第八話 沼

 主婦のYさんがお盆に、ご主人の実家であるF県の農家に帰省した時のことだ。

 二人にはKちゃんという、五歳になる男の子がいる。おとなしい性格で、あまり外で走り回るような子ではないのだが、この日は実家に着くや、やたらと表に出たがった。

「ママ、沼に行きたい」

 ついさっき、ローカル線の駅からバスでここへ向かう途中、窓から小さな沼が見えた。Kちゃんは、その沼に興味を引かれているようだ。

 沼は、道路から百メートルほど離れた草むらの先にあった。背の高いあしに覆われた一角に、淀んだ水が溜まっていた。緑の水草と黒い泥にまみれた、お世辞にもきれいとは言い難い場所だったと思う。

 そう言えば――Kちゃんは窓から沼に向かって、しきりに手を振っていた。

「K、何かあるの?」

 バスの中でYさんが尋ねると、Kちゃんはたどたどしい声で応えた。

「ママ、あの沼に行きたい」

 ……思えば、この時から興味津々だったわけだ。

 ただ義父に聞いてみると、あの沼は、子供の遊び場には向かないらしい。

 岸がひどくぬかるんでいて、小さな子が歩けば、簡単に足を呑み込まれてしまう。また、生い茂る葦のおかげで水際の位置が分かりづらく、気がつくと水の中に落ちていた――というような事故も、過去によくあったという。

 実際、今は立入禁止である。昔はよく地元の子供が、あの沼で亡くなったらしい。

「K、あの沼は行っちゃ駄目だって」

 YさんはKちゃんにそう言い聞かせた。だが、Kちゃんはなかなか聞いてくれない。

「沼に行く! 沼に行く!」

 普段はおとなしいKちゃんが、この時ばかりは、なぜか金切り声で喚き続ける。

 そればかりか、放っておくと勝手に外へ出ていこうとする。

 引き止めて家の中で遊ばせようとしても、気がつくと大人達の目を盗んで、玄関で靴を履いている。ならばと靴を隠すと、今度は裸足で飛び出す――。

「K、どうして沼なんかに行きたいの?」

 Yさんが少しきつめに尋ねると、Kちゃんは泣きながら答えた。

「××ちゃんが呼んでたから」

 ××――という部分は、よく聞き取れなかった。

 いや、少なくとも、人が発音できるような音には思えなかった。

 そもそも、バスから見えた沼のほとりには、誰もいなかったはずだ。

 Yさんは――言い様のない悪寒を覚えた。


 その後もKちゃんは、「沼に行く」と言ってぐずり続けた。

 夜、布団に入る寸前まで、それは続いた。

 しかし泣き疲れたこともあってか、横になるとすぐに寝息を立て始めた。Yさんはご主人と顔を見合わせ、ようやく安堵した。

 時刻は十時を回っていた。普段なら眠るには早いが、Yさんもだいぶ疲れを覚えていた。

 ご主人はまだ起きているようだったので、先に寝ることにした。

 Kちゃんの隣に自分の布団を敷き、部屋の明かりを消して横たわった。すぐに睡魔が襲ってきて、Yさんは眠りに落ちた。

 それから――どのぐらい経っただろうか。

「ねえ、Kは?」

 ふとご主人の声を耳にして、Yさんは目を覚ました。

 隣を見ると、Kちゃんのいた布団が、もぬけのからになっている。

 慌てて飛び起きると同時に、玄関で物音がした。

 ご主人と二人で、急いで行ってみた。Kちゃんの靴がない。表に出ると、まさにKちゃんが、真っ暗な道路をフラフラと歩いているところだった。

「K!」

 叫んだが、Kちゃんは振り返らない。

「K! 戻りなさい!」

 叫びながら追いかけた。

 Kちゃんは、なぜか右手を前に伸ばしている。その姿は、まるでに手を引かれているようにも見える。

 Yさんは、Kちゃんに追いつくやいなや、後ろから思いっきり抱き上げた。

 Kちゃんの口から、悲鳴が溢れた。

 いや、悲鳴というよりも、それは雄叫びだった。

 まるで獣のように吠えながら、Kちゃんは手足をバタつかせて抵抗した。

 それでも、怖気づくわけにはいかなかった。もしここで怖気づいて、Kちゃんを放してしまったら、もう二度と取り戻せなくなる――。そんな確信が、Yさんには、はっきりとあった。

 ご主人と二人で、無我夢中で家に連れ戻した。

 暴れるKちゃんを玄関に引きずり込んだところで、奥から義父が飛び出してきた。

 義父は、なぜか手にフライパンとお玉を持っていた。

「K、しっかりせぇ!」

 グワァァァァン!

 叫びとともに、義父はお玉をばち代わりに、フライパンを打ち鳴らした。

「ひっ」と小さな悲鳴が、Kちゃんの口から漏れた。

 しきりに暴れていた手足が、まるで引きつったかのように、ピタリとやんだ。

 グワァァァァン! グワァァァァン!

 何度も、何度も、義父はフライパンを叩いた。

 割れ鐘のような音が、玄関に轟き続けた。

 Kちゃんは、虚ろな目でガタガタ震えていたが、やがてその場に崩れ落ちた。

 そして――今度こそ、すやすやと深い寝息を立て始めた。

「危なかったなぁ。××に持ってかれるところだったわ」

 義父が何か呟いた。ただYさんも耳鳴りがひどく、××の部分までは、よく聞き取れなかった。


 翌朝、Kちゃんはすっかり元に戻っていた。

 もう沼に行きたいとも言い出さない。そもそも、昨日実家に着いてからのことを、何も覚えてないようなのだ。

 ただ――バスの窓から沼を見た時のことだけは、はっきりと記憶していた。

「沼の向こうに男の子がいて、こっちに手を振ってた」

 Kちゃんはそう言った。だが義父はそれを聞くと、首を横に振った。

「そりゃ、振っとったんじゃない」

 手招きしとったんだ――。

 義父の言葉を聞いて、Yさんは思わずKちゃんを、ぎゅぅっと抱き締めたという。

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