第九話 学ぶ男
学生時代に都内のコンビニでアルバイトをしていた、Uさんという男性の話だ。
ある日の、深夜の二時を少し回った頃だった。
一人きりの店内で雑務に追われていると、そこへ客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけたものの、Uさんはその客の姿に、思わずギョッとした。
……性別は、男のようだ。
ボロボロのソフト帽を
もはや輪郭すら定かではない。分かるのは、丸い鼻と厚ぼったい唇だけだ。
その異様な頭をいかり肩の上に載せ、丸まった猫背にまとうのは、これまたボロボロの茶色のロングコートだ。裾からは、汚れたズボンが覗く。
足は裸足だった。甲の体毛が異様に濃い。
ホームレスだろうか――。横目で客の様子を
男は店内を一瞥すると、酒類の置かれた棚の前へ、がに股でペタペタと歩いていく。
通路に、湿った足跡がつく。よく見ると男は、全身がぐっしょりと濡れていた。
……雨など降っていないのに、だ。
どう考えても普通ではない。Uさんがさらに注意して見ていると、男は一番安いカップ酒を一本取って、ペタペタとレジに向かった。
Uさんは慌てて接客用の顔に戻り、レジに立った。
カウンターを挟んで向かい合う。間近だと、男の異様さがはっきりと分かる。
濡れた体から、湿った空気と泥水のような体臭が、じわりと漂ってくる。Uさんは内心
「いらっしゃいませ」
男は無言である。もっとも、これはどの客でも同じようなものだ。
レジにカップ酒のバーコードを読ませると、お決まりで、年齢確認を促すメッセージが表示された。
「こちらの年齢確認ボタンにタッチしていただけますか?」
Uさんはそう言って、男の前にあるタッチパネルを指し示した。
男は、動かない。
「あの、こちらを――」
Uさんがもう一度言いかけた時だ。
髭にまみれた男の唇が、わずかに動いた。
「……ぁらぃ」
しゃがれた、意味不明な呟きが、漏れてきた。
言葉が通じないのか。
――どうしよう。
Uさんは迷った。
ルール上、パネルをタッチしない人には、アルコールの販売はできないことになっている。ただ……この男はおそらく、そんなルールを知らないし、教えても理解できないのではないか。
べつに確証があるわけではなかったが、Uさんは何となく、そう思った。
「……さぁぃ」
男がまた、何かを呟いた。
Uさんの前に、ぬっと、体毛の濃い手が突き出された。
指先に五百円玉をつまんでいる。つまり――支払い自体は問題ないわけだ。
Uさんは諦めて、「ここですよ」と指を伸ばして、自分でパネルをタッチしてやった。
店長がいれば
男は毛だらけの手で、カップ酒と釣り銭を受け取ると、ペタペタと足跡を残して、店を出ていった。
「ありがとうございました」
Uさんは反射的に礼を言うと、溜め息をつきながら、足跡だらけの床を掃除し始めた。
これだけなら、ある夜おかしな客が来た――というだけの話である。
だが、問題はここからだ。
それからというもの、男は頻繁に、店を訪れるようになった。
二度目に来たのは、初めての来店から数日後のことだ。
やはり、Uさんが一人で店にいる深夜だった。
男は相変わらず、ボロボロの姿だった。顔は髪と髭に覆われ、体はずぶ濡れ、足は裸足である。
買うものも、一番安いカップ酒を一本だけだ。
ただ、多少は学んだようで、今度はちゃんと自分で年齢確認パネルにタッチしてくれた。
Uさんは少しだけ感心したが、男の指が触れたパネルには、案の定、
床も相変わらず足跡だらけである。Uさんは男が帰った後で、また掃除を強いられる羽目になったのだが――。
その手間も、三度目の来店からは、必要なくなった。
男が、濡れずに来るようになったからだ。
……いや、むしろそれが当たり前である。雨も降っていないのに、ずぶ濡れで現れる方がおかしい。
しかしこの男の場合、ようやく三度目にして、その「当たり前」になったわけだ。
四度目には、革靴を履いて現れた。やはりボロボロの代物だったが、それでも裸足でいたのとは大違いだ。
五度目には、体臭が消えた。間近に立たれても、見た目以上の不快さはなくなった。
六度目には、いかり肩が下がり、丸まっていた猫背がピンと伸びた。
七度目には、がに股が普通の歩き方になった。
とにかく――来るたびに、男はその異様さを改善させていく。
だが……いや、だからこそ、と言った方がいいだろうか。
Uさんは、次第に不安を覚えるようになっていった。
――いったいこの客は、何なのだろう。
仮に男が、初めて来た時と同じままでいてくれたなら、こんな不安など抱かなかったに違いない。せいぜい「いつも来るおかしな客」で済んでいたはずだ。
しかし、男は次第に変わりつつある。
少しずつ、少しずつ、「まとも」になっていく。
なのに、その理由が分からない。
……なぜ変わるのか。
……なぜ、少しずつしか変わらないのか。
まるで、人でないはずのものが、徐々に人へと変身していく過程を見せられているかのような、そんな気持ち悪さを覚える。
「……最近、変なお客さんが来ますよね。夜中に」
ある時、他の従業員に、そう話を振ってみたことがあった。
しかしどの従業員も、そんな客は知らないと言う。
どうやら、あの男が来るのは、Uさんが一人でいる時だけらしい。
その後も男の変貌は続いた。
手の体毛が薄くなった。
ボロボロの身なりがきれいになった。
髪と髭は相変わらずだが、その動作は、ずいぶんと人間らしくなっていた。
……ある時のことだ。
「こちらにタッチしていただけますか?」
いつものようにUさんが年齢確認パネルを指すと、男は慣れたように頷いた。
「ああ、ここだね」
――
太い、よく通る声だった。
Uさんは内心唖然としながら、商品と釣り銭を渡して、男を見送った。
それから数日後のことだ。
その日もUさんは、一人で深夜の店にいた。
自動ドアが開いて、男の入ってくる気配がした。
「いらっしゃいませ」
反射的に言いながら、雑務の手を止めてレジに立つ。いつものカップ酒を手に、男が歩いてくるのが見えた。
……顔が、すっきりとしていた。
髪は短く切られ、髭も剃られている。
帽子を目深に被り
安堵と不安の混ざった複雑な気持ちになりながら、Uさんは男の手から、カップ酒を受け取った。
バーコードを読み、いつもの言葉を繰り返す。
「こちらにタッチしていただけますか?」
「ああ、ここだね」
同じように男が言って、クイッと顔を上げた。
Uさんのすぐ目の前で、男の顔が露わになった。
その瞬間――。
「あっ!」
Uさんは、思わず叫んだ。
上げた男の顔は、Uさんとまったく同じだった。
まるで鏡に映したかのような瓜二つの顔で、男はタッチパネルに触れ、微笑んだ。
……それは、Uさんが接客用に使っている笑顔、そのものだった。
Uさんは、全身を強張らせながら商品と釣り銭を渡し、男を見送った。そして、勤務時間が終わるのを待って、ここでのバイトを辞めたということだ。
男は、Uさんを参考に「学んだ」のだろうか。
あれ以来Uさんは、深夜には出歩かないようにしているという。
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