第七十三話 スーツケースの女

 主婦のWさんが結婚する以前に体験した話だ。

 当時WさんはOLで、S県にある十階建ての古い賃貸マンションに、飼い猫と一緒に暮らしていた。

 ペット可ということで借りたマンションで、そこは重宝していたのだが、一つ不可解な問題があった。

 夜中の一時頃になると、玄関の外の共用通路を、妙な「音」が通っていくのだ。

 ガラガラ、ガリッ、ガラガラガラ、ガッ……。

 タイルの上を何かが転がり、時折バランスを欠いて擦り立てる――。それは、キャスターつきのスーツケースを引く時の音に、よく似ていた。

 Wさんの部屋は、エレベーターを八階で降りて、まっすぐ伸びる通路を少し進んだところにある、手前から二番目のドアだ。通路の先は、さらに九つのドアの前を通って彼方で行き止まりになり、非常階段に変わる。

 スーツケースの音はいつも、その非常階段の側から始まっていた。

 ガラガラ、ガリッ、ガラガラガラ、ガッ……。

 通路の奥から聞こえ始めるその音は、Wさんの部屋の前を通り、エレベーターの方へ向かっていく。その時は決まって飼い猫が毛を逆立てる。

 ガラ、ガラガラ……。

 エレベーターの前まで辿り着いた音は、そこでフッと消える。

 おそらくエレベーターに乗り込むのだろう。一応エレベーターの側にも、もう一つ階段があるが、さすがにスーツケースで階段は下りられないだろうから――。

 Wさんは最初そう考えていたが、近所の人と話してみると、どうも様子が違うらしい。

 問題の音は、すべての階の住人が耳にしていた。

 毎晩一時を回る頃になると、どの階でも、決まってそれが聞こえるのだという。音は必ず、通路奥の階段のそばから始まっていた。

 同じ時間帯に、すべての階で、同じ音が、同じ通路奥から聞こえ出す……。

 奇妙な話だった。仮にスーツケースの人物が一人なら、その人はスーツケースを引っ張ってエレベーターに乗った後、わざわざ別のフロアで降りて、スーツケースを持ち上げて音を立てずに通路奥まで移動し、そこから今度は音を立てて引き返し、またエレベーターに乗り……という奇行を延々と繰り返していることになる。

 逆に、もっと合理的に考えてはどうか。スーツケースのぬしが複数いて、彼らが各階の一番奥に住んでいて、毎晩同じ時間帯にいっせいに部屋を出ている――という解釈だ。ずいぶんと無理はあるものの、これなら不可解さは薄れる。

 ……だが、その可能性もすぐに否定された。当の、各階の一番奥の住人が、「それはない」と断言したのだ。

 そもそも、スーツケースの音が始まる前に、誰かが玄関から出るような物音は一切しない。突然通路の奥にスーツケースが湧いたかのように、それは唐突に始まるのだという。

 さらに言えば、誰かが毎晩スーツケースを持って出かけているなら、その人物はいつ戻ってきているのか。行く音は聞こえても、帰ってくる音は誰も聞いていない。

 いずれにしても――その時間帯は、外に出ない方がいい。それが、住人全員で一致した意見だった。


 梅雨の切れ間のことだ。

 残業で帰りが遅くなった夜。Wさんがマンションに戻ってきた頃には、時刻はすでに一時近くになっていた。

 あの音のことを思い出す。鉢合わせしたらどうしよう……と考えながら、エントランスのオートロックを開けて、中に入る。すぐにエレベーターホールがある。右手にはエレベーター。左手には一階の共用通路が伸びる。

 通路には誰もいなかった。あの物音もしない。

 ホッとしながら、郵便受けが並ぶ一角に入り、中を検める。新聞は取ってないから、チラシが何枚か投げ込まれているだけだ。引っ張り出して無意識に丸め、エレベーターに向かおうとした。その時だ。

 ……ガラガラ、ガリッ。

 あの音が、聞こえた。

 ハッとして通路の方を振り返ると、奥の非常階段の近くを、誰かが歩いていた。

 女だった。

 長い髪をダラリと垂らした、猫背の女だ。歳はよく分からない。それが白い半透明のレインコートのようなものをまとい、うつむき気味で、後ろ手に大きなスーツケースのハンドルをつかんで、ガラガラと引きずっている。

 ガラガラ、ガリッ、ガラガラガラ、ガッ……。

 耳にこびりついているあの音が、通路に響く。

 ゆっくりとした足取りで、女はエレベーターに――Wさんのいる方に向かって、進んでいた。

 ガラガラ、ガリッ、ガラガラガラ、ガッ……。

 女のスーツケースは二輪式で、片側にしかキャスターがついていない。だから時々バランスを崩し、大きく跳ねる。そのたびにケースの底がタイルを引っ掻き、ガリガリッ、と嫌な音を立てる。

 ――逃げなきゃ。

 本能的に、Wさんはそう感じた。

 エレベーターは五階で停まっていた。急いでボタンを押すと、少しずつ階下に下り始めた。

 女が近づいてくる。

 ガラガラ、ガリッ、ガラガラガラ、ガッ……。

 垂らした前髪の隙間に、真っ青な顔が覗いた。俯きながらも、女の視線は明らかにWさんを捉えていた。

 通路に並ぶ合計十一のドアの、手前から七番目に女が差しかかったところで、エレベーターの扉が開いた。Wさんはすかさず飛び乗り、扉を閉めた。

 扉のガラス窓の彼方で、女はなおもスーツケースを引きずり、ゆっくりと歩いている。Wさんは震える指で八階のボタンを押した。

 エレベーターが上昇を始めた。

 窓の外が黒いコンクリートで遮られた後、すぐに二階の景色が現れた。

 女がいた。

 二階の通路の、手前から六番目のドアの前を、こちらに向かって歩いていた。

「え、何で……?」

 思わず声を漏らした。エレベーターはさらに上がっていく。

 三階の通路が見えた。女は手前から五番目のドアの前にいる。

 ――どうして、どの階にもいるの?

 もはや合理的な説明など出来ようはずがなかった。

 四階の通路が見えた。女は手前から四番目にいる。

 もしこのまま行ったら――。

 指折り素早く数えて、Wさんは頭が真っ白になった。エレベーターが八階に着いた時、女が立っている場所は、一番手前のドアよりも、もっと手前――。エレベーターの扉が開く真正面に違いない。

「やめて」

 涙を滲ませ、Wさんは口に出した。

 エレベーターが五階を通り過ぎていく。女は手前から三番目にいる。

 迷っている暇はなかった。Wさんはとっさに二本の指で、六階と七階のボタンを連打した。

 六階で停まるには間に合わなかった。通路の、手前から二番目のドアの前に立つ女をやり過ごし、エレベーターは次の七階で停まった。

 女は、一番手前のドアの前にいた。エレベーターの扉まで、わずか二メートルほどしかない。

 Wさんはエレベーターから飛び出すと、そばにある階段に走った。奥の非常階段とは別にもう一つある、エレベーター側の階段だ。

 ガリッ、ガラガラガラ……。

 すぐ背後にスーツケースを引きずる音が迫る。

 ガラガラガラ、ガッ……。

 しかしWさんが階段を上り始めると、それはピタリとやんだ。

 ――消えた?

 踊り場で足を止め、Wさんは階段の下を振り返った。

 女は、まだそこに立っていた。

 階段の下からWさんを、じっと見上げていた。

「ひっ」

 思わず息を呑んだ。しかし、女が階段を上がってくる様子はない。やはりスーツケースを引いては、階段を行き来できないのかもしれない。

 Wさんは、このまま八階の自分の部屋まで逃げ切ってしまおうと、踊り場から階上を見上げた。

 そこにも、女がいた。

 階段の上からWさんを、じっと見下ろしていた。

 まったく同じ、スーツケースを引きずった二人の女に、Wさんは挟まれていた。

 思わず足の力が抜け、踊り場にへたり込んだ。

 二人の女が、ゆっくりと身を乗り出してきた。

 つかんだスーツケースのハンドルを支えに、階段の上と下から、それぞれ蛇のように上半身だけをにゅぅっと伸ばし、Wさんを見つめる。

 階下の女が口を開いた。

「見……た?」

 階上の女も、同じように口を開いた。

「見……た?」

 Wさんは泣きながら、懸命に首を横に振った。

「見てない! 見てない!」

 わけが分からないまま、とにかく否定しなければいけないと思って、必死に叫んだ。

 そして――五分ほど経った。

 ガラガラ、ガラガラ……。

 階下の女が、何も言わずに去っていった。

 ガラガラ、ガラガラ……。

 階上の女も、同じように何も言わず、去っていった。

 どちらもエレベーターの方に向かっていった。スーツケースの音は、すぐに聞こえなくなった。

 Wさんは、それでもしばらくは踊り場に座り込んでいた。

 やがて携帯を見ると、夜中の二時を回っていた。

 ――帰らなきゃ。

 ようやくWさんに立ち上がる気力を与えてくれたのは、ふと脳裏に浮かんだ愛猫の姿だった。

 足の力は、まだ戻り切っていなかった。階段を這うようにして上り、ふらふらと部屋の前まで辿り着いた。バッグから鍵を取り出し、震える指で挿し込もうとして、何度か失敗した。

 それでもやっとの思いで鍵を開けると、Wさんは安堵のあまり息をつきながら、重たいドアノブに手をかけた。

 ……その途端。

 ガラガラガラガラガラガラガラガラ!

 振り返ればエレベーターの前から、スーツケースの女が髪を振り乱して、出鱈目な大股でこちらに迫ってくるところだった。

 凄まじい悲鳴を上げ、Wさんは部屋に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵とチェーンをかけ、すぐに寝室に駆け込み、朝まで泣き震えながら過ごした。


 翌朝、Wさんはすぐ不動産屋に連絡し、マンションを引き払った。

 それから適当な部屋を探して移るまで、同僚の家に泊めてもらった。

 猫の心配をする必要は、残念ながら、もうなかった。

 あの夜以来、Wさんの愛猫は行方不明になっている。

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