が、手に回覧板を持ってきた。家のドアノブにぶら下がっていたという。四階を一周して戻ってきたらしい。
いつもなら、すぐ理事長のところに届けるのだが、熱があるせいか、どうにも
「Y、代わりに行ってきてよ」
Bさんが言うと、Y君は「テレビが終わってから」と答え、すぐにアニメを見始めた。
そのうちに奥さんが帰ってきて、夕食の支度を始めた。ちょうどアニメが終わったタイミングで夕食になり、結局Y君が食事を終えた時には、すでに八時近くになっていた。
「Y、パパの代わりに行ってきて」
台所で洗い物をしながら、奥さんが言った。
「××さんの部屋、分かる? 一番上の階の四号室。表札が出てるから」
Y君はそう言われてコクンと頷くと、回覧板を持って、玄関を出ていった。
Bさんはそれを見送ってから、寝室のベッドに横になった。
……それから、十分も経っただろうか。
Y君が、なかなか帰ってこない。
「様子を見にいった方がいいね」
心配になって、奥さんとそう話していた時だ。
当のY君が、ひょっこり戻ってきた。
「遅かったね。回覧板、ちゃんと届けられた?」
Bさんが聞くと、Y君はぼんやりとした顔で、またコクンと頷いた。
少し様子がおかしく思えたが――Bさんはまだ、この時はさほど気に留めなかった。
それから数日経ってのことだ。
すでに快復していたBさんのもとに、理事長から電話がかかってきた。
四階の回覧板が、まだ戻ってきていないと言う。
Bさんは不思議に思って、Y君に聞いてみた。
「Y、こないだの回覧板、本当にちゃんと届けた?」
そう尋ねられたY君は、頷くでも首を横に振るでもなく、なぜか迷うような素振りを見せている。
Bさんが改めて問い質すと、Y君はようやく意を決したように、言った。
「エレベーターで、一番上に行ったよ」
「それで、ちゃんと四号室に届けた?」
「部屋は……一つしかなかった」
何とも煮え切らない表情で、Y君はそう答えた。
――BさんがY君から聞き出した話をまとめると、こうなる。
Y君は、回覧板を持って部屋を出た後、エレベーターに乗った。
直前に教えられた「一番上の階」という言葉に従って、迷わず一番上のボタンを押したそうだ。
ただ、それが何階だったのかは、思い出せないという。
理事長が住んでいるのは最上階――。つまりこのマンションでは十二階のはずだが、少なくとも、「12」という数字を押した記憶はないらしい。
……着いた先は、他の階とは違う、奇妙な場所だった。
通路も、非常階段もない。そこはただ、コンクリートの壁で囲まれた、二メートル四方ほどの狭い空間だった。
天井の裸電球が、視界を辛うじて薄暗く保っている。
妙に赤茶けたドアが、エレベーターを降りた対面に、一つだけあった。
表札は、出ていなかった。
少し変だと思ったが、それでも一番上の階に来たのは間違いない。そう信じて、Y君はチャイムを押した。すると――。
ドアが、ギィッと
中から顔を覗かせたのは、着物姿の若い女の人だった。
髪が長く、顔は片栗粉のように真っ白だったという。
……ちなみに理事長は初老の男性で、一人暮らしである。Y君はこのことを知らなかったから、出てきた女の人に、素直に回覧板を渡したそうだ。
女の人は、真っ白な顔を
そして、見た目にまったくそぐわない
「――上がっていけ」
Y君は言われるままに、ドアの中に足を踏み入れた。
……そこは、他の部屋とはまったく違っていた。
まるで時代劇に出てくる城の中のような、立派な座敷が広がっていて、そこに大勢の人が集まっていた。
女の人も男の人もいて、全員でY君を見つめて、にぃっと笑っていた。
やはり誰も着物姿で、顔が片栗粉のように真っ白だったそうだ。
Y君は不安になって、「もう帰ります」と、すぐに部屋を出た。
エレベーターに乗ろうとしたが、カゴが下へ降りてしまっている。
呼び出しボタンを押して、そわそわしながら待っていると、ようやく扉が開いた。
そこから――何だか白いものがたくさん、どやどやと出てきたのだという。
何なのかは、よく分からなかった。
どれも人のような形をしていたが、背は天井につくほど高かったそうだ。
Y君は、その白いものと入れ違いにエレベーターに乗って、ようやく四階に戻ってきた――というわけだ。
話を聞いたBさんは、Y君を連れて、エレベーターで一番上の階に行ってみた。
そこには何の変哲もない、いつもどおりの十二階があるだけだった。
他に「一番上」と言えば、屋上しかない。だが、そちらは階段でしか行かれないし、たとえ行ったとしても、屋上に出る扉には鍵がかかっている。Y君が辿り着けたはずがないのだ。
Bさんは管理人に事情を話して、試しに屋上に出てみた。しかし、何も変わったものはなかった。
結局――あの夜、Y君がどこへ行ったのかは、誰にも分からなかった。
回覧板も、行方不明だった。仕方がないので、Bさんが自費でバインダーを買ってきて、同じものを作って、改めて四階に回した。
回覧板が見つかったのは、それから一年後のことだ。
マンションの中で、友達とかくれんぼをして遊んでいた小学生の一人が、あの階に迷い込んだのだという。
その子は、いつもと違う場所に着いたと気づいて怖くなり、急いでエレベーターに戻ろうとした。そうしたら――不意に後ろから呼び止められた。
振り返ると、赤茶けたドアから、真っ白な女が顔を出していた。
手に、回覧板があった。
「――理事長に渡しておけ」
そう言われて、その子は女から、回覧板を受け取ったそうだ。
もっとも、どうしていいか分からなかったので、とりあえずマンションの管理人に届けたのだという。
こうして行方知れずになっていた回覧板は、一年越しに、理事長のもとに戻ってきた。
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