第5話 カズマの憤り
「たとえば悪い人がやってきて、自分と、自分にとってすごく大切な人の両方を傷つけられたとします。そのとき自分にとって、どちらの傷の方がより悲しいでしょうか」
えみちゃんと僕は、また同じ喫茶店に来ていた。CDを返すためだ。いま世間を騒がせている幼児死体遺棄事件について話しているうちに、そういう話になった。えみちゃんのする質問は、いつも難しい。簡単な疑問は自己解決できてしまうがゆえに、人にする質問はえみちゃんの頭脳をもってしても容易に解答の出せない、難問になるのだった。
「どっちもだよ。どっちも同じくらい悲しい。選ぶ必要なんかない」
頭に浮かんだ「自分にとってすごく大切な人」が、なぜかえみちゃんになっていた。おいおい、いつから僕はそういうポジションになった。自分にツッコむ。
「自分は回復の見込みがあって、大切な人のほうは手遅れだった場合は?」
「それは、大切な人の方を悲しむかな」
「そうですよね。それが普通だと思うんです。そうでないと、その人は自分にとってそれほど大切ではなかったということになってしまいますから」
「あ……」
そういう考え方になるのか。たしかに筋は通っているが、どこか病的だ。悲しみの比重で相手の大切さを計るシーソー理論。
「程度の問題だと思いますけど」
えみちゃんは一息置いた。
「わたしの失声の原因も、つまりそういうことでした。あ、この話題、話してもいいですか?」
「大丈夫だよ。いまさら引いたりしないし」
やや控えめな表現をする僕。本当は、興味津々なくせに。だが、あまり乗り気な態度では逆にえみちゃんの方が引いてしまう。
「ふふ。ありがとう。わたしの場合は極端でした。大切な人を大切だと信じたいがために、わたしの中の無意識ちゃんはキミはもっともっと悲しむべきなんだと、声を出せないようにしてしまった。わたしの頭はいろいろ考えて、完璧な被害者になる道を選びました。そんな子が、すぐに治るわけがありません。一年以内に治ってラッキーだったかも」
決して笑うべきところではないのだが、「無意識」という言葉にちゃん付けするセンスに、少し吹きだしてしまった。だが考えてみれば、それだけ無意識という言葉と深く馴染んできた証でもあるのだ。えみちゃんが過去の心の病について話していてもあまり痛々しくならないのは、そうやってひとつひとつ自己を分析することで立ち直ってきた強さを感じるからだ。
「ごめんごめん。そうか、その理論を応用すると、もし自分の方がより深く傷つけられていて、さらに自分がその人にとっても大切な存在でありたいと願う場合は、その人にはよほど悲しんでもらわないと釣り合わないことになるね。結果的には、自分がより傷ついたということを表現するのかな?」
「えーとそうですね、その場合は、単純に自傷行為に及んだりするより、むしろ元気を空回りさせる方向に持っていった方が、相手の同情を得やすいと思いますよ。わざと空回りしてみせるのがポイントですね。たとえば何事も無かったかのように家族と話すし、学校にはちゃんと行くし、友達とも遊ぶ。そういうのは全力でやるんです。ただし、ごはんは全部食べたあと、いつもいつもそっくりもどしてしまうとか。この場合は拒食症ですか。まあ結局のところこれも自傷行為の一種なんですけど。あ、ごめんなさい。汚い話で」
えみちゃんはほとんど間をおかずに答えた。それなりに考えを巡らせる必要のある問いかけだと思うのに。この手の話題に関する反応速度の速さは、僕の人生の中でえみちゃんがダントツの首位だ。
「ああ、なるほどね。それなら完璧なまでに痛々しい」
僕はうなずく。元気なくせに拒食症。それではすぐに倒れてしまう。でも、それで周囲からの哀れみを一身に受けることが目的なのだ。中学時代に同じ教室に居た、拒食症の女の子を思い出す。手脚や頸回りの関節に張り付いた皮膚。抜け落ちた髪。見ていられなかった。原因は知らないが、意識的にああなるのはまず不可能だと思う。自分の意志ではなく、心が自分の身体を、すなわち命を殺すことがあるということを、あのとき初めて知ったのだ。
「無意識ちゃんに主導権を投げたら大変ですね」
「大変です。でも、わたしには無意識と意識の明確な区別はよくわかりません。少なくともわたしは、うすうす自分のやっていることの意味や目的に気が付きながら、それでも続けていました。問題は、それがあまりに絶対化しているから、自分の中ではもうどうしようもなくなっていることだと思います。無意識というと一般には感情とか衝動が押し込められているものというイメージを持たれていると思いますけど、むしろ数学の公式みたく絶対化した理論そのものが無意識ちゃんの正体だとわたしは思います」
そこまで聞いたとき、僕は気が付いた。このシーソー理論からは、本来あっていいはずのある感情についての考慮が意図したかのように抜けている。
「元凶である悪い人のことは、その理論から全く除外されていますね。憎しみはないんでしょうか」
憎しみがないというのは不完全、というか、不健全な気がする。大切な人が傷つけられた。自分だったら、悲しむと同時に、まず相手を憎む。殺してやりたいと思う。
えみちゃんは紅茶のカップから顔を上げ、丸い眼でこちらを見た。瞳の中に微妙な段差を見つけ、コンタクトをしているのだと分かる。眼鏡をしても似合いそうだ。
「そうですね。そうです」
「無意識ちゃんがひた隠しにしたいご本尊は、悪い人に対する感情ってことになるのかな。ところで、悪い人は結局どうなったんでしょう?」
聞いてしまってから、少し後悔。聞いてはいけなかったかもしれない。さきほど言っていたではないか。「そんな子が、すぐに治るわけがありません」と。失声が治ったからといって、原因が取り除かれているとは限らない。
「いや、いいです。言いたくなければ」
「構わないです。聞いてください。その悪い人は、既に相応の罰を受けました。憎む必要は、もうありません」
僕は安堵した。憎んでいない、ではなく、憎む必要がない。そう感じていることが、全快の証だと感じた。憎しみは、たぶん消えてはいないのだろう。だが、憎む必要を失わせたこの社会においては、もうその思いは昇華されることはないのだ。きっとえみちゃんは、それも受け入れている。そう思うと、無性にえみちゃんを楽しませたくなった。
「なにか祝おう。そうだ、ちょっと遅いけど拓也くんの入賞祝いをしよう」
「え? 二人で?」
僕はCDのジャケットを見せた。
「彼はここにいる。三人で美味しいものを食べに行こう」
喫茶店を出て、近くのデパートのレストラン街へ行く。えみちゃんが好きだというアジア料理店を見つけ、そこに入った。
「拓也さんの好物とか、さすがに分からないですね」
ナシゴレンをつつきながら、えみちゃんが言う。
「これから世界をあちこち飛び回るわけだから、こういうのも食べられないとだめでしょ」
そう言って、トムヤムクンを啜る僕。祝っているのかなんなのか。
「いきなりマネージャー気取りですか」
にやにやするえみちゃん。
「会ったこともある」
「わたしなんか話したこともあります」
そうやって笑いあっていると、僕のスマホが鳴った。カズマからだ。
「総務部への異動が決まった」
森丘さんのことだった。声の調子はいつもと同じ。だが、その後ろで静かに燃えている怒りが、スマホ越しにも吹きだしてきそうだった。
「本人の同意もなしに。開発一本で来たひとだぜ?」
「奥さんには?」
つい、そう聞いてしまう。森丘さん本人があの状態では、言っても聞こえていない可能性が高い。
「たぶん伝わってない」
「ちょっと、ごめんね」
えみちゃんに言って席を立ち、店の前の通路に出る。
「そんな風に勝手に部署異動ってさせられるものなのか?」
「人事権は会社にあるからな。ただ今回のは普通じゃない。戻る場所をなくしておいて、いざ戻ってきてもろくに仕事を与えずに干すつもりなんだろう。いままでみたいにこき使えなくなるわけだからな」
「ひどいじゃないか。なんて会社だ」
強い憤りが心の中で暴れだす。さっきまでの楽しい気分が引き潮のように逃げていく。
「そう思うよ。戻る前に早々にやってしまおうっていうのが見え見えだ。だけど、どうしようもない」
「そんな」
「おれは、今ほど自分の無力を感じたことはないよ。自分にできることなんて一つもない。おれは何なんだ」
カズマの声の震えが、スマホを握る僕の手にも伝わってくる。カズマと同じ無力感を、このとき僕もかみ締めていた。ぎりぎりと、スマホを握力のかぎりでもって握り締める。でないと、振り落としてしまいそうだった。
「お前のせいじゃない」
歯の間から、ようやくそれだけを言う。
「……ありがとう。すまんが、来週の同じ日にも、代理を頼んでいいか」
お見舞いのことだった。森丘さんにとって意味があるのかどうか分からないが、少なくとも自分には行く理由があるような気がした。
「うん。いいよ」
「仕事の進みが思うようにいかなくてな。このまま忙しさにまかせていると、森丘さんとのやりとりが途切れてしまうかもしれない。おれはそれだけは避けたい」
「カズマこそ、大丈夫か? お前まで倒れるなよ。倒れる前に辞めるか逃げろ」
「言われなくてもそうする。命まで捧げるような会社じゃない」
そう言って、カズマは通話を切った。
テーブルに戻ると、えみちゃんが心配そうな顔でこちらを見た。食事の途中だったことを思い出す。
「大丈夫ですか?」
「うん」
スープを口に入れると、冷めはじめていた。もともと辛いスープが、余計に舌に塩辛く感じる。
「本当に?」
「僕はね」
「いろいろ、周りの人から相談されるでしょ。話を聞くのがうまいと思います。相談事って、たいてい話を聞いてほしいだけのことが多いから。話すのがうまい人には、逆に相談してはいけないんです」
「えみちゃんは話す方だよね。てことは、相談しちゃいけない?」
「え? いいですよ? してください。例外もあるんです」
えみちゃんはしれっとした顔で言った。
僕は、カズマの上司、森丘さんのことを話した。楽しませるつもりでここへ来たのに、話が終わる頃には、えみちゃんも僕と同じくらい難しい顔をしていた。
「失語症は、わたしとしては失声よりよほど重い病気だと思います。失声は喋れなくなるだけですけど、失語症は読み書きや、物事を考える能力にも影響しますし。ほとんど、知らない外国にいきなり放り込まれたような気分になるそうですよ」
「リハビリでよくなるもの?」
「大変だとは思いますけど、治らない病気ではないと思います。知り合いに、その方面に詳しい人がいるので、ひょっとするとリハビリ専門のいい病院を紹介してもらえるかも」
「ほんと? それはありがたい。助かる」
本当に、言ってみるものだ。だが、これでえみちゃんに借りができてしまった。近いうちに彼女を楽しませるリベンジをしなければ。
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