第八十七話 ベランダにいたもの

 K県内のマンションで独り暮らしをしている会社員のYさんは、以前、住人からの苦情に悩まされていたという。

「Yさん、ベランダで大きな犬を飼ってるでしょ。うちの子が下から見たって言うのよ」

 それが一番最初の苦情だった。相手は同じフロアに住む主婦だ。

 このマンションでは、ペットの飼育は禁止されている。だから隠れて犬などを飼っていれば、当然そういう苦情も来るだろう。

 しかし問題は、Yさんが犬など飼っていない、ということだ。

 そもそも犬みたいなものをベランダで飼えば、鳴き声ですぐに存在がバレてしまう。隠れて飼うにはあまりに不向きだ。

 ただ、外から迷い込んできたという可能性もない。Yさんの部屋は十階にあったからだ。

「よその部屋と見間違えたんじゃないですか?」

 言いがかりだろうと思い、Yさんは不機嫌に答えた。その場はそれで終わったのだが、三日ほどして、今度は階下の住人から妙な苦情を受けた。

「干してある洗濯物に、よく動物の毛がついているんだけど、Yさんのところじゃないの?」

 その人はベランダで様子をうかがい、真上――つまりYさんの部屋のベランダで何かが動き回っている音を、はっきりと聞いたという。

 しかしYさんのベランダには、洗濯用の物干し竿があるぐらいで、動物はおろか、観葉植物一つ置いていない。Yさんは階下の住人にベランダを見せて、ようやく納得してもらった。

 こういうことが、しばしばあった。

 苦情を言ってくる人はいつも、Yさんのベランダに動物がいるのを見たという。それは決まって、何か大型の獣のようなのだが、具体的にどんな動物なのかが分からない。

 犬だと言う人もいれば、大きな猿に見えたと言う人もいた。他にも熊とか虎とか、到底あり得ないような動物の名前を言われた時もあった。

 こんなことが続いたせいか、Yさんは次第に体調不良に陥っていった。

 断続的な偏頭痛に悩まされ、医者に行っても「精神的なものでしょう」と言われて、適当な薬を処方されるだけである。

 どうにもならなくなった――そんなある日のことだ。

 土曜日の午後だった。

 近所に買い物に出た帰り道、マンションの下まで来たYさんが、ふと自分の部屋を見上げると、ベランダに何かが蠢いていた。

 柵に遮られて姿はよく見えない。だが、確かに大型の獣のように思える。

 急いで管理人を呼び、同じところから見てもらった。管理人も同じものを見た。

 そのうちに他の住人も気づいて、何事かと集まってきた。誰もがYさんのベランダに、何かがいるのをはっきりと見た。

 ただ――あれはペットではない。迷い込んできた「何か」だ。

 Yさんはそれを説明して濡れ衣を晴らすため、管理人や他の住人と連れ立って、部屋に向かった。

 ドアを開け、大勢で玄関に踏み込んだ。

 彼方にベランダが見えた。ガラス窓一枚隔てた向こうに、熊ほどもある大きな黒い影があった。

 Yさん達がそばに寄ろうとした時だ。

 ばさばさばさーっ!

 激しい羽音とともに、黒い影はベランダから素早く飛び去っていった。

 ほんの一瞬の出来事だった。

「え、鳥……?」

 まさにあり得ないようなものを見た気がして、誰もがその場にポカンと立ち尽くしたそうだ。

 熊ほどもあって、獣に見間違えられて、しかも羽毛ではなく毛を洗濯物につける鳥とは、いったい何なのか……。結局正体は分からなかったが、それ以降はベランダに妙なものが現れることもなく、Yさんの偏頭痛も治まったという。

 ……ただ最近になって、今度は別の部屋のベランダに、その鳥が現れ出したらしい。

 そこの住人は、高齢だったこともあってか、体調不良ですぐに亡くなったそうだ。

 鳥は、まだベランダに居座っているという。Yさんは近々引っ越すつもりだ。

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