前編

第一話 切り株

 樹が祟る――という話が全国的にある。

 神社のご神木のような信仰対象はもちろんだが、道路の傍らに立つ何でもないような樹が祟りを為した、という話も多い。そういう樹は、実は道路ができる前からそこに在って、切り倒すと障りがあるので、仕方なくそのまま残してある――というケースが多いようだ。

 現在C県に在住のMさんという会社員のかたから聞いた話も、そのような不思議な樹にまつわるものだ。


 以前Mさんが住んでいた家の近くに、大きな松の樹が立っていた。

 車と歩行者が行き交う橋のたもとに、まるで狭い歩道を押し潰すかのようにしてそびえるその松は、年期が入って黒ずんだ幹をグネグネと折り曲げながら、空に向かって手を広げるように、ずっしりと佇んでいた。

 歩行者から見ればえらく邪魔な代物だ。Mさんも毎日この橋を渡るのに、手前に広がる松の根を迂回しなければならず、少し不便に感じていた。

 とは言え、これだけ古い樹ともなれば、何かいわれがある貴重なものかもしれない。となれば撤去も難しいのだろう――。Mさんはそう思い、不満を呑み込んでいた。

 一方でMさんには、気になることがあった。

 橋を渡った向こう側――ちょうど対岸のたもとに、そちらは大きな松の切り株が一つある。手前側の松と同じく、歩道を押し潰すようにして、今なお巨大な根を広げている。

 何とも不可解に思えた。あちらはどうせ切り株だけなのだから、撤去すればいいのではないか――。橋を渡るたびにそう考えていたMさんは、ある時、町内会で親しくなった近所の人にそう漏らした。するとその年配の男性は、わずかに声を潜めて、こう答えた。

「あの切り株、なんですよ……」

 何でも道路工事の際に切り倒したところ、その日から作業員が次々と変事に見舞われたらしい。

 現場での事故はもちろん、急病や身内の不幸、火事や落雷など……。とにかく異変が相次ぎ、「樹の祟りだ」と騒ぎになった。そこで神主を呼んでお祓いをし、「せめて切り株のままでもいいから残そう」ということになったのだという。

「反対側にも松の樹があるでしょ。あれ、夫婦めおとまつって呼ばれてて、切り倒された樹とペアみたいなものでね、かなり古くから川を挟んで、あそこに立ってるんですよ」

 年配の男性はMさんに、そう教えてくれた。

 なるほど、片方の樹を切って祟りに見舞われた関係者が、さらなる祟りを恐れて、もう片方には手をつけなかったのだ。だから、健在な樹と切り株が川を挟んで向かい合うという、奇妙な図が出来上がってしまっているわけである。

 話として筋は通る。ただ――実はもう一つ、Mさんには気になっていることがあった。

 Mさんは会社へ行くのに、いつもこの道を通る。聳える松の脇を抜け、橋を渡って、対岸の切り株の横を通り過ぎ、駅へ向かう。その切り株に――。

 時々、老人が一人座っているのだ。

 真っ白な着物を着て、真っ白な髪をダラリと垂らした、しわくちゃの老爺ろうやだ。それが切り株に腰をかけ、ぼうっとした顔で川の方を眺めている。

 晴れた日にいることが多い。何をするでもなく、何を話すでもなく、視線をやや上に向け、口を半開きにして、じっとしている。

 いわゆる徘徊老人かとも思ったが、いつもそこにいるから、迷子になっているわけでもないらしい。だいたい通る人も、誰もその老人のことなど気にしてない。町内会の人にそれとなく聞いてみても、「さあ、そんな人いましたっけ」と返される。

 ……もしかしたら、自分以外の人間には、あの老人が見えていないのかもしれない。

 ふとそんな妄想に駆られたことも、二度三度ではなかった。

 そんな折――町内で突然、「切り株を撤去しよう」という動きが持ち上がった。

 住民の世代が変わってきたこともあって、謂れがどうこうよりも、ただ通行の不便さが叫ばれるようになっていた。とにかく「あの切り株をそのままにしてあるのは行政の怠慢だ」と、市民グループが音頭を取り、さっそく署名運動が始まった。

 もっとも、撤去に反対する声も少なくなかった。町内会は二つに割れた。Mさんはギスギスした空気の中で迷いながらも、何となく嫌な予感がして、署名を断った。


 それから数日は、何事もなく過ごした。

 Mさんが「それ」を見たのは、週末の土曜日のことだ。

 昨夜の残業で終電を逃し、明け方になって駅からの道を歩いていたMさんは、橋に近づいたところで、ふと足を緩めた。

 切り株に、あの老爺が座っていた。よく晴れた早朝だった。

 老爺は相変わらず川の方を向いて、視線をやや上げて座っていた。いつもと違うところと言えば、普段は大樹の側から来るMさんが、今日は朝帰りのために切り株の側から来たということだ。

 老爺の背中を見たのは初めてだった。

 Mさんは、何とはなしに、老爺の視線を追った。

 老爺の目は、対岸の松を見上げていた。

 そこに――老婆が一人、ぶら下がっていた。

 聳える松の天辺に、両手両足で太い枝をつかみ、サルのように逆さまになっていた。

 真っ白な着物と白髪を垂らし、老婆もまた老爺をじっと見下ろしていた。

 Mさんは慌てて目を逸らすと、すぐさま来た道を戻り、遠回りして家に戻った。そして一週間もしないうちに家を引き払い、会社のそばにある中古のマンションに引っ越した。


 それから数ヶ月後。あの切り株が撤去されたというニュースが、地方新聞の片隅に小さく載っていたそうだ。

 あの時署名をした人達がどうなったのか、Mさんは恐ろしくて、まだ調べてない。

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