第八十八話 ベランダで囁くもの

 この話は、第八十七話「ベランダにいたもの」で紹介した怪異と、もしかしたら関係があるのかもしれない。


 関西某県に在住のYさんが、ある年の十二月に体験した話だ。

 当時のYさんは大学一年生で、実家を離れて、アパートで一人暮らしをしていた。

 手探りでの生活にも徐々に慣れ、年末には久しぶりに実家に帰ろうとしていた、その矢先――。不意に体調を崩した。

 あり得ないレベルの高熱に一晩うなされ、翌朝病院へ行ったら、インフルエンザだと診断された。Yさんにとっては、生まれて初めてのインフルエンザだった。

 数日間は絶対安静である。すでに大学が冬休みに入っていたのは幸いだったが、帰省はキャンセルすることにした。

 母親にメールを送ると、すぐに電話がかかってきて、あれこれとアドバイスをされた。熱のせいでいまいち頭に入らないまま、Yさんは電話を切って、カーテンを閉め、ベッドに横になった。

 まだ日の高い時間だったが、頭が朦朧もうろうとして、すぐ眠りに落ちた。


 それから数時間後のことだ。

 どこからか、何かが聞こえているような気がして、目を覚ました。

 頭がぼんやりする。ずっとうなされていた記憶があるが、何の夢を見ていたのかは思い出せない。

 時計を見ると、午後二時を回った辺りだった。

 妙に寝心地が悪い。喉が渇いているせいだ、と気づいた。

 起き上がり、のろのろと台所に向かった。

 何かがずっと聞こえている。ぼそぼそとささやくような、話し声に似た、何かが。

 誰かが外で立ち話でもしているのだろう――と思いながら、水を飲んで、ついでにトイレを済ませ、ベッドに戻った。

 再び眠りに落ちるまで、話し声は聞こえ続けていた。


 次に目を覚ましたのは、夕方のことだ。

 やはり喉が渇いていた。渇きすぎて、痛いほどだ。

 起き上がり、部屋の電気を点けた。

 話し声は、まだ聞こえている。ずいぶん長い立ち話だな――と思ったが、すぐに幻聴だろうと思い直した。

 頭がふらふらする。きっとそのせいだろう。

 いちいち水を飲みにベッドを出るのも億劫なので、枕元にペットボトルを置くことにした。

 食欲はない。何か食べた方がいいとは思ったが、とりあえず、寝た。


 それからYさんは、何度か目を覚ました。

 半ば寝惚けながら、そのたびにペットボトルの水を口に含んで、すぐまた眠りについた。

 いつしか部屋の中は、真っ暗になっていた。

 囁き声がやむ気配はなかった。


 次に目を覚ますと、すでに夜の十一時を回っていた。

 熱は下がっていないが、さすがに眠気も薄れた。

 電気を点け、何か食べておこうと起き上がった。

 相変わらず幻聴が続いている。食欲が湧いたわけではないので、買い置きのミカンを一つ食べ、それで済ませる。

 それからもう一度ベッドに横になって、スマートフォンをいじり始めた。

 何となく「インフルエンザ」で検索すると、症状や対処法をまとめたサイトが、いくつも引っかかった。

 いろいろな情報が書かれているが、一番気になったのは、完治する日数だ。人によって、そこそこバラつきがあるらしい。中には治った後でぶり返したり、体が弱っているうちに別の病気にかかってしまうケースもあるという。

 それに――最悪、死に至る、とも。

 一気に不安が押し寄せてきた。

 せめて家族が一緒にいれば、こんな気持ちにはならずに済むのだろう。しかし独り、誰の目も届かないところで病床にしていると、嫌でも心細くなる。

 自分はあと何日、こんな状態が続くんだろう――。

 そんな感情が、ふと頭をよぎった。

 その時だ。

「…………」

 何かが――囁いた。

 Yさんはハッとして、部屋を見回した。

 今、確かに耳にした。何を言ったのかは分からないが、確かに聞こえた。

 ずっと続いている、あの声だ。幻聴ではない――。

「…………と」

 また、何か聞こえた。

 聞こえてくる場所も、はっきりと分かった。

 ……ベランダだ。

 ベッドから身を起こし、Yさんはすぐそばのベランダに目を向けた。

 カーテンは、寝る前に閉じて、そのままになっている。

 あの外に、誰かいるのだろうか。でも……ここは三階なのだが。

「……と、……と」

 囁き声は、頻りに何かを繰り返している。

 何とか聞き取ろうと、Yさんはベッドから身を乗り出した。

 その刹那――はっきりと、聞こえた。

「……

 文字にすれば、わずか三音だった。しかし、今一番言われたくない言葉を、「それ」は延々と囁き続けていたのだ。

 途端に、怖くなった。

 正体を確かめる気力はなかった。Yさんはすぐさま電気を消し、ベランダの方を見ないようにしながら、ベッドに潜り込んだ。

 ギュッと目を瞑る。なのに――眠れない。

 昼間寝すぎたせいだ。

「……ずっと、……ずっと」

 ベランダの囁き声が、やまない。

 眠れないなら、嫌でも聞き続けるしかない。

 恐る恐る目を開け、真っ暗な部屋の中、ベランダに視線を向けた。

 電気を消したことで、カーテン越しに、夜の明かりが灯って見える。そこに――。

 大きな影が一つ、

 大人ほどの大きさで、それは微かにうごめきながら、延々と同じ調子で囁いていた。

「……ずっと、……ずっと」

 病身をむしば呪詛じゅそのような言葉が、暗い部屋に響く。

 カタン、とガラス戸が鳴った。カーテンのわずかな隙間に、チラリと、目のようなものが覗いた。

 人の目の形に見えた。

 なのに、赤い。

 Yさんはもう一度、ギュッとまぶたを閉じた。そして眠りに落ちる時まで、その囁き声をじっと聞き続けた。

 その後、熱と渇きで何度か目を覚ましたが、ベランダの囁き声が終わっている様子はなかった。

 ……治らないのかな、俺。

 すでにYさんの心には、絶望しか存在しなかった。


 事態が変わったのは、翌日の昼頃のことだ。

 終わらない呪詛の言葉にYさんが滅入めいっていると、突然玄関のドアを誰かが叩いた。

 開けてみると、マスクを着けた母親が立っていた。

 電話越しのYさんの様子があまりに弱々しかったので、思い立って、実家から出張ってきた――と言うのだ。

「もうお昼や。いつまでお日ぃさんから隠れとんの」

 母親は笑いながらベランダに歩み寄り、迷わずカーテンに手をかけた。

「あっ!」

 Yさんが声を上げる。しかし引き止める間もなく、カーテンが開かれた。

 刹那――バサバサバサーッと、何かが羽ばたく音が響いた。

「……鳥?」

 ほんの一瞬だったが、大きな何かが飛び去るのが、確かに見えた。

「何や今の」

 母親がポカンとした顔で振り返った。

 ベランダには、もう何もいなかった。囁き声もない。

 一日ぶりに部屋にあふれるまばゆい陽光を浴び、Yさんはようやく、ホッと息をついたそうだ。


 なお、その後Yさんのインフルエンザが無事完治したのは、言うまでもない。

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