第七十二話 ある後日談

 この話は、もしかしたら第十七話「ライター」の後日談――かもしれない。


 都内の保育園に勤めている、Mさんという保育士の女性から聞いた話だ。

 数年前、Mさんが受け持っていた二歳児のクラスに、一人変わった子がいた。

 名前をAちゃんという。男の子だ。

 このAちゃんだが、普段はまったく喋らない。活発に動き回ることもない。

 それに、感情が見えない。

 笑わない。泣かない。怒らない。

 例えば同じクラスの子に叩かれたりしても、一方的にやられるばかりで、まったく反応を示さない。ただいじめてくる相手を、ぼぉっと見返すばかりである。

 これだけなら、ただのおとなしい子と言えなくもないだろう。Mさんも、始めはそう思っていた。

 しかし――次第にAちゃんは、不可解な行動を見せるようになったという。


 それは決まって、昼寝の時間だった。

 部屋に布団を並べ、先生が数人がかりで子供達を寝かしつける。それから部屋を出て、わずかに目を離したその隙に――。

 ……Aちゃんだけが、むっくりと起き上がる。

 布団を抜け出して、二歳児とは思えないほどしっかりとした足取りで、部屋の中をスタスタと歩き回る。しかしMさんや他の先生が見回りにくると、サッと元の布団に戻り、ギュゥッと目をつぶる。

 どうやら、先生にバレないようにやっているつもりらしい。しかし、動きがあまりにも露骨なので、隠しようがない。

 Mさんは一度、Aちゃんに気づかれないように、物陰に隠れて様子をうかがってみることにした。

 Aちゃんは人目がないと思ってか、やはり布団を出て、徘徊を始めた。

 そうして、寝ている子の顔を覗き込んでは、ニヤニヤと笑う。

 Aちゃんが笑っているところを、Mさんはこの時、初めて見た。

「眠れないの?」

 Mさんが顔を出してそう声をかけると、Aちゃんは驚いたように振り向いた。そして――。

「――見てんじゃねぇよ」

 ギロリとMさんを睨み、そう捨て台詞を吐いて、そそくさと布団に戻った。

 これもまた、Mさんが初めてまともに聞いた、Aちゃんの声だったという。

 ……それから数日後のことだ。Mさんが目を離した隙に、男の子の一人がものすごい悲鳴を上げて泣き出したことがあった。

 慌てて駆けつけてみると、頬に軽い火傷のような痕がある。寝る前には、こんなものはなかったはずだ。

 急いで応急処置をしていると、Mさんに代わって子供達の様子を見ていた別の先生から、こう言われた。

「Aちゃんが、手にライターを隠し持ってた」

 取り上げてきたというそのライターは、どこにでもある使い捨ての安物だった。

 ……しかし、どこにでもあると言っても、さすがに保育園に転がっているわけがない。

 Aちゃんを捕まえて、「どこから持ってきたの?」と聞いてみたが、無言でそっぽを向かれただけだった。

 ちなみに頬を火傷した男の子は、いつもAちゃんを叩いている子だったそうだ。


 Aちゃんはその後も時々、ライターをもてあそんでいるところを見つかった。

 最初のうちは昼寝の時間だけだったが、Mさんにバレていると分かってからは、起きている間も、堂々と手にするようになっていった。

 カチ……カチ……とライターを点けては、例の男の子に突きつけたりした。そのたびに男の子が大泣きするのを、ニヤニヤ笑って眺めていたそうだ。

 Mさんはそれを見つけるたびに、ライターを取り上げて叱ったが、Aちゃんはまったく言うことを聞かなかった。

 それに――このライターの出所が、さっぱり分からない。

 Aちゃんが手にするライターは、いつも色が違う。つまり、毎回どこからか別のものを持ってきているわけだ。

 初めは家からかと思ったが、念のため朝来た時に持ち物を検めても、ライターなど持っていない。かと言って、園内で手に入るものでもない。

 にもかかわらず――Aちゃんはいつも、気がつくとライターを手にしていた。

 また、Aちゃんが手にするライターは、どれも新品だった。

 当時はすでに、使い捨てライターに規制がかけられ、子供が容易にスイッチを入れられない、いわゆる「CR機能」がついたものしか販売できないようになっていた。

 二歳児であるAちゃんは、そんな新品のライターを、何の苦もなく着火させていたという。


 もちろんMさんは、このことをAちゃんの両親に、何度も相談した。

 しつけに問題はないのか。家庭環境に問題はないのか。ライターの出所はどこか――。

 呼び出したり電話したり、場合によってはこちらから訪ねたりしては、幾度となく質問を浴びせたが、そのたびに話をはぐらかされた。

「火傷させられた子もいるんですよ?」

 ある時、さすがに耐えかねてそう言うと、ふと父親が暗い顔になった。

「……だいぶ前に、供養してもらったんです」

「はぁ?」

「でも……生まれ変わってきたみたいで」

 父親は、それ以上は何も言わなかった。

 Aちゃんはそれからすぐに、保育園を去った。

 両親が仕事の都合で遠くに引っ越すため――とのことだったが、どこか言い訳めいた理由だったように、Mさんは感じたそうだ。

 とにかくそれ以来、Aちゃんの一家とは、一切連絡が取れていない。

 なお、その一家の姓は、Sという。


 ……この話は、第十七話「ライター」の後日談、かもしれない。

 確証はない。皆さんのご想像にお任せしたい。

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