第4話 拓也くんの深淵
「わたしは、自分に言い訳をしていました」
ふと、腕時計が目に入る。えみちゃんと話し始めて既に三時間以上が経っていて、びっくりする。
「わたしも拓也さんも失声だったので、話をしたことがないんです、一度も。だから、声を聞いてもわからないし、関係ない。拓也さんが来ていたことを知ったのは、全て終わった後だった。わたしはそう思い込んだんです。わがままの一つも言わない代わりに、ちゃっかり自分を守る術には長けている、そういう子供だったんです」
「でも、声を聞いたとき、本当に分からなかったんでしょう?」
「分からなかった、と思います。でも、そう思いたかったから、自分の中ではそうなっているだけかもしれません。それに、名前を呼ばれたとき、勇気を出して扉を開ければよかったんです。わたしが臆病だったせいで、余計な怪我をさせたかもしれません。今思うとぞっとします」
「彼は、その後どうなったんですか? いや、こうしてCDが出ているということは、無事だったということなんですけど」
「変な話ですが、場所が病院だったことが不幸中の幸いでした。あとは指が無事だったことも。でも直接は会っていないので、どの程度の怪我だったのかは知らないんです」
「それにしても、花とおもちゃ、ですか」
えみちゃんは頷いた。
「月桂樹ってご存知ですか」
「たしか、あれですよね。オリンピックで勝った選手がかぶるやつ」
「そうです。あと料理にも使います。カレーとかシチューとか。ローレルと言ったほうが分かるかもしれません。他にもローリエとかベイリーフとか、いろんな言い方があります」
ああ、あれか。確かに、実家のカレーには葉っぱのようなものが入っていた。あれは月桂樹の葉だったのか。
「月桂樹は葉のほうが有名ですけど、花もちゃんとあるんです。黄色くて丸い、かわいらしい花が咲くんです」
「彼がそれを……」
持ってきたのだろう。そして、タケルくんとけんかになったのだ。
「わたしの誕生日が二月十六日。その日の誕生花が、月桂樹なんです。後になって知ったことなんですけど。誕生日プレゼントだったんだと思います。花もカメラも」
「どうして春になってからだったんだろう?」
「それも、よく分かりません。たぶん、それはわたしが、その次の日にリハビリを終えて、教室を出る予定だったからだと思います。あと、これはまったくの想像なんですが、カメラをプレゼントしたくても、わたしが治っていないうちは渡しにくかったんじゃないでしょうか。わたしはシャッター音がダメでしたし、それは拓也さんも知っていました」
「ああ、それはなんとなく分かる。えみちゃんにとってカメラを持つということは、克服の証なんですね。拓也くんというのは、度胸があるなあ。僕だったら、もしまだダメだったらと思うと、怖くてプレゼントできないや」
「そのあと、たまたま彼の家の前を通りがかる機会が何度かあって。そうすると聞こえてくるんです。ピアノの音が」
「彼が弾いていたんですね」
「ええ。でも、どうしても会う勇気はありませんでした。チャイムも押せなかったんです。彼の弾いていた曲が、なぜかわたしを責めているように思えたんです。聴いているのが辛くなってしまって。考えすぎですよね」
「暗い曲なんでしょうか。彼が弾いていたのは、何という曲ですか?」
「その曲が、このCDに入っているんですよ。だから探していたんです。長かった話も、これでようやく終わりです。お疲れ様でした」
彼女は憂いを含んだままの表情で微かに笑みを作り、CDケースを裏返した。
収録曲のリストに細い指が走る。
「これです」
彼女が指差したのは、ベートーヴェン、ピアノソナタ第八番、ハ短調、『悲愴』第一楽章だった。
「ごめん、たぶん聴いたことはあると思うけど、どんな曲か思い出せない。というか、これって小学生に弾けるような曲なの?」
「ええ、そんなに難しい曲ではないです。弾くだけなら、当時のわたしでもできました。ただ、そういう曲ほど上手い下手の差が出やすし、特にこの曲は表現が難しいんです」
「うん。帰ったらじっくり聴いてみるよ」
「よければ感想を聞かせてください」
「わかった」
そのあと二、三の世間話をして、僕らは別れた。帰り道も電車の中も、頭の中がえみちゃんの声でいっぱいだ。よく寝ないと、消化不良を起こしそう。
部屋に帰ってCDを聴きながら、松岡拓也のことを考えていた。クラシックを知らない人間でも、このピアニストの天才ぶりが否応なくわかる、そういうアルバムだ。
僕がよく聴くロックバンドはかつて、奇跡的な出来のアルバムをものにした。もう十年以上も前の話だ。だが僕はそのアルバムを、今でも飽きずに聴いている。それだけなら、そのバンドにとっては幸せなことだろう。だが、同時にそれ以上のアルバムをそのバンドが出せないでいるのも事実なのだ。昔の自分たちを超えられない。これは、はたして幸せなことだろうか。
そのアルバムが出た当時、僕は思った。
こんなにいいアルバムを出して、この人たちはこれからどうするのか、と。
このCD、いや、松岡拓也の経歴そのものから、それと同じにおいがする。
普通の人間がゴールと認識している地点に、天才と呼ばれる人たちは早々と到達してしまう。だが、人生のコースにおいて、そこはゴールではないのだ。
えみちゃんは『悲愴』が自分を責めていると感じたと語ったが、確かに彼の演奏するそれの感情世界は深く昏い。僕は思う。彼がたとえば、この先なお続く長い人生に虚しさを覚えることが、ひょとしたらあるかもしれない。
深淵、という言葉が脳裏に浮かぶ。
なんだろう。同じ感覚を、最近どこかで感じたような気がするが、思い出せない。
そういえば、えみちゃんが持ち帰った月桂樹の花と葉はどうしたんだろう。結局はその後、拓也くんとえみちゃんのつながりは切れてしまったのだ。花も葉も、ただ朽ちたのか。幹からはなれたそれらは、ただ死に向かって墜ちてゆくのみ。
葉の方は、えみちゃんの家でカレーになったかもしれないな。
僕はなんとなく、カレーが食べたくなった。
* * *
病院に入ると、強烈な消毒臭が鼻腔を襲う。苦手だ。あきらかに僕を拒絶している。
受付で、カズマに聞いた上司の名前を告げ、病室の場所を案内してもらう。
大きな窓から午後の陽光が差し込む、白く長い廊下。病室へ向かう三階から、広い中庭を見下ろす。背の低い木が何本か植わっている。その幹の周りのベンチで、何人かの患者がひなたぼっこをしている。付き添いの看護婦の姿も見える。雑音が取り除かれた、人間のビニールハウスだ。
教えられた病室をノックすると、化粧っ気のない、やつれた顔の女性が顔を出した。
「はじめまして」
名前を告げて、挨拶をする。
「鷹崎くんの代理で来ました」
「すいません、わざわざ」
深々とお辞儀。お辞儀の仕方がやけに板についている。最近、何度も繰り返している動作に違いないが、この人のそれはもっと年季が入っている。
彼女は、森丘の妻のカナエです、と名乗った。カナエさんの職業は営業、販売、受付、あるいは秘書かもしれない。それに、想像していたより、ずっと若い。ひょっとすると同い年か、僕より若いかもしれない。今のようにやつれる前を思うと、かなりの美貌の持ち主だ。
「主人の病状については、鷹崎さんから?」
カナエさんが不安げに尋ねる。そういえば、詳しくは聞いてない。しまった、気まずい。
「いえ、ただ、過労で倒れた、としか」
「そうですか。ちょっと……」
カナエさんは廊下に出て、病室のドアを閉めた。
「いきなり会うと、びっくりなさると思うんです」
そんなに重いのか。
「主人は脳溢血で倒れました。意識は戻っていますが、後遺症で身体の右側に麻痺があるのと、言葉が使えません。あとは、記憶も曖昧で、自分に何が起こったのか、まったく分かっていない状態です」
言葉が使えない、というところで、えみちゃんの言葉を思い出した。失語症というのは、脳卒中や頭部損傷の後遺症だ、と。脳卒中とは脳溢血や脳梗塞の総称だ、とテレビで聞いたことがある。つまり森丘さんは失語症なのだ。
「会ってもいいのでしょうか」
「それは、こちらからお願いします。先生も、人と会うのはいいリハビリになるとおっしゃってましたし」
改めて、病室へ入る。病室の主は、入ってきた僕を、ただぼんやりと見つめていた。焦点があっているのかいないのか、挨拶をしても、何の反応も返さない。
「あなた、鷹崎さんの代わりできてくれたんですよ」
妻の言葉にも、森丘さんは反応しない。やがて、つい、と窓の外を向いてしまう。やはり、この人も若い。カズマ自身が実年齢より二、三歳年上の雰囲気を持っているせいで、その上司となると、かなり上のおじさんを想像していた。だが実際を見ると、おそらくまだ二十台だ。
「すいません、せっかく来て頂いたのに」
またお辞儀。そんなにお辞儀をしてばかりだと、よけい惨めになるからやめたほうがいいのに。
「これ、お見舞いです」
花束と、果物、そしてフォトカード。カード全てが一望できるよう、壁掛けのクリアフォルダも持ってきた。
「ま、ありがとうございます」
作られた笑顔が完璧で、かえって痛々しい。やっぱり、人と対面する職業に間違いない。今は、休んでいるのだろうか。
「あとこれ、鷹崎くんから預かってきた手紙です」
カズマから上司に宛てた手紙だが、この様子だと読まれるのはずいぶん先になりそうだ。
「ありがとうございます」
今度はカナエさんがお辞儀をする前に言う。
「いいです。写真、かけましょう」
吸盤式のフックを壁に貼り付け、クリアフォルダを吊るす。それにフォトカードを入れていく。カズマと約束した次の日に数えてみたら、全部で七十九枚あった。クリアフォルダは一番大きいものでも、八×四の三十二枚しか入らない。カナエさんと手分けして、フォトカードが敷き詰められた三つのクリアフォルダが完成する。ベッドの反対側の壁が写真でいっぱいに埋まった。
「これはなかなか壮観ですね。病室じゃないみたい」
カナエさんが作りではない笑みを浮かべた。主の方を見ると、ぼんやりとフォトカードの方面を向いていた。眺めていた、とは言い切れない。
「サイクリングを趣味にされていたそうですね。カズマから聞きました。走りながら自然の風景を眺めるのが好きだった、と」
僕は手近にあった丸椅子に腰掛ける。
「そうです。私たちが知り合ったのも、専門学校時代の自転車サークルでした。お医者さんに、また自転車に乗れるようになるか、って言ったら、とんでもないって顔をされましたよ。絶対に無理だって」
カナエさんはまた疲れた表情になる。
そんなことを医者が言うべきではないのではないか。自ら敗北宣言をしたも同然だ。
「リハビリはされているんでしょう」
「一日三時間くらい、歩行訓練をしています。先生の話では、ちゃんと歩いたり話したりできるようになるまで、半年はかかるそうです。少なくとも、そう思っておいたほうがいいと」
半年、という言葉を聴いた途端、この夫婦の目の前にある壁の大きさが、少し分かったような気がした。相当な精神的負担だろう。金銭的にはどうなのか。労災はでない、カズマの言葉が甦る。あまりにも理不尽だ。カズマはあの言葉を言ったとき、きっとどうしようなく怒っていたに違いない。
「おおきい赤ちゃんができたみたいです」
僕が病室を出るとき、カナエさんはそう言った。扉を閉める前にもういちど主の方を見ると、やはりまだフォトカードの方を向いていた。興味が湧いたのだろうか。だとしたら、持ってきてよかった。
廊下に出ると、日が傾き始めていた。朱色のフィルタをかけられた庭を見下ろす。誰もいなくなった空間を遊ぶように、風に煽られた落ち葉がひらひら舞っていた。
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