第二十四話 波の静かな夜に
S県在住のJさんという男性が、中学生の時に体験した話だ。
Jさんは、港町の生まれだった。
夏休みのある日、友達数人から「夜釣りに行かないか」と誘われた。
聞けば、七時ぐらいから、近くの堤防で釣り始めるという。
終わるのも九時かそこらだというので、それなら親に何か言われることもないだろうと思い、Jさんも付き合うことにした。
……ただ、家族にその話をすると、祖父からおかしなことを言われた。
「万が一、海の上に妙なものが見えても、絶対に声を上げたり、音を立てたりしちゃぁいけん」
どういうことかと尋ねても、「あまり口に出して言うもんじゃない」と忌まわしげに呟くばかりで、それ以上は教えてくれない。
Jさんは仕方なく、心の片隅に留めておくだけにした。
その日は、風のない穏やかな夜だった。
Jさん達は堤防に集まり、さっそく思い思いに釣り糸を垂らし始めた。
他に釣り人の姿はない。魚が食いつくのを待ちながら、友達と気兼ねなく
風がなく、波音が小さいためだろう。「あまり騒ぐと魚が逃げる」と一人が呟き、自然とみんなが無口になった。
ふと顔を上げると、波の静かな黒い海原を、月が煌々と照らしている。
灯りと言えば、各々が持ってきた懐中電灯ばかりだ。彼方の月を邪魔するものは、何もない。
思わず、しばし見入った。
……だが、その時だ。Jさんは沖の方に、何かおかしなものが見えるのに気づいた。
それは、黒い影だった。
形は人に見える。
それが月明かりの中、海原の真ん中に、ポツンと佇んでいる。
船に乗っているわけではない。ただ何もない海の上に、文字どおり――立っている。
妙だ……と思ったところで、不意に祖父の言葉を思い出した。
――万が一、海の上に妙なものが見えても、絶対に声を上げたり、音を立てたりしちゃぁいけん。
あの言葉は、コレのことではないのか。
Jさんが思わずゾクリ、とした時だ。
「なあ、あれ、人に見えんか?」
友達の一人が沖を指し、小さく叫んだ。
同時に全員が顔を上げ、沖を見た。
そして――Jさんを除く全員が、「人がいる!」と口々に騒ぎ始めた。
もはや止める間などなかった。
途端に海上の黒い影が、すぅっと動いた。まるで海の上を滑るように、スルスルとこちらに迫ってくるのが分かった。
「わぁっ!」
全員が叫んで、バタバタと逃げ出した。
――ただ一人、Jさんを除いて。
(音を出しちゃいけん!)
Jさんは、祖父の言葉を懸命に思い出しながら、その場にしゃがみ込んだ。
……いや、実際には足が竦んで、動けなかっただけかもしれない。
そんなJさんのすぐ目の前に、黒い影が、ぬっ、と上がってきた。
それは間近で見ても、影のように真っ黒だった。
真正面にいるのに、細部がまったく見えない。ただ――見えないのは、向こうも同じようだ。
影が手を伸ばして、辺りを探り始めた。どうやら、こちらのことが見えていないらしい。
こうなったら、とにかく耐えるしかない。Jさんは口を
……やがて影が、にゅぅっと首を巡らせた。
そして横顔を、友達が逃げていった方へと向けた。
耳を澄ましてるんだ――。
Jさんがそれに気づいた瞬間だった。
影がスルスルと、堤防の上を滑り出した。みんなが走っていった方に向かって。
それから――「ぎゃぁっ!」という悲鳴がいくつも上がるのに、ものの数秒もかからなかった。
Jさんは、ただその場にしゃがみながら、声を殺して、静かに震え続けることしかできなかった。
Jさんが、たまたま通りかかった地元の人に声をかけられたのは、それから数十分ほど経ってのことだった。
事情を話すと、急いで友達の様子を見にいってくれた。
友達は、全員が堤防の上で気を失っていた。すぐに病院に担ぎ込まれ、それから数日間、原因不明の高熱に苦しみ続けた。
ベッドの上で唸りながら、一人はうわ言のように、「目はやらん! 目はやらん!」と、悲鳴を上げていたという。
あの時、逃げた彼らの身に何が起きたのかは、分からない。意識を取り戻した本人達の記憶が、曖昧だったからだ。
……ただ確かなのは、熱が下がった後、全員がほぼ失明寸前まで視力を落としていた――ということだ。
「ああいう波の静かな夜は、音を頼りに、アレが寄ってくる……」
話を聞いたJさんの祖父は、相変わらず忌まわしげに、そう呟いたという。
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