第八十九話 忌み山
T県の某山は、古くからいろいろと奇怪な話があることで、一部に知られている。
地元の人は、あまり立ち入ろうとしない。一応、登山道は古いものが残っているが、今なお整備されておらず、そこかしこに草が生い茂っている。
それでも登山ブームの影響もあって、たまによそから来た人が入ることがある。
法的には、入山が禁止されているわけではない。標高が低く、目立った難所も少ないため、登山そのものに苦労することはないだろう。
しかし地元の人は、この山に軽々しく入ることを、決して勧めていない。
実際、入山した人の中には、奇怪な体験をした人も多いという。
ある年の夏のことだ。
Cさんという男性が、この山に入った。
純粋に山頂が目的の登山である。樹々に囲まれ、すっかり朽ち果てた道の名残を辿りながら、時折目に留まる地蔵堂の写真などを撮り、一時間ほどで中腹に至った。
ここから先は、しばらく緩やかな土道が続くようだ。
軽く息を整えてから、足を進めようとした。
その時だ。不意に凍えるような冷たい風が、ふわっ……とCさんの首筋に吹きつけてきた。
思わず鳥肌が立った。
途端に胸がむかつくような気分がして、Cさんは立ち止まった。
何か嫌な臭いがする。鼻の奥がツーンと痛む。
指で鼻筋を押さえながら俯くと、突然ボタボタッと、足元の土に血の塊が落ちた。
鼻血だった。
慌てて道の端に寄り、ティッシュを取り出して、細く丸めて鼻に詰めた。
山道では空気の違いから、体調を崩しやすい人もいる。しかしこんな標高の低い山で、しかも自分が経験するのは初めてだ。
何だか嫌な気持ちになりながら、血が落ちた場所を振り返った。
「……あれ?」
Cさんは思わず首を傾げた。
たった今、土を汚したばかりの血が、地面から跡形もなく消え失せているのだ。
目を離したのは物の数秒だ。その間に血が消えてしまうことなど、あるだろうか。
道は濡れていない。かと言って、自然に土に吸われたにしても、早すぎる。
獣か何かが舐め取ったのだろうか。しかしそれなら、さすがにCさんの目に留まったはずだ。
……不意に薄気味が悪くなった。
まるで自分の周りに、血を求める「何か」が潜んでいるような――。そんな錯覚を、つい覚えてしまう。
Cさんは、すぐに山を下りることにした。
妙な錯覚に囚われたこともあるが、それ以上に、体調を崩した状態で登り続けるのはよろしくない、と判断したからだ。
下りる道すがら、いくつもの地蔵堂が目に留まった。
どうしてこんなに地蔵が立っているのか――Cさんは何となく、理解した気持ちになったという。
この山に山菜採りにきたMさんという女性は、それ以上に恐ろしい体験をしている。
もともと人が入らない山だと聞いて、それなら穴場ではないかと、足を踏み入れたそうだ。
自分で食べるのではなく、売るためだったという。だからある意味では、強欲が招いた結果とも言えるが……まあその辺は、深くは追及しないでおこう。
山道を外れた草深い森の中を、Mさんがリュックを背に歩いていると、どこからともなく、ガサ……ガサ……と、草をかき分ける音が聞こえてきた。
何だろうと振り返る。しかし辺りには、森が広がっているばかりで、何も見えない。
気のせいかなと思いながら、再び足を進めようとした。するとまた、ガサ……ガサ……と聞こえる。
――動物がいるのだろうか。
ふと、そう思った。
一応クマよけの鈴は着けているが、最近はクマの方も慣れて、あまり人の出す音を怖がらないと聞く。
とは言え……辺りを見る限り、クマが隠れられるほど背の高い草むらは、ない。
だとしたら、野犬かイノシシか――。いくつかの危険が頭に浮かんだ。
その時だ。不意にどこからか、人の声がした。
「――Mさん」
名前を呼ばれた。
え? と思って振り向くが、誰もいない。
ガサ……ガサ……と草だけが鳴っている。
「――Mさん」
今度は別の場所から、名を呼ばれた。
「……誰かいるの?」
思わずMさんが声を上げた。しかし――おそらくそれが引き金になったのだろう。
「――Mさん」
「――Mさん」
「――Mさん」
「――Mさん」
そこかしこから、Mさんの名が、次々と呼ばれた。
ガサ……ガサ……ガサ……ガサ……。
草が鳴りやまない。
何かが近づいてくる音だ――と、はっきり確信した。
Mさんは悲鳴を上げ、逃げ出した。
同時に背後から、ガサガサガサガサ! とすごい勢いで、草の音が追いかけてきた。
――捕まったらまずい!
必死になって、登山道を目指して走る。しかし焦って方向を違えたのか、いつまで経っても道に出ない。
何度も樹の根につまずきそうになりながら、死に物狂いで足を動かす。
「――Mさん」
「――Mさん」
声と草の音は、途切れることなく追ってくる。
泣きながら、それでも懸命に走っていると、ふと前方に、古ぼけた立て札が見えた。
『避難
簡素な矢印とともに、そう書かれてある。Mさんは
やがて森の中に、小さな建物が見えてきた。
……しかし、小さすぎた。
それは腰ほどの高さしかない、古びた地蔵堂だった。
ただ――この時Mさんは、すでに冷静さを失っていたに違いない。
Mさんは迷わず屈んで、地蔵堂に頭から突っ込んだ。
もちろんそんなことをしたって、体まで隠せるはずがない。ただ、中の石地蔵に額をゴリゴリと押しつけながら、身を丸めて、ひたすら震え続けた。
……やがて気がつくと、声も、草の音もやんでいた。
恐る恐る顔を上げた。途端に正面の地蔵と目が合って、小さな悲鳴が漏れた。
それから、お堂から頭を出して振り返ると、そこには何でもない森の景色が広がっているだけだった。
Mさんは、ホッと息をついて立ち上がった。
その瞬間――足元にバサバサッと、何かがばら撒かれた。
もう一度悲鳴を上げかけたが、よく見れば、リュックに入れてあったタオルや山菜などである。
何で落ちたんだろう……と不思議に思い、Mさんは背負っていたリュックを外してみた。
そして――今度こそ大きな悲鳴を上げた。
Mさんのリュックは――地蔵堂の外でMさんの背中を守っていたそれは、まるで鋭い刃物でやられたかのように、ズタズタに切り裂かれていたという。
……余談だが、昔はこの山で行方知れずが出ると、地元の人は地蔵堂だけを捜し、それ以外の場所はすべて無視したそうだ。
地蔵堂に辿り着けていなければ、もう助からない――。
そのような暗黙の了解が、戦後間もない頃までは、まだ残っていた……ということだ。
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