ダフネの祈り
エディ・K・C
第1話 俺はゾンビ
停車駅のアナウンスが流れている。
はっと意識が戻る。降りねば。
ホームへ飛び出すと同時に、背後でプシュッとドアが閉まる。ぎりぎりセーフ。
前の意識は、電車に乗って席へ座ったところで途切れている。
ほとんど気絶だな、と苦笑する。
実際は一時間以上乗っているのに、時間の経過をまるで感じない。タイムスリップしたような気分だ。それでも、降りる駅に着けば身体が自然に覚醒する。その正確さは不思議を通り越して不気味ですらある。
時間を感じなくてすむのはありがたい、と考えていた頃は、すでに懐かしい。
もう着いてしまったか、と名残り惜しむ時代も過ぎた。
今は、なぜ起こした、だ。
なぜだろう。なぜ自分はこんなことをしているのだ?
ゲーム制作会社のプログラマとして六年。
六年間、会社と家の往復で終始したといっても過言ではない。二年目に結婚もした。がんばりが評価されて給料も上がった。だが相変わらず、家は寝るところ以上のものではなく、会社は納期に追われるところ以上のものではない。
朝、起きると、少しだけ納期が迫っている。
昼間、走って納期から少し遠ざかる。
夜、力尽きて寝る。
朝、やはり少しだけ納期が迫っている。以下、繰り返し。
明日、大規模なプログラムテストが行われる。場合によっては、しばらく家には帰れなくなるかもしれない。その場合は、ずっと昼間になる。力尽きたら、栄養剤を補給して、体力を「前借り」する。その段階になると、もう自分の身体を動かしているのは自分の力でも、自分の意志でもない。では何だろう。強いて言えば、開発室の壁に張り出されたスケジュール表だ。歯車は自分の力では動かない。
午前一時半。闇に沈んだ深夜の住宅街。色彩を失った家々の整然と並ぶ様は、墓場を思わせる。
墓場なら、いい。
墓守が現れてこう言うのだ。
「だめじゃないか、死体がうろうろしては。さっさと墓に戻りなさい」
そういえば、今作っているゲームにもアンデッド、即ち、動く死人たちが登場する。
スケルトン、ゾンビ、マミー、ゴースト。
高位の敵キャラに使役されるだけの、哀れな兵隊ども。
レベルの低いうちは強敵だが、聖なる光の魔法を覚えたあとは雑魚も甚だしい。一撃で倒される。
一撃なら、きっと苦しくなかろう。うらやましい。
俺は自殺願望があるのか。いや、本気じゃない。
死ぬとか生きるとかいうことについて、真面目に考えているかどうかすら怪しいものだ。
ただ、ポジティブに生きようとするには、すこし現実が辛いだけ。
自殺するのに必要なエネルギーに比べれば、ニヒルになって風を受け流したほうが省エネだ。
いつか、聖なる光が俺を消し去ってくれるに違いない。
聖なる光?
いや、俺の家の門灯だ。見えると、やはりほっとする。
玄関を開けても出迎えはない。当たり前だ。妻は寝ている。デパート勤務で、朝も早い。立ち仕事だから、体力の消耗も激しい。
自分が寝るときは、極力起こさないように気をつける。ダブルベッドの掛け布団をそっと持ち上げると、ふうわりと漂う、妻の甘い匂い。抱きたい。今日という今日はめちゃくちゃに抱きたい。だが二人とも疲れている。こんど妻と示し合わせて一緒に仮病をつかい、一日使ってありとあらゆるエッチなことをしよう。そうしよう。
目を閉じると、意識がとんだ。
* * *
案の定、翌日から夜がなくなった。
重大なバグが発覚したのだ。特定の条件化でキャラクターのレベルが一定の数値を超えると、魔法の威力が逆に減少をはじめるという、なかなかハイセンスなバグ。
ゲームシステムにこだわる余り、ダメージ計算の処理を複雑化しすぎたせいだ。プログラムは仕様通りだったというから、厳密にはバグではない。責任はデザイナーにある。
問題は、このバグを修正することで関連する攻撃のダメージ全てが上がってしまうため、俺のチームでゲームバランス調整をやり直さなければならないことだ。かんべんしてくれ。
「しばらく帰れないかもしれない」
開発室の外、照明の落とされた暗い廊下に、疲労まじりの俺の言葉が弱々しく沈殿する。電話口の妻は無言だった。
「どうした?」
「なんでもない。お疲れさま。着替えは?」
淡々と受け答える妻の声が耳に冷たい。俺に対する感情もとっくに褪めているに違いない。そう思うと、この場でスマホに向かって平謝りしたくなる。
「いい。持ってきてる」
持ってきてはいるが、多分足りないだろう。構うものか。五日間着替えていないやつや、一週間風呂に入ってないやつもいる。しかも、誰もそのことを咎めない。これは死の行進なのだ。うっかり立ち止まったら、既に自分が死んでいることに気付いちゃうかも。
通話を切る。開発室に戻ると、マシンの冷却ファンや換気扇の立てるゴーという音と、カタカタとキーボードを叩く音だけが支配する。ひとびとは皆無言だ。この部屋自体がマシンの箱と化している。
俺の頭はぼんやりとして、集中力が途切れたまま戻ってこない。俺はデスクの上で待ち構えているノートパソコンのカバーを乱暴に閉じた。時計を見ると、もう四時間以上ぶっ通しで作業している。喉もカラカラだ。席を立って、椅子にかけた上着を肩にかける。
「ちょい休憩」
隣に座っているメンバー、鷹崎に向かって言い放つ。俺のチームで、一番優秀なやつだ。
「あ、森丘さん」
鷹崎に声をかけられる。
「おれも行きます」
開発室を出て最初の角を曲がると、開けっ放しの休憩所のドアからもくもくと煙が立ち昇っているのが見えた。いまどき、屋内に喫煙所があるのは珍しい。近場では、喫煙できるスペースはここだけだ。ちなみに、飲み物の自販機があるのもここだけ。俺も鷹崎も自販機にしか用がない。
入ると、開発室長と別のチームのリーダーが白煙に包まれてなにやら話し込んでいる。
重要なことは、大抵ここで決まるのだ。組織図には載らない、裏の意思決定機関。それが休憩所。
俺と鷹崎はそそくさとコーヒーを買い、非常階段の踊場に移動する。煙草のケムリは俺の天敵だ。
「谷口くん、実家に戻っていたそうですよ」
コーヒーをちびちび飲みながら鷹崎が言う。
三日前から無断欠勤を続けていた別チームの谷口のことだ。さっき休憩所で課長と密談していたやつが、そのチームのリーダー。やつのマネジメント能力は俺の見る限りゼロ。メンバーが哀れだ。
また、チーム編成が変わるかな。俺のところに影響が出なきゃいいが。特に鷹崎を抜かれたら大変だ。
「実家って、どこだっけ」
「沖縄だそうです」
そういえば、前にちんすこうを持ってきてくれたのは谷口か。人懐っこい、くしゃっとした笑顔を思い出す。隣のチームにまでお土産を買ってくる、気の利くやつだった。冗談を言って人を笑わせるのが好きな、愛されて育つタイプ。毎日が戦場のようなこの職場には向かない。
「森丘さん、前言ってた企画、どうなったんですか」
そういえば、こいつにはうっかり話してしまったのだった。もうずいぶん前だ。忘れているかと思って安心していた。
「通らなかった」
努めて平静に言う。終わったんだあの企画は。むし返すな。
「もったいない」
鷹崎がゆっくり溜息をつく。
「もったいないですよ」
「欠点はいろいろあったよ」
そう。新規的過ぎるゲームシステム。技術開発の不透明さ。人材の不足。企画部と無関係のプログラマから企画を出すこと自体が異例な上に、この会社にとっては未知の分野であるAIの利用を前提としている点が、何事にも慎重な上層部の老人たちに受け入れられなかった。
それにマーケティング部門や販売部門からの反発は予想以上で、これは入社以来開発一筋だった俺の無知も大きい。既存のユーザーを守りきることにやつらがそこまで執着しているとは思わなかったのだ。過去の作品をとにかく美化することで新作にケチをつける厄介なクレーマーと同じ論法で、過去の成功事例を引き合いに新分野の開拓を拒絶する。頼むから余計なことをしてくれるな、と。
「欠点っていっても、ゲームそのものと関係ない、全部うちの中の問題じゃないですか。そんなの欠点じゃないですよ」
鷹崎は吐き捨てるように言う。
「何のチャレンジもないテンプレを量産するよりよほどいいです。今作ってるやつなんか、恥の上塗りもいいとこだ」
「考えてるだけならいいが、口には出すな」
そう思ってるやつは沢山いる。だが思ってることを言うだけなら誰にだって出来るのだ。現状を変えたいなら、実力で勝ち取るしかない。俺にはない、実力で。ぬるいコーヒーを喉へ流し込む。苦い。
「すいません」
でも納得できません。そう言いたげな鷹崎の表情だった。こういう、反骨精神に溢れたやつは見ていて頼もしい。だから、俺はその企画のことも話してしまったのだろう。俺はこいつに期待されたかったし、現にいままでされていたのだ。がっかりさせたくなかった。やはり、話すべきではなかった。
* * *
一週間後、ようやく、家に帰ることができた。
カバンをソファに放り投げ、食卓の椅子にへたりこむ。どういう機構で自分が動いていられるのか分からなかった。何も感じない。何も考えられない。
重い身体は、水を含んだ雑巾のようだ。ずるずる引きずって、冷蔵庫をあける。ビールが目に付く。食卓まで戻る気力もなく、その場に座り込んでビールをあおる。そのまま、意識が朦朧とする。
ふと、視界が翳る。いつのまにか目の前に妻が立っていた。しかも斜めに立っている。いや、部屋全体が斜めに傾いでいるように見える。だんだんと垂直に戻るかと思えば、瞬きに合わせてカクカクと揺らぐ。バグを起こした3D空間のようだ。目をこする。目の奥の方がじんわりと痺れている。
「やあ、おかえり。あれ? たらいま、ら、ははは」
「ねえ」
ぴくりと妻の眉が動く。怯えた光を湛えた目。不気味なものを眺める目だ。
「ん?」
俺を、怖がっているのか。こんなところに座り込んでいるからかな。申し訳ない。でも疲れて立ち上がる気力がない。
「今日、休まない?」
おや、こんなこを言う妻ははじめてだ。妻は出かける格好だった。いつの間にか朝になっているらしい。行かないでくれ。休むなら一緒に休もう。だが口が勝手にマニュアル通りのセリフを放つ。
「しごとらよ」
「休んで。お願い」
「しんぱいらいよ。タフらもん」
ん?
なにかヘンだ。呂律が回っていない。酔ってるのかな。立ち上がろうとすると、ぐらりと床が傾いた。
わあっ!
思わずしりもちをつく。部屋がまた傾いていた。
傾いているのは床か? 俺か?
「いいから、デンワμ A ° e」
は?
妻が途中から、わけのわからない言葉を喋りだした。落ち着きを失っているのか。だが、電話、だ。会社に電話して休みを取れというんだな。それもそうだ。どこか体調が悪い。今日は休もう。
今度こそ、よろよろと立ち上がり、急斜面をのぼるように電話台まで歩く。足元が沈み込むように不安定で、沼の上を歩いているみたいだ。腿の筋肉が思うように上がってくれない。ゾンビの歩行というのはこんな感じかな。
受話器を取り、会社の短縮番号のボタンを押す。
「C ? c 3 U A μ a ? c」
え? なんだって? 電話に出たのはまるで知らない言語を話す人間だった。
番号を間違えたか。だが間違って外国にかかるなんてことがあるか?
すいません間違えました。そう言おうとするが、そこで困った。
どうやってそれを発音するのか、思い出せない。
うそだ。ありえない。だが、いくら何か言おうとしても、舌がじたばたと暴れるだけで、なんの言葉も出てこない。舌が別の生き物になって、主人に対して異議を申し立てているかのようだ。
妻の顔を振り返り、苦笑してみる。
苦笑。大したことじゃないさ。
だが、妻の顔が見えない。いま俺はどっちを向いているんだ? 天井か? 床か?
そうか、夢か、夢だろう。こんな夢、覚めてしまえ。頭に力を入れる。覚めろ。
そこで何かが弾けた。
突然、視界がひっくり返り、幕が覆う。その幕を突き破り、向こう側から強烈な赤い光が差し込む。眩しい。何も見えない。
ゴツ、側頭部に衝撃を感じる。頭が割れようかという衝撃のわりに、痛みは薄い。
衝撃と同時に、赤い光が勢いを増す。全身を光に貫かれる。子供の頃、近所の山の頂上で、初日の出の光に包まれた、あの感覚。痺れるようで、暖かい。
ああ、聖なる光だ。俺は納得した。俺は、終わるんだ。
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