あと15センチ跳ばせて

西谷治記

第1話 あと3センチ跳べない

 ダメだ。失敗だ。


 背後の感触は、それを如実に伝えていた。


 ぐわん、という、音とも感触とも取れるそれを、五感のできる限りで感じる。



 まず触覚がそれを捉えた。

 薄いユニフォーム越しに感じる、しなったバーの感触は、陳腐な言い方になるが――最悪だ。


 終わったことを肌で感じさせる。


 何度も味わったこれを、この土壇場でまた感じることがたまらなく不愉快だった。今日くらいはこれを感じたくなかった。


 なのに――。


 緊張で固まった身体は、多少のストレッチではほぐれていなかったようだった。

 いや、さっきまではほぐれていたのかもしれない。でも、いざ本番! となったこの瞬間になって、またダメになってしまったのかも。

 自分でもどちらかわからない。そのときは大丈夫だと思っていたのだから。


 本当に、自分の本番に弱いところは……。直したかったのだけれども、結局3年間直らなかった。



 次に、聴覚がそれを捉えた。


 ぐわん、と強くしなった音が、背中から腰にかけてのどこかに当たったことを嫌でも感じさせる。


 この音が聞こえたときは、大概において勢いが足りていないのだ。

 踏切のタイミングはよく、高く跳べている。反りが多少足りていないかもしれない。足は…… まあ、タイミングよく上がっていても、上がっていなくても無意味だ。

 そして――、勢いが足りず、バーの上から落下している。

 理論上は、勢いはそういらない。しっかり反れていれば、勢いは最低限でいいからだ。

 だが、中学生の、それも地区予選レベルなら、勢いでなんとなくごまかせるレベルもある。

 

 それすら足りなかったのだが。


 どことなく他人事のように、その音を聞いた。


 ぐわん……。



 最後に、視覚がそれを捉えた。


 大きくしなったバーが、反動で上に上がるのが見える。


 小学校の頃、山という字の成り立ちを習ったときに、先生が黒板に描いたイラストに似ている。そんな、どうでもいいことが思い出されていた。


 ずいぶん大きく跳ねたように見えた。

 遠近感がおかしいのか、それとも本当にそうだったのか、バーは真上に跳ねているように見えた。できることなら、そのまま収まってくれ。

 そうすれば――、

 そうすれば――、


 それ以上は考えられなかった。


 がらん、どさり。

 バーと俺は、同時に倒れ込んだ。


 背中から落ちても大丈夫なように、分厚いマットが置かれている。少しその上に転がったまま考えた。


 そもそも、そのまま収まったからどうなるのか。あそこまで露骨に引っかかってしまえば、そのあとどう収まろうともダメに決まっている。

 実際にそういう事例を見たことがあるわけではないが、常識と照らし合わせればそうだろうと推測することは容易たやすい。

 跳び上がってしまったバーを見て、白旗を挙げたくなる審判はいないだろう。心情の話ではあるが、審判が機械でない以上は、心情だって大切だろう。


 切羽詰まったときの人の考えることは、時々本当にちんぷんかんぷんだ。これが他人事だったら面白いだろうが、今回切羽詰まっていたのは自分自身なので何も面白くない。



 大いなる現実逃避を強制シャットダウンされて目に入ったのは、審判の振る赤旗と、次に飛ぶヤツの「早くどけ」という目線だった。

 「目は口ほどにものを言う」とあるが、本当に目線で話しかけられたのは初めてだ。

 嫌な初体験をしてしまった。



 終わった。俺の出番は終わったのだ。


 これで晴れて夏休みの受験生だ。塾の夏期講習ももう申し込んである。

 志望校には、たぶん合格するだろう。

 

 うぬぼれ。

 あなどり。


 なんと言ってくれてもかまわない。

 俺の回答は変わらないからだ。今すぐ受験してもどうせ合格だ。

 

 自分の成績と、志望校の偏差値を比べて、だいたいそれっぽいところを第一志望ってことにした。そんなおバカ高校ってわけじゃないけれど、ここなら落ちないだろうって高校だ。



 ――そうして、不安要素の一つを消しておかないと、俺は部活にも集中できなかっただろうから。この中学生活、不安要素が多すぎるんだ。

 毎学期2回のテストだって不安だし、そうじゃない抜き打ちの小テストをやる先生もいる。もちろん高校受験も不安だし、友達づきあいもある。

 そして――俺にとってはこれが一番大かったんだけど――部活できちんと成績を出せるかってこと。

 俺は、なにか一つに集中したら、他のことはおざなりになりがちなんだ。そんなの、まだ14年と半年しか生きてないけどもうわかってる。


 母さんや先生は、もっといい高校を狙ってほしいとか、もっと今から頑張ればもっと上の高校に行けるとか言ってたけど、そんなことには惹かれなかった。


 そうしたら、約束を果たせない。

 

 俺の部活の成績はいいわけじゃない。そもそも小学生の頃までろくに運動もせずに来たヤツが、中学に入ってから突然やり始めた部活ですごい成績を出せるわけもない。

 だから、みんな俺に勉強をしろって言うんだろう。

 

 でも勉強に力を入れたら、俺は部活をおろそかにしてしまう。そんなの嫌だ。


 約束したんだ。


 どうしても格好つけたい、一人の女の子に。

 約束したんだ。絶対跳ぶって。


 もう彼女は覚えてないかもしれない。

 でもどっちでもいいんだ。

 

 俺、跳べたら告白しようと思ってたんだ。

 でも、どっちでもいいんだ。


 もう、どっちでもいいんだ。


 だって今、俺、跳べなかったから――。


 気づいたら、涙があふれた。

 もう目線の声は聞こえなかった。

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