第3話 えみちゃんの失声
CDのやりとりをした森の詩人は、えみちゃんといった。大学は一昨年卒業し事務職に就いているそうで、それであれば僕と同い年だった。CDの受け渡しをするのに、喫茶店で待ち合わせをする。ただでCDを借りるわけにはいかないので、紅茶とケーキでビジネスということにした。やりとりはLINE。さすがに住所はまだ訊けない。彼氏はいるのだろうか。おや、僕はどうやら下心があるらしい。
深呼吸。するとえみちゃんが現れた。やあ、と手を上げる。
「そういえば、在庫があるかどうか、店に確認しませんでしたね。ひょっとしたら、在庫があったかもしれない。あったとしたら、こうして時間をとらせることもなかったかもしれない。申し訳ない」
苦笑しながら謝ったのは僕。確認しなかったのはただのうっかりだと思っていたが、下心があるらしいと自分で気付いた今、それも怪しかった。
「うん、わたしもお店出てからすぐ気付いたけど。でも最近ブレークしはじめてる人だから、無かったかもなって」
えみちゃんは今日も、デザインは違うがポンチョルックだった。テーブルに着くとそれを脱いで脇の椅子にかける。ポンチョで隠れていた肩や胸に女性らしい曲線が現れ、僕はどきりとする。
僕は受け取ったCDを、名刺をそうするようにテーブルの傍らに置く。えみちゃんがモンブランをほおばっている間、僕はそのCDを探しに来た経緯を話した。店に彼とそっくりな人物が来た、と。
「それがほんとに彼なら、久しぶりに日本に帰ってきたんですね。へえ」
初めてその娘から微笑が漏れた。松岡拓也という男、日本にいるのが当たり前ではないらしい。売れっ子ピアニストの生活など想像の外だ。
「普段はどこにいる人なんでしょう?」
「えっと、ワルシャワだと思います。ポーランドの」
ポーランド……頭のひきだしを探る。ああ、第二次世界大戦で真っ先にドイツに占領された国だ。それ以外に何のイメージもない。自分の人生に全く交わることのない、遠い土地。きょとんとしている僕の顔を見てえみちゃんは続けた。
「あ、あのね。この人、実は知り合いなんです。ずいぶん昔の。もう十年以上も会ってないし、向こうが覚えてるかどうかも怪しいけど。ところで、彼が日本にいることを教えてくれたお返しに、わたしがこのCDを探していた経緯をお話ししましょうか。かなり長くなるんですけど」
えみちゃんはちら、と店内の時計を見た。まだ夕方だ。腕時計をしない主義らしい。
「お願いします」
僕は頷く。この娘、何者だろう。すごく普通に見える。でも世界を股にかける天才ピアニストとつながっているのか。えみちゃんとの距離感がわからない。ポーランドと日本の中間地点。どこだよ、それ。
「小学生の頃なんですけど、わたし、声が出せなくなったことがあります。精神的なものが原因で」
昨日の天気を話すような口調でヘビーな話題を切り出すえみちゃんに、僕はビクつく。
「失語症?」
えみちゃんは苦笑した。ああ、またか、という表情。
「違います。よく誤解されるんです。失語症というのは左脳の生理的な機能疾患からくるもので、脳卒中とか頭部損傷の後遺症として発症する場合が多いみたい。わたしみたいに精神的なショックからそうなってしまうのは、心因性失声と呼ばれます。失う、声、と書いて失声。昔、皇后さまが一時期罹ったのもこれです。堂々と失語症と言っていたマスコミもいたみたいですけど」
そこまでを流れるように言い終え、えみちゃんは紅茶をひと口啜った。
専門的なボタンを押してしまったらしい。内容を理解するのに頭のエンジンを入れなおす。
「あ、ごめん、僕も勘違いしていたよ」
ひと呼吸遅れて気付く。
それにしても、そんな過去があるとは微塵も感じさせないほど、しっかりとした語調ですらすらとよく喋る。すばらしく回復したようだ。僕などよりよほど話すことに対する自信に溢れている。
「それでね、わたしみたいな子たちが通う、リハビリ所みたいなところがあるんです。話し方教室、とかいう。そこに、彼もいました」
えみちゃんの栗色の瞳が、CDジャケットの上ですましている彼の顔に注がれていた。
「じゃあ、彼もその、失声というやつ?」
えみちゃんは頷いた。
「そうです。家がご近所だったこともあって、病院まで一緒に送り迎えをしてもらうようになったんです」
病院か。カズマの上司のことを思い出す。そういえば僕も昔、ひどい小児喘息で病院に通っていたことがある。中学のときに引越しをしたら、なぜかあっという間に治った。治ってしばらく経つと、もう自分が喘息だったことも、ほとんど思い出すことはなくなった。自分のことでさえも、過ぎ去ってしまえば人間は簡単に薄情になれる。えみちゃんの失声も、そうなのだろうか。だから、こんなに軽く話せるのだろうか。
「数ヶ月間、一緒に通いました。それだけなんですけどね。回復したのは拓也さんの方が早くて、その教室を出てからは、一度も会ってません」
「彼がピアニストを目指したことは知っていたんですか」
「ええ。子供の頃から、ものすごく上手でした。わたしもピアノは習ってましたけど、子供にさえ、一生かかっても絶対に追いつけないと分かるくらい、とび抜けていたんです。天才としか言いようがありませんでした」
天才です、と言うえみちゃんの声は、誇らしげな反面、それは自分とは全く関係がないという割り切りも持ち合わせていた。かつて一緒に病気と闘った仲間。身近な存在ほど、離れてしまったときの隔絶感は大きいのかもしれない。
「それで、彼のCDを探していたわけですね」
これから帰って、彼の天才ぶりを確認することにしよう。
「あ、すいません、もうちょっと続くんです」
なんとなくCDを手に取った僕を、えみちゃんは手で制した。
もうちょっと続く。なぜか覚えのある文言だ。漫画かな。そう言っておいて、もうちょっとどころではなく続いた漫画があった。同じようになったら、面白い。僕は紅茶をおかわりした。できるだけ長引かせてみようかな。
「心因性失声の治療の中身は、主にカウンセリングと発声練習に分かれていて、カウンセリングの方は患者ごとに個別に行われるので、話し方教室というのは発声練習をするところです。たとえば練習の中に、大きなカード、ほら、テレビのバラエティ番組や何かで使うフリップってあるでしょう。あんな感じのボードに、あ、とか、い、とか書いてあるんです。それをみんなで回しながら読むっていうのがあったんですけど、拓也さんはいつも、ボードを受け取ると、何もせずにすぐに次の子に渡してしまうんです」
「そりゃ、困ったね。やる気がなかったのかな」
「たぶん、先生たちも最初はそう思ったんだと思います。でもあんまり練習を拒否するので途方に暮れていました。そういう子たちって大抵は神経質だから、厳しく叱るわけにもいかないし」
「問題児だね」
「それは、逆なんです」
「逆?」
「そうです。彼には問題なんて全くなかったんです。わたしはそのとき自分のことで精一杯だったから、周りを気にかけている余裕なんてありませんでした。でも、それでも分かるんです。彼はわたしたちと違って、話せないわけじゃない、話そうとしないだけだって」
「話そうとしない……」
「たぶん、周りの子たちもなんとなく分かっていたと思います。発声練習をみんなでやるということの目的の一つには、同じ境遇の子たちを集めることで、苦しんでいるのは自分だけじゃないという仲間意識を芽生えさせたいというのが、病院側にあったと思うんです。その目的は達成できたと思います。ただし、拓也さんを除いては、ですけど」
「つまり、彼は、仲間はずれにされてしまったんですね。話し方教室の、他の子たちからは」
傷つけられ、言葉を失った者同士の、無言のコミュニケーション。それこそ、空気と言っていいものだろう。言葉があれば偽ることもできる。それがないとなれば、そこにあるのはむき出しの本音だ。言葉がないからこそ、伝わってしまうものがあるのだろう。
「そうです。でも話し方教室は、ある程度話せるようになれば来る必要のないところなので、通う子はどんどん変わっていきます。だから、学校のクラスみたいに虐めに発展するとか、そいういうことはないんです。通う期間はそれぞれ違いますが、早い子は一ヶ月、長くても四ヶ月くらいで卒業というのが普通だったみたいです。わたしは半年以上通ったのでかなり長い方です。ここまで治るのが遅れた子は、わたしのほかにもう一人いるだけでした。拓也さんより少し後に入ってきたタケルくんという子で、どういうわけかはじめから、すごく拓也さんのことが気にくわない様子でした」
確かに、そういう人間はいる。自分たちとは違う、という感覚に非常に敏感で、集団の中から異分子を見つけ出すのがやたらと上手いタイプ。小、中、高と、学校のクラスに必ず一人はいたような気がする。きっと、どこにでもいるのだろう。話し方教室さえも例外ではないらしい。
「タケルくんは、さっき話したカードとかを、拓也さんを無視してその次の子に渡したりとか、そういう些細ないやがらせをするんです。でも、拓也さんは途中から、話し方教室には来なくなりました。理由は分かりませんが、母親が、来る必要がなくなったから来なくなった、と言っていたので、たぶん失声から回復したのだと思います。それで……」
急に、えみちゃんの言葉が詰まった。
「わたし、拓也さんにひどいことをしました」
* * *
病院の中で、えみちゃんは総合受付の待合室が嫌いだった。
いたずらをする男の子がいたからだ。
その子自身が何か病気だったのか、それとも親について来ていたのか、とにかくよく待合室のソファにその子は座っていた。そして。えみちゃんが通りがかると、おもちゃを取り出していたずらをするのだ。
「カシャッ」
その子が言う。カメラのシャッターを押す音を真似ているのだ。
「カシャ、カシャッ」
えみちゃんが逃げると、追い討ちをかけるように、さらに言い重ねる。
えみちゃんにとって、この音は恐怖の象徴だった。すぐに逃げ出さなければならないと感じる。たとえ、口で真似ているだけでも。その子にとってはただの遊びでも、えみちゃんにとっては傷を抉られる行為だった。
おもちゃとは、カメラだ。もちろん、本物ではない。プラスチック製の、ちゃちいやつ。
拓也がまだえみちゃんと一緒に通っていたとき、彼はえみちゃんがその子の遊びを嫌がっていることにすぐに気が付いたようで、待合室を通るときは、それとなくえみちゃんとその子の間に入るように歩いてくれていた。
そして、拓也の「卒業」とほぼ同時に、その子はいたずらをやめたという。
「きっと、拓也さんがやめるように言ってくれたのだと思います」
それ以来、その子がおもちゃのカメラを持っているのを見ることはなかった。
そして、えみちゃんの「卒業」もやってきた。話し方教室に通いはじめたときは夏だった季節が、春になっていた。このとき、まだタケルくんはほとんど回復していなかった。
「卒業」の一つ手前の通院日、えみちゃんは教室を終えた後、カウンセリングの先生にお礼を言いに、お母さんと精神科へ向かった。しばらくして忘れ物に気が付いたえみちゃんは、話し方教室に戻った。
すると、普段教室が終わった後は空いているはずの扉が、閉まっていた。
少し、変だな、と思って扉を開けようとすると、中から何かが激しくぶつかる音がした。
扉が、ガン、という音を立てる。
「や……」
言葉を取り戻していたえみちゃんは、短く悲鳴をあげる。
そのまま立ちすくみ、動けなくなる。そのとき、扉の向こうからかすれるような声が聞こえた。
「えみ…ちゃ……お……」
かすかに漏れ聞こえる声に、聞き覚えはなかった。
でも、助けを呼ばなきゃ。誰でもいいから助けを。
そうこうしている間にも、ドアの中から時折、机の動く音や、椅子のがたがた鳴る音が聞こえてくる。
えみちゃんは耐え切れず、お手洗いの個室に駆け込み、鍵を閉めた。恐怖感。それは、自分が再び事件に巻き込まれることで、周囲に負担をかけることへの恐怖だった。
長い時間が経った。少なくともそう感じた。
落ち着きを取り戻したえみちゃんが教室に戻ると、廊下で大人たちが難しい顔をして話しこんでいた。
「えみ!」
その中にはえみちゃんのお母さんもいた。お母さんはえみちゃんを見つけると、苦しくなるくらいえみちゃんを抱きしめた。
「よかった。どこへ行っていたの?」
「迷子になった」
えみちゃんはウソをついた。半年以上、通いつめた教室だ。迷子になんかなるわけがない。
「そう」
だが、お母さんはそれ以上、何も言わなかった。
ふと、この場にはふさわしくない香りがした。
開かれた扉から教室の中を眺めると、床の一角に何かが散乱していた。
葉っぱと、花、そして壊れたおもちゃのカメラだった。一時期えみちゃんを悩ませた、あのカメラだ。
えみちゃんはお母さんから離れ、教室の中へ足を踏みいれた。まだ机や椅子がめちゃくちゃに倒れている。えみちゃんはおそるおそる、靴跡の残るひしゃげたカメラを拾う。
「けんかよ」
えみちゃんのお母さんが言った。
「タケルくんが他の子とけんかをしたらしいの」
他の子、とお母さんは言う。だが、えみちゃんはそのカメラにかかれている名前をすでに見ていた。
『たくや』
マジックではっきりと、そう書かれていた。
落ちている花は、淡く黄色い、小さな花だった。葉は濃い緑色。手に取ってよく眺めると、香りが強くなった。色と同じ、きつい緑の匂い。
「それはなに? ローレルみたいね」
お母さんが言う。
「花も、そうなのかしら」
ローレル。聞いたことがなかった。
「怪我をした男の子たちは、手当てを受けているけど、大したことはないそうよ。でも、えみには関係ないわ。さ、精神科の先生のところへ行きましょう」
お母さんはこの場を立ち去りたくて仕方がないようだった。周りの大人たちの中には話し方教室の先生もいる。いつも笑顔を絶やさなかった先生が、今は青ざめた顔をしていた。
えみちゃんは、潰れたカメラを、倒れていない机の上に置いた。
どうして?
急に、やりきれない感情がこみ上げる。怒りでも悲しみでもない。それは、胸を突き上げるような疑問だった。
なんで拓也がいるの? なんでけんかするの? なんで今なの? けんかするなら、知らないところで勝手にやればいい。やっと治ったのに。やっと現実と向き合えるようになったのに。わたしにどうしろというんだ。面倒なことにわたしを巻き込むな。
えみちゃんは悔しかった。何もできない自分と、何もできないくせにそんなことを考えている自分が悔しくて泣いた。涙がカメラに落ちる。「たくや」の文字が頼りなく滲む。
「いいのよ。えみは関係ないの。いいのよ」
お母さんは、えみちゃんの震える肩を支えながら、それだけを繰り返した。
えみちゃんは教室を去る間際、花と葉を一つずつ拾い、カバンのポケットに入れた。自分と拓也をつなぐ何かが欲しかった。カメラを拾えばいいが、それだとあまりにも私が当事者になりきってしまう。それは嫌だ。卑怯者の考えだと思いつつ、でも何かがなければ、永遠に切れてしまう。そんな思いが、えみちゃんを動かしていた。
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