第二十三話 子育て

 都内某社で人事を担当している、Aさんから聞いた話だ。

「これは怪談なのかな。実は、ちょっと気味の悪い思いをしたことがあるんですよ」

 そう言ってAさんが語ってくれたのは、数年ほど前の出来事だった。


 Aさんの下で働いている社員に、Yさんという男性がいた。歳は三十代。人当たりがよく、仕事もきちんとこなせる、優秀な部下だった。

 ところがある年の春頃から、そのYさんの様子がおかしくなった。

 顔がやつれ、徐々に肌の艶が失せ始めた。寝不足なのか目の下にはいつもくまができ、髪はボサボサのままで、髭の剃り忘れも目立ってきた。

 仕事のしすぎじゃないのか――と周りは心配したが、Yさん本人は「大丈夫です」と言って、普段どおり出社を続けていた。しかし限界が来たのだろう。数ヶ月経った梅雨の頃、ついに「会社を辞めたい」とAさんに相談してきた。

 事情を聞いたAさんに、Yさんはこう答えた。

「妻のノイローゼがひどくて……。もう、一人にしておくのは無理なんです」

 実は言ってなかったのですが――と前置きして、Yさんはこう続けた。

「流産したんです。この春に」

 そのせいでYさんの奥さんは、すっかり精神的に参ってしまったのだという。

 始めはずいぶんと落ち込み、時々泣き出す程度だった。いや、「程度だった」という表現は酷だが、実際奥さんのノイローゼは、その段階ではまだ軽い方だったのだ。

「その時は、僕が優しく話しかければ治まったんですけど……、だんだん様子がおかしくなっていきまして」

 Yさんの言うには、奥さんは次第に、我が子がそこにいるかのように振る舞い出したらしい。

 誰もいないベビーベッドの横に座り、静かに子守唄を歌ったり、布団を覗き込んで微笑んだりする。それも昼間だけではない。夜中に突然跳ね起きて、「あの子、夜泣きしてる」と呟き、赤ん坊をあやすような仕草を延々と続けることもあった。

 Yさんは戸惑いながらも、奥さんに言った。

「あの子はもういないんだよ。とても辛いことだけど、供養のためにも、あの子の死をきちんと受け入れてあげようよ」

 しかし奥さんは、きょとんとした顔で答えたそうだ。

「変なこと言わないで。ちゃんとここにいるじゃない」

 そう言って奥さんは、何かを抱きかかえるようにして、静かに体を揺らし始めた。状況はかなり深刻だった。

 こんなこともあった。ある日Yさんが帰宅すると、家の中に赤ん坊の泣き声がした。

 ギョッとして寝室に行くと、そこでは奥さんが何もない虚空を抱き締めながら、赤ん坊の声色で泣いていた。

 Yさんの姿に気づいた奥さんは泣くのをやめ、自分の目にしか映らない赤ん坊を見下ろして、にっこりと微笑んだ。

「お腹空いた? じゃあご飯にしようねー」

 胸をはだけ、奥さんは愛おし気な眼差しで、自分の乳房の辺りを見つめ続けた。

 そんな日々が続くうちに、奥さんの「病」は、ついにYさんをも巻き込み始めた。

 Yさんが同じノイローゼになった――というのではない。文字どおり「巻き込んだ」のだ。

「パパ、ちょっと今手が離せないから、この子をお願い」

 休みの日、家にいたYさんに向かって、突然奥さんがそんなことを言ってきた。

 Yさんはポカンとしながら、奥さんを見つめ返した。両腕をグッと突き出した奥さんは、「早く抱っこしてあげて」とでも言いたげに、じれったそうにYさんを睨んでいる。

 Yさんが恐る恐る虚空を抱き締めると、奥さんは笑顔に戻り、フラフラと寝室に入って、すぐに寝息を立て始めた。

 それ以来Yさんは、自分が出勤している間、「子供」を預かることにした。

「昼間は僕が引き受けるよ。うちの会社には託児所があるし、ちゃんと保育士の人もいるから、心配しないで」

 Yさんがそう言うと、奥さんは素直に頷いた。

 確かにここ最近は、社内に託児施設を設けている会社も存在する。もっともそういうことができるのは、余裕があるごく一部の企業だけだ。少なくともYさんの会社は、これには当てはまらない。

 嘘をつくのは心苦しかった。しかしこの嘘があれば、少なくとも一日の半分ぐらいは、奥さんの心の負担を和らげられるはずだ――とYさんは考えた。

 その日からYさんは、いるはずのない「子供」を車に乗せ、奥さんに見送られながら会社に通い出した。

 ところが、今度は頻繁に、日中に奥さんからメールが届くようになった。

『あの子はどうしてる?』

『ちゃんとミルクは飲んでくれた?』

『今、お昼寝中?』

 三十分おきに携帯に届くメールに、Yさんは「失敗した」と内心思ったそうだ。

 家に帰り、「子供」を奥さんに抱き渡す仕草をしながら、Yさんはさすがに文句を言った。

「仕事に差し支えるからさ、ああいうのは程々にしてもらえないかな」

 奥さんは「子供」を抱きかかえながら、険しい顔でYさんを見つめ返した。

「だって心配なんだからしょうがないでしょ? じゃあ私も会社についてっていい?」

「いや、そんなことできるわけないだろ!」

「何で、できるわけないの?」

 互いの声が、次第に大きくなっていく。と、そこで不意に奥さんが口を噤み、それから赤ん坊の声色で泣き出した。

 Yさんが押し黙る。奥さんは泣きやむと、何もない腕の中に頬擦りし、Yさんに言った。

「大きな声出さないで。この子が可哀想」

 Yさんは何も言い返せず、奥さんが「子供」を抱いて寝室に消えていくのを、じっと見送るしかなかった――。

 ……ここまでを打ち明け、YさんはAさんにこう言ったそうだ。

「最近僕にも、『あの子』が見えるようになってきた気がするんです。いや、見えるっていうか、のが当たり前になってきたっていうか……。今はね、抱っこじゃなくて、おんぶしてるんですよ、ほら」

 Yさんは軽く身をよじり、Aさんに背中を見せた。

 もちろんそこには、誰もいなかった。

 とにかく――この日を境に、Yさんは会社を辞めていったそうだ。


 話を聞き終えた僕は、率直な感想をAさんに伝えた。

「まあ、気味が悪い……って言ってしまうと、身も蓋もない気もしますね。これはどちらかと言うと、哀しい話だと思いますよ」

 何より一番辛い思いをしたのは、当の奥さんだろう。

 僕がそんな意見を口にすると、Aさんは真顔で言った。

「でもね、Yはずっと独身で、家族なんかいないんですよ。いったい誰としてたんですか、あいつ――」

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