第2話 僕は暇人

 金曜日の昼下がり。通りにも店内にも人の気配がない。知らぬ間に、住民全員が核シェルターに逃げこんでしまったかのようだ。ついに将軍様が動いたか。


 陳列を整えるふりをしながら、店内をあてもなく巡る。文具、食器、観葉植物、照明器具、その他各種インテリアを趣味よく揃えたセレクトショップ。今だけはぜんぶ僕のもの。


 手慰みに金属製の回転式ラックをまわすと、錆び付いた軸の立てるキィキィという耳障りな音が響く。

 こういう風に鳴く動物がいなかったかな。いないか。

 自問自答。ぼっち感がつのる。


 ラックがまわる。視界を通り過ぎるのは空に月、海に流氷、植物に動物に昆虫。雑多な種類のフォトカード。全て一人の写真家が撮ったものだ。店長が気に入って、ずっと前から置かれているらしい。古参の店員は語る。気に入ったのは、写真の方か、それとも写真家本人の方か、それが問題だ、と。その写真家は若い女性で、美人だそうだ。


 本当に美人かどうかは、見たことがないので分からない。たまにこの店にも彼女は来るらしいが、ここでバイトを始めて日の浅い自分はまだお目にかかったことがなかった。


 だが、そう勘繰ってみたくなる先輩の心情は理解できる。ここは暇すぎる。二人いる店員の片方が裏の事務所でずっと寝ていても全く困らない。一人で十分だ。


「一人だと急に休んだり辞めたりしたときに困るでしょ」


 そう語る店長自身が店に出るそぶりは全く無い。二人同時に休んだり辞めたりしたらどうするつもりだろうか。もっとも、暇でありながら時給は悪くないので、今のところ辞めるつもりはない。

 経営者の経済感覚の破綻、大歓迎。

 それに二人だと話し相手になるので助かる。始めて二ヶ月ですでに話題は尽きた感があるが、さすがにここを何年も続けているもう一人の先輩店員は、暇を潰す術にも年季が入っている。


 馴染みの人妻デリヘルを呼び、事務所の給湯室で男女の営みをしているのだ。お互い声を出せないシチュエーションが興奮するのだとか。

 時折、抑えきれなくなるのだろう、感極まった女性の喘ぎ声が漏れ聞こえてしまうのだが、客はいないので問題なし。

 あと30分くらいはかかるだろう。週イチでこういうことがある。そのたびに口止め料として2000円を貰っているので、デメリットは特にない。


 今しがた聞こえた、アアッ、という声に溜息をつき、陳列されている写真の一枚を手にとって眺める。

 いい写真というのは、その枠の外に、空間的、時間的なひろがりを持っている。この写真にはそれがある。腕のいい写真家だと思う。

 店長のセンサーは常にモノに向いていて、ヒトやカネには一切反応していないのだ。美人だろうとなんだろうと関係ないだろう。ちなみに、僕の採用面接は三十秒だった。


 一つ、気になる写真がある。会社のオフィスにあるような無機質な白いブラインドを背景に、四角い口の花瓶に生けられた一本の木の枝が映っている。枝には、葉も花もない、ただの棒だ。前衛芸術を思わせるこの写真は、他のものと明らかにカラーが異なっている。この写真からは、「いい写真」が持ちうる世界観のひろがりを感じることができなかった。

 いや、ひろがりならある。背景のブラインドは少しだけ開いていて、そこには真っ暗な闇が覗いている。花瓶のあるこの部屋の外にはただ暗闇がひろがっていて、そこには何もない、とでもいうかのように。ほかの写真は、ほとんどが暗いところから明るいところを撮るスタイルで撮影されているのに、この写真だけが違う。全然、いいとは思えない。案の定、一枚も売れていないようだった。


 交代の時間まで秒読み段階に入ったころ、客が入ってきた。一人だ。ジーパンにジャケット姿の大学生くらいの男。その男はしばらく店内をきょろきょろ見回し、やがてフォトカードの回転ラックを発見したようだ。ラックを回しながら、写真の一つ一つをやけにじっくり眺めている。そのうち、やや勢いをつけてラックを回しだした。くるくる回る。軸がキリキリと軋む。そしてそれを手で止める。音が止む。興味深そうにそれを繰り返す男。何が楽しいのかさっぱり分からない。買わないならはやく出て行け。


 その思いが通じたのか、その男は財布の中身を一目確認した後、苦い顔をして出て行った。フォトカードは一枚百円だ。それが買えないほど貧乏なのか。お兄さん、生活は?


「ねえねえ、さっきのお客さん見た?」


 何食わぬ顔をした先輩が事務所から出てきた。行為を終えたのだ。やれやれ、やっとか。デリヘル嬢は裏口から帰したのだろう。


「ええ、財布の中身を見て、写真を買うのを断念しましたね。僕よりカーストが低いらしい」


 事務所に、店内の監視カメラの映像が映るモニターがある。先輩は珍しくそれを見たのだろう。行為が終わったのなら、はやく替わってくれればいいのに。

 振り返ると、先輩の目が輝いている。何か暇潰しのネタを発見したのだ。こういう時の先輩ははっきり言って少し怖い。


「え……なんです?」


これ見てよ。そう言って、先輩は新聞の文化欄を開いた。先週末の新聞だ。


『国際ショパンコンクール 日本人ピアニストが入賞』とあった。ピアノの鍵盤に手を置いて、瞑想するかのように目を伏せている男の写真が目に入る。


「さっきのお客、この人じゃないかなあ」

「うそ。そんなわけあります? また、暇だからって冗談過ぎますよ」


 映っている写真をよく見ると、なるほど確かに似ていた。いや、似ているどころではない。瓜二つだ。


 ピアニストの名前は松岡拓也。偶然この店に来たのか。


「双子じゃないですかね」


 適当なことを言ってみる。


「本人だと思うけどなあ。こんど来たら訊いてみよう」


 余計なことを。先輩は店長との比較でいうなら、ヒトにしか興味のない人間だ。いい意味で言うと、人を見る目はある。彼が松岡拓也本人だとするなら、カーストが低いどころか、どうあがいても影すらおがめない、天上の存在だ。下界の汚れた通貨など持ちあわせていないのかもしれない。この店ではカードが使えないからな。


 *    *    *


 その日の夜。

 レンタルビデオ屋であした観るDVDを物色する。バイト先のPCで観るのだ。もちろん、イヤホンを付けて。ついでに新作のCDもチェックしておく。そこで、昼間の客のことを思い出した。ピアニスト、松岡拓也。確か、ショパンだ。国際的なコンクールで入賞するくらいだから、ひょっとするとCDも出ているかもしれない。

 だが、このレンタルビデオ屋にクラシックのCDはない。僕は近くのショッピングモールに入っているCDショップへ向かった。


 クラシックのコーナーに足を踏み入れたのは、本当に久しぶりだった。前はたしか、好きなギタリストがリスペクトしているというので、バッハのCDを探しに来たのだ。どれを聞けばいいのか分からず適当に買ったCDは、ちょっと求めていたものとは違った。それ以来、クラシック音楽からは遠ざかっている。


 あまり期待はしていなかったが、ピアノ音楽のコーナーであっさりとその名前が見つかった。


『松岡拓也 ピアノ・ソナタ コレクション』


 ジャケットの写真を見る。写真は白黒だが、両の腕を羽ばたくようにひろげて空を見上げる男は、やはり昼間見たあの男とそっくりだ。この人で間違いない。CDを手に取ろうとすると、背後から「あっ」という声がした。


 振り向くと、瞳の大きな、小柄な女性が立っていた。こげ茶色のフェルトっぽいスカートに、深いみどり色のポンチョを羽織っている。森を旅する詩人のような格好。


「あ、あの。そのCD、えっと、買われるんですか?」


 口の奥からやっと発したようなかすれ声。いかにも人見知りしそうな娘だ。


「あ、これ?」


 CDを振ってみる。


「はい」


 棚を確認すると、このCDはこれ一枚しか置いていないようだった。僕が買ってしまうと、当然この娘は買うことができない。


「えーと。いや、ちょっと興味があっただけで。よかったらどうぞ」


 そうは言ったものの、考えてみればもともとクラシックに興味などないわけで、一向に構わなかった。彼女にCDを渡す。小さくてかわいい手だ。歳の頃は大学の一、二年とか、そんな感じだろう。


「い、いいんですか? あ、でも悪いです。なんだか横取りしたみたいで」

「いや、ほんとにいいでいすよ。気にしないでください」

「いえ、でも……」


 どうやら、この娘はこのピアニストがかなりのお気に入りのようだ。それに気が付いてしまうと、実は全く興味ないんですよ、あはは。とは言いづらい。僕の脳みそは半ば苦し紛れに妙な案をひねり出した。「妙案」ではなく、まさに「妙な案」だった。


「じゃあこうしましょう。あなたがそれを買う。それで、後からそれを僕が借りる」


 その娘は目をぱちくりさせた。


 *    *    *


 二日後。


 北海道の牧場の牛のように退屈なバイトを終えて、牛丼屋で晩飯を食らっていると、スマホがぶるぶると怯えだした。登録していない番号からかかってきても、振動するだけで音が鳴らないようにしている。知らない人からの電話というのは、怖い。相手から一方的に知られているという怖さ。スマホは僕と一緒に怖がってくれる、いいやつだ。だが一回目は無視する。二回目、同じ番号からかかってきたら、とる。牛丼大盛を食べ終わった直後に、二回目がきた。

 相手は、鷹崎と名乗った。


「なんだ。カズマ? 久しぶりじゃないか。スマホ買ったんだな」


 そう、鷹崎カズマ。大学時代の友人だ。仲はよかったが人付き合いのよくないやつで、在学中はスマホどころかガラケーすら持っていなかった。変人だ。そのせいで、卒業してからも続いている友達の輪の中に、彼は含まれなかった。今の時代、携帯端末の番号を知らないということは、関係が途切れるということとほぼイコールである。


 それでも関係を続けられる者だけを、カズマは真の友達と認めているのかもしれなかった。そう考えると、とんでもないエゴイストだ。だが、彼自身は友達関係を誰にも強要していないのだから、エゴとは呼べない。それは、彼にエゴを見出した僕の問題なのだ。「それは、むしろ君の問題だろ」が、カズマの口癖だった。


 スマホは、会社に言われたて仕方なく買ったんだ、と彼は言った。カズマは大学の文学部を卒業後、ゲーム制作会社に就職したのだ。カズマとはあまりゲームの話をしたことがなかったので、彼がその方面の道を選んだことを、僕は意外だと感じた。なんとなく、その社交性のなさから、大学院に進むものだと思っていたからだ。偏見といってもいい。


「会社の上司が倒れて、入院したんだ。過労だよ」


 カズマの声も、やや疲れを滲ませる。


「それは大変だ」


 ゲーム業界というのは、忙しいところだと聞く。僕には全く未知の世界だ。四六時中ゲームのことばっかり考えていればいいのだから、パラダイスじゃないか、と単純には言い切れないらしい。


「上司も、会社も、おれも大変だ。得をするやつは誰もいない。医者の話では、復帰には相当な時間が必要だと。休職期間は一年半あるが、それを過ぎて治らなければ辞めざるを得ない。原因は明らかに過労だが、倒れたのは自宅にいるときなんだ。しかも、たまたまお酒を飲んでいた。労災は下りない」


 返答に困った。話がどこへ向かっているのか、まるでわからない。カズマの声はいつもと変わらないが、こういう話し方をするやつじゃなかった。いきなり結論から話すのが、僕の知っているカズマだ。


「すまんな」


 気配を察してか、カズマはそう言って溜息をついた。


「頼みがある」

「言ってくれ」

「上司の残した仕事はおれが引き継ぐことになった。しばらくは会社にカンヅメだ。少なくとも、あと三週間くらいはどこへ行く余裕もない。上司の入院してる病院にもだ。急な頼みで申し訳ないが、おれの代わりに、病院に見舞いに行ってくれないか」


 入社以来、その上司に世話になりっぱなしだった。カズマはそう続けた。おれは、あの人の弟子なんだ、と。


「僕でいいのか?」


 どうして僕なんだろう。その上司のことをまったく知りもしない赤の他人が見舞いに行っていいものだろうか。あのカズマが師と仰ぐ人物なんて、仙人みたいなやつに違いないのだ。怖い人だったらいやだ。人格を否定されるかも。


「いざ考えてみると、おまえしか頼めるやつがいない。友達少ないの知ってるだろ」


 友達、とカズマは言った。友達か。言われるまでもないな。スマホのせいにして、悪かった。カズマが友達かどうか、それは僕の問題だった。


「わかった。行くよ」


 多少の怖さはあるが、カズマの尊敬する人物には興味もあった。

 それから、見舞いの日程を打ち合わせた。見舞品として、花や果物、そしてカズマの提案でフォトカードのセットを持っていくことになった。


「病室からの眺めって、退屈だと思うんだ。なにか、目に楽しいものが欲しい。まあ、そんなに高いものはだめだから、風景とかの写真集がいいんじゃないか。昔、上司はサイクリングをしていて、海辺から山の方まで自転車を漕ぎながら、風景を眺めるのが趣味だったらしいし」


 それなら、と、僕はバイト先においてあるフォトカードのことを話した。


「全部で五十枚以上は確実にある」

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