第二十五話 下校放送

 もう三十年も前のことだ。当時小学五年生だったNさんは、学校の放送委員会に所属していた。

 放送委員会というのは、その名のとおり、校内放送全般に携わる委員会だ。一番大きな仕事はお昼の校内放送で、給食の時間中にアナウンスを挟みながら、音楽や朗読劇のカセットテープを流していく。言わばDJのようなことをやるわけだ。

 もちろんこの他にも、朝礼で使うマイクを用意したり、掃除の時間にも音楽を流したりと、一日の仕事は多い。

 これらの役目は、委員会の中で班に分かれて、持ち回りで分担する。今週はA班が担当、次週はB班が担当……といった具合だ。

 そしてこういった仕事は、必ず放送室でおこなう。

 職員室の隣に、防音の壁で囲まれた狭い一室があり、そこにひととおりの機材が揃っている。他にも、各種音楽のカセットテープや、アナウンス用の台本、お昼の放送で使うクイズの本など、いろいろなものが用意されている。

 当番になった班はここで仕事をするわけだから、当然朝礼や掃除には参加する必要がない。給食も放送室に集まって食べる。おかげで、委員会の中では特別感が強く、率先して入りたがる生徒も非常に多かったという。

 しかし――そんな大人気の放送委員の仕事の中で、唯一敬遠されるものがあった。

 下校放送だ。

 内容自体はとても簡単だ。下校時間に鳴るチャイムを合図に、あらかじめ決められている音楽を流し、下校を促すアナウンスをする。必要なアナウンスは一度きりで、あとは五分ほど音楽を流せば終わりだ。

 決して難しい仕事ではない。それでもみんながこれを嫌がるのは、自分達が、まさにその下校時間まで、学校に残っていなければならないからだ。

 もちろん小学校である以上、夕暮れまで待たされるようなことはない。だいたい三時半にもなれば、下校時間は来る。

 それでも他の生徒達がみんな帰ってしまい、自分達だけが居残りも同然の仕事を強いられるのは、やはり面白くなかった。


 ある時Nさんの班が、この下校放送を無視して帰った週があった。

 下校のチャイムは自動的に鳴るのに、その後のアナウンスと音楽がない。これでは何のチャイムだったのか分からない――。そんな日が月曜から、三日続いた。

 当然先生から注意された。班長だったNさんは、「うっかり忘れてました」と言い訳しつつ、観念して居残ることにした。

 木曜日のことだった。

 放課後、Nさんが放送室に入ると、同じ班のメンバーは誰も来ていなかった。

 何のことはない、真面目に残ったのは、Nさんだけだったのだ。

 三時半が来るまでの時間を、Nさんは仕方なく一人で待つことにした。

 放送用の機材を眺め、操作手順を頭の中でおさらいする。アナウンス用の台本をそばに置き、練習のため、何度か声に出して読み上げる。

 一人で放送するのは初めてだった。Nさんは緊張していた。

 ふと、下腹に痛みを覚えた。緊張しすぎたせいだろうか。

 時計を見た。三時十五分――。もうすぐ下校時間になってしまう。

 今からトイレに行けば、下校のチャイムに間に合わない。

 しかしチャイムが鳴るまで我慢すれば、そこからさらに五分間、ここにいなければならない。

 躊躇ちゅうちょしたものの、Nさんはトイレを優先することにした。

 足早に放送室を出て、職員室のそばにあるトイレに駆け込んだ。そこで用を足すうちに、下校のチャイムが鳴るのを耳にした。

 間に合わなかった――。Nさんが落胆しかけた時だ。

 不意に、校内のスピーカーが「ボッ」と、低い音を立てた。放送室でアナウンス用のマイクをオンにした瞬間に鳴る、特有の音だ。

 誰か班の人が来てくれたんだ――。Nさんは安堵して、これから始まるであろう聞き慣れた下校放送に、耳を傾けた。

 しかし、そこに流れてきた音は、予想とまったく違っていた。

 ……お経だった。

「えっ?」

 ポカンとして顔を上げるも、スピーカーから響いてくる音声は、確かにお経だ。

 聞き覚えのないしゃがれた男の声が、ただぼそぼそと、独特の節回しでお経を読み上げている。

 Nさんがトイレから出ても、それは続いていた。

 放送室に先生達が集まっていた。先生達は困惑しながら、機材と格闘していた。

 スイッチを切っても、お経がやまない。テープを抜こうにも、そもそも、そんなお経のテープなんてセットされていない。

 かと言って、誰かが生で読み上げているわけでもない……はずだった。


 この日、無人の放送室から、謎のお経はきっちり五分の間、流れ続けた。

 真面目なお化けだな――とNさんは呑気に、そう思ったそうだ。

 後にも先にも、校内でお経が流れたのは、これ一度きりだという。

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