春桜
カガリ ナガマサ
春の物語
春といえば何を思い浮かべるだろうか。
普通ならば、四月の真っただ中に咲く桜をイメージすると思うが、古井 孝は違った。
「桜……か……」
半年前に引っ越してきた孝は、まだこの街の地理を理解しきれていなかった。彼がいる場所は満開の桜並木である。この先に彼の通う学校がある。だから満開の桜を見るのはごくごく日常なのだ。だが、彼の眼に映るのは満開の桜ではなく、小さな小さな一本の花だった。細く針のように土から力強く生えている葉。葉の縦を中心に薄い緑の線はすくすくと育つ子供のように感じる。孝は昔からなぜかこの花に思い入れがある。
その頂点に咲いている小さな花は、小さな小さな紫のドレスを着た少女のように可憐だ。言うなれば、『三寸ばかりなる人』、つまり、かぐや姫のようなものだろうか。
「綺麗な華ですね。その花」
孝の後ろから声がした。その声の方を見ると、一人、少女が立っていた。花を見るためにしゃがんでいた彼は膝を伸ばしていく。
「誰だ」
自分の心のガードを最大限展開し、少女を上から下へ舐めるように観察する。
すらっとして背中まで伸びた髪に、整った顔立ち、唇の左下にホクロがある十四、五歳の少女だ。全身を見ると少し紫の要素が多い。紫がかった髪、紫のブローチ、そして、ちょうどいい大きさの胸。彼女は紫が好きなのか、と孝は思い始めた。
「黒田 純夏。今日、この桜並木の道の向こうにある学校に転校してきたの。よろしくね」
「へぇ、ふーん」
適当な返事で返した孝はカバンを肩にぶら下げて桜並木を歩き始めた。地面中に桜の花弁が落ちていて少し綺麗にも見える。しかし、そんなものは孝には目にも留まらなかった。
「ねぇねぇ、君の名前は?」
純夏は無垢な目で孝を見ながら聞いてきた。
「古井 孝。別にお前が気にするほど、俺そんないい人じゃないし」
「えぇー!何言ってるの?!あの花を見てたじゃない!」
「あれは俺の生物観察だ。あの花の生態について研究していたのだよ」
純夏は口を尖らせた。純夏は孝はこの後も変なやり取りを繰り返し、桜並木を進んでいった。
「おはよう」
「おはよう」
学校の教室で飛び交う挨拶。今日も何もない一日が始まる。
「意外と賑やかなんだね、孝くんの教室」
「ああ、結構明るいクラスなんだ。ここは」
「へぇ〜」
と、純夏は隣の空席にカバンを置いた。彼女のカバンから何の変哲もない教科書、ノート、そして筆箱が出てくる。そこから一枚の紙が落ちてきた。なんなのかは知らないが、一応紙の切れ端のようだ。切れ端を開くと、『黒田 純夏』ととても丸っこい字で書かれていた。
キーンコーンカーンコーン……と鐘がなる。遅刻ギリギリでやってきた純夏と孝にはカバンの中を整理する時間などなかった。
ガラガラガラ、と先生が入ってきた。
「おはよう。今日も一日、頑張ってくださいね」
この適当な一言を言って、先生は教室から出ていった。
「は?」
孝は何か異変を感じた。
異変がないのが異変というのだろうか。
純夏の存在を完全に無視しているのだ。そもそも、今日はクラスに新しい仲間が増えるはずの日なのだ。なのに、この自分の左の席に座って一緒に授業を受けるはずの少女、黒田 純夏が存在自体が全員に無視しているのだ。
「なんでだ?」
不思議に思ってると、孝の前に座る友人、村岡 史郎がこちらを向いてきた。
「どした? 何かあった?」
「お前には見えないか?俺の左に女の子がいるんだ!」
史郎は孝の隣に空いた席を見たが、すぐに返答は帰ってきた。
「いや?いないよ。孝、ちょっと疲れてるんじゃない?」
「史郎には……見えていない……?」
「ああ、」
史郎には純夏が見えていなかったのだ。
「本当か?紫がかった髪に……口の下にホクロが付いている女の子だよ!」
「孝さ、彼女ができないからってついに幻想に走り始めたのか?」
史郎はすこし小馬鹿にして笑った。
「……、」
思いつめた表情を浮かべる孝を見て、純夏はすこし不安そうな表情を見せていた。
「君は一体何者なんだ?」
「何者って言われても……」
下校中、孝の純夏は桜並木の道の途中にあるベンチで座っていた。純夏は最初から最後までいないもの扱いになっていた。だが、彼女は普通に生活していた。普通に授業を受け、普通に弁当を食べていた。そして現在、普通に会話をしている。純夏でさえも、この現象はなんなのかわからないのだ。
あ……と、純夏は重い口を開いた。
「これは、話してなかったんですけど……。私実は、あの桜並木で歩いてる時から前の記憶がなくて……自分がいったい何でこんなところにいるのかも、自分が本当は何者なのかもわからないんです。でも、孝くんがあの花を触って可愛がってくれると……なんか無性に嬉しくて……。だから私は孝くんに声をかけたんです……」
純夏はすこし口角を上げ、顔を赤らめていた。孝はだいたい察しがついていたが、わからないふりをして、彼女と接した。
「あ……いや、そういうわけじゃなくて……なんかあの花の気持ちになったら心がくすぐったくなっちゃって……。」
頰を赤らめる純夏を見て、孝は何もコメントせずに
「事故でもあったの?記憶喪失?」
「それすらもわからないんです。」
要約すると、彼女は孝と出会う前の記憶がないのだ。桜並木に生えていた小さな小さな花をじっと観察して撫でていた孝を見てなぜか心が躍ったという。その理由で孝に声をかけたという。自分でも何者なのかは本当にわからなくて、自分の中にある記憶は、自分の名前は黒田 純夏であること、そして中学校三年生であるということ、家の場所だけだった。
孝は不可解そうな顔をした。本来ならば見えない少女が自分だけに見えるというのは物理的にもおかしいのだ。ともすれば、彼女にずっと話しかけているということは他の人からしてみればただの変態妄想野郎にしか見えないのかもしれない。必死に純夏について考察しようとするも、情報が足りなさすぎて何も突き止めることすら不可能なのだ。黒田 純夏が一体何者なのかもどこから来たのかも知らない。
「家まで送っていこうか?」
孝は少し緊張しつつも純夏声をかけた。その裏には、彼女のことは家に帰れば何かわかるかもしれない、そう思ったのだ。
「はい……」
桜並木を進んだ先には大きな交差点に出る。中央分離帯には多くの桜を始めとする辛夷、梅が咲いている。孝にとって全く滑稽な光景なのだが、街路樹の下の方を見て何かを探しているように見えた。
住宅街に入り、数々の華麗な花弁が落ちている道を孝と純夏は歩く。そして偶然にも、彼女の家も孝と同じ方向にあるらしい。
「なぁ、桜の花が散るとちょっと悲しい気がしないか?」
「うん、する。もう二度と会えないかもしれない。そんな気がする寂しさというのか……な。桜ってバァァッ!って咲いてなんぼの植物でしょ?だから……咲いてないと寂しい……のかな」
自分の言ったことに疑問形へと変換することに少し違和感を覚えた孝。確かに似たような理由で桜の花びらが散ると寂しくなるというのは伝わるのだが、実にダイレクトではない。語彙力に問題があるというべきなのか、彼女の解説は少し意味を理解し難かった。
「ここ、私の家……」純夏は対象物を指をさして言った。
孝は言葉を失った。いや、何も声にすることができなかったというべきなのか。驚きを隠せず、口を閉じることすらできなかった。
純夏が指をさした方向には孝の家があったからだ。
「俺の……家? どういうことだ?純夏!?」
と、純夏がいる場所を見てみると、彼女は風のように消えていた。
「純夏……? 純夏?!」
返事を求めるが、返ってこない。孝は桜が降る小道の中で風に揺られながら今のこの状況を唖然として立っていた。自分に向かって吹いてくる風はまるで、自分を後押ししてくれる追い風ではなく警告を促す向かい風のように感じた。
翌日、あの桜並木の道に純夏はいた。桜の花びらが落ちている並木道を歩いていた。
「おはよう、純夏。どこ行ってたんだ」
「おはよう……ございます」
純夏に異変があった。なぜか片言なのだ。右手は半透明、実体しているのかしていないのかさえも危うい。定義すらもできない。彼女はまるで孝を初めて会った人のように振る舞う。
「純夏……?」
「あの、ごめんなさい。どなたでしたっけ?、私の名前、知ってるってことは私の知り合いなのでしょうか?」
少女は不審そうな様子を見せている。
「お、おい……冗談だろ?お前は黒田 純夏じゃないのかよ、昨日、俺と会ったじゃないか」
少女は思考する。しかし、その返答は孝にとってとても残酷なものだった。
「昨日……?うそ……私、何も覚えてない……名前と……学校と家の場所しか……私はわからない……」
「家の住所は!?」
純夏は自分の住所を呟くように言った。
「……俺の住所……」
彼女の住所はやはり、孝の家の住所と同じであった。それは、彼女の中では固定されているのか、否か。
あ、と孝は何かに閃きカバンをゴソゴソと漁り始めた。カバンに入っているのは教科書、ノート、筆箱、内職用の紙。そして……
「あった。これだ!」
カバンから出てきたものは、紙の切れ端だった。中身を開くと、『黒田 純夏』と書かれているあの切れ端だ。これを純夏に見せてみる。
「……これは……」
純夏は切れ端に触れた。なんの警戒心も持たず、そっと自分の落とした切れ端を持って、見た。
瞬間、彼女に異変が生じた。目を大きく見開き、頭を腕で抱えこむ。
「うっ……ぐッ!!!」
声が出るほど頭に尋常じゃない痛み、頭はまるでパソコンの容量がパンクするかのごとく段々と色々なものが感情、知識、そして記憶が流れ込み、膨れ上がっていく。
「大丈夫か!? 純夏!!」
「……私は……大丈夫……ごめんネ……あああっ!」
頭を抱える純夏をみて孝は何かしてやれないだろうかと模索したが、紙に触れただけで激痛というのは現実世界においてありえない。頭痛薬を買ってくるという手もあるが、おそらくこの頭痛には効かないだろう、と焦りながら瞬時に答えを出した。
「ああっ……っ……あああっ……!!」
あまりの激痛に思わず膝をつく。やがて頭痛が治ると息切れが止まらなくなる。そして、何かを悟ったかのように彼女は呟いた。
「私は……この桜並木の道で……孝くんと出会った……」
「……!!」
「孝くん、ごめんね。私、孝くんのこと、忘れてたよ……」
「純夏……」
思い出したのだ。彼女は過去の自分に関係するものを触れると、おそらく痛みを感じ、同時に何かを思い出すというものなんだ、と孝は冷静に解釈した。
――ならば、同じことを何度も繰り返していれば彼女は過去の記憶を取り戻すのではないだろうか。それを思いついた孝は、とっさに彼女の手を引いて走り出した。
「どこへ行くの!? 孝くん!」
孝は無言のまま手を引いて走っている。学校などどうでもいい。彼女に思い出して欲しいのだ。
桜並木の道を抜け、大きい交差点をも抜け、住宅街の小さなをも走り抜ける。
そして彼らがたどり着いた先は……
「俺の家。入って色々な場所に触れてこい」
今日は母親も父親も仕事な上、彼が帰って来ても正直問題はない。学校から連絡きても適当にはぐらかせばなんとかなる。
「おじゃまします……」
「おう、土足は禁止な」
「うん」
孝は考える。自分の家だと指をさしたこの家を見て彼女は何を感じているのだろう。一体自分が何者なのか、この地を見るときっと、曖昧な形ではなくはっきりとわかってくるのではないだろうか。と。
すると彼女は息をすー、と吸い、何かを感じていた。
「この暖かい感じはどこかで味わった事のある暖かさ……。一体どこで何を味わったんだろう……」
黒田 純夏。つくづく不思議な少女だと改めて思った。彼女が向かった先は洗面所だった。鏡に映る自分の姿を見て彼女は顔に手を添えて感動に浸っている。
「もしかしてお前、自分を鏡で見たことがないのか?」
「ええ、でも、こんなに可愛い人だなんて思ってもいなかったよ」
ナルシストかお前は!と突っ込みたくなったが、記憶喪失のせいの発言だと考えれば自分の顔を第三者で見るとモデルの顔やら女優さんの顔やら、地下アイドル、もしくは某アキバアイドルの顔に見えてもおかしくはあるまい。ちなみに孝は可愛いとは思うがそんなことは微塵も思っていない。
「ねえねえ、たーくん。私と写真撮って〜!」
言った矢先に彼女の頭に一つ疑問が生じた。
「たーくん? 誰……?私の知らない人……?いや、私の大切だった人……思い出せない……。思い出したら……消える?」
自分のことをたーくんと呼ばれ少し照れくさい気持ちにはなったが少なくとも自分に言われたことではないせいか、あまり動揺することはなかった。
「たーくん……か……」
呟いて話しかけようと純夏の方向を向いたのだが、彼女はもういなかった。
「どうなってんだ……こりゃ」
その日の夜、彼は考え事をしていた。彼にも一つ、疑問点が生まれていたのだ。純夏は知らないが、この家にはなぜか外に置いてある壺に花を添える習慣があるようだ。その理由を聞き出したいのだが、正直、親子関係はうまくいっていない。
どう話しかけたら良いのか自分でも正直わからない孝だったが、とにかく親に話をして見ない限りは何も進まない。とりあえず、純夏の謎を解かなければなにも始まらないのだ。
「ねぇ、この家ってなんで壺に花を添えてるんだ?」
両親は黙る。父親は箸を置いて目つきを狼のように尖らす。
「孝……。お前は覚えていないだろうな。十数年前のこと」
続けて母親が箸を置いて
「そう、あれは孝が小学校一年生の話でね、学校に行きたくないって叫んだ孝を校長先生がわざわざ家の近くまでいらしてくれてね……。『この小さな花が咲く頃は君の新しい一年が始まりを迎えた証なんだよ』とおっしゃってくださったの。それから、孝は、この時期になると道端に小さな花が生えていないか、探すようになったの」
この瞬間、孝の中のわだかまりが解けたような気がした。植物観察と称してなぜ自分があの小さな花を大切にするのか自分なりに納得したつもりである。
しかし、家族の話を聞いてもまだ何かが足りない気がする。自分があの花についてとても大事にしている理由、そして今まで気になっていた黒田 純夏のことについて。この二つの問題はおそらく共通の答えになる、と孝は推測した。もっとも、この花を見てとても元気が出るのは出るのだが、どこか切ない気分にもなる。
――一体この気持ちはなんなのだろうか。
以前にもこの気持ちは感じたことはあった。この狭苦しい空間の中に閉じ込められて、だんだんと自分が押しつぶされていくような感覚、自分を締め付け心臓をもぎ取る強く苦しい気持ち。彼は曖昧にも答えを出すことができず、一日を終えた。
その翌日。
今日は休日だ。桜の花は相変わらず地面に落ちており、春の終了を告げているような気もしなくもない。今日、桜並木の道を訪ねても彼女はいなかった。一体どこへ消えてしまったのだろうか、と思いながら彼は自分の記憶を辿る。自分が小さな花を好きになった意味、そして、なぜ今まであの花を大切に大切にしていたのかを知りたかった。自分の中の花に対する暖かい気持ちを忘れていたのだ。
小さな花は春先の少し暖かい時期にしか咲くことはない。故に、五月になりゆくこの時期はそろそろ小さな花の咲く時期が終わりを迎えるのだ。本日彼女がいないこの街でどう過ごそうか、と孝は考える。あんなにおかしいやつだったのに、変なやつだと思っていたのにどこか懐かしい気がした。と孝は回想した。この懐かしい気持ちは孝にとってとても理解できないものだった。遠い昔に、自分は誰かを助けたことがあった。同い年の女の子だった。たしか、自分にとっては一番大切な存在だった気がする。病気で絶望して生きる気力を失った女の子に孝は何かを渡して元気付けたのだった。そして、『とある約束』をして彼女と別れて、そして今に至っている。その少女が今どこでなにをしているのかはわからないが、この桜並木を見るとなぜかその少女のことを思い出す。孝にとって、この記憶は邪魔でしかなかった。昔を振り返ってウジウジしているのはとても自分のカンに障る。でも、暖かいこの気持ち。何かに抱擁されるような暖かい気持ち。味わってとても落ち着くような気持ちだったが思い出せない。そんな自分にだんだん煩わしさを感じ始めていた。
桜並木を少し歩くと大きい病院がある。天高くそびてるその病院はまさに神を祀って病気を治そうとする心がけにも見える。そこまで古い建物ではなく、最近新築されたらしい。
「大学病院ってだけあって結構でかいな」
と、突然彼の頭の中から自分の助けた少女のいた病院が残像として頭に浮かんだ。少女の病院は、クリニック程度の大きさでそんなに大きくはなかった。だが、地理的に全てが一致したのだ。彼が少女に別れを告げた時、出口を右に曲がるとたしか桜並木だった記憶が彼の中からポツポツと浮かんでくる。
「……病院?」
なぜだ、と彼は頭を抑える。自分の頭の中に眠る記憶が少しずつ蘇りつつあるのだ。
「この病院が……自分の記憶の中にある病院だというのか……?」
そして、考えに考えた結果、彼の頭に一つの結論が浮かび上がった。
「間違いない……俺は以前ここに来たことがある……」
この結論が一体なにを物語るかまだわからない。ただ、胸騒ぎがした。一体この地で自分はなにをしていたのだろう。なんの変哲も無いこの街で自分はなにを生きがいにして生きていたのだろう。焦燥感。彼の中にはそれしかなかった。
病院の中に入るとその景色は自分の見た景色とは異なるものだった。昔は待機椅子など誰かが座れるか座れないかの瀬戸際だったのが今では広い大広間の中に椅子が大量に並べられているのだ。まるで空港の搭乗口の前の椅子みたいだ。
「俺のいた病院なのか……?ここは」
たくさんの人々が歩いている。車椅子に乗った老人、松葉杖をついた青年、パジャマを着た子供。誰もが皆、死の瀬戸際で楽しんで病院で暮らしているのか……と思うと少し気持ちが萎えた。
前方に顔をあげると何やら黒い女の人影が見える。試しに近寄ると女は消えた。すると、再び女は現れたが少し遠ざかっていた。だが、純夏にしては少し幼いように見える。
「まさか……純夏!」
女の残像を追いかけ、追いかけるが消えては先に現れ、消えては先に現れ、ついには外へ出てしまった。
「どこだ?!」
辺りを見渡すと黒い女の幻影は坂道を下っている。交差点を右へ、そして次の道を右、そして再び坂を登って右へ曲がって病院に行き着いた。
「……!」
この道は孝にとって行き覚えのある道だった。あの日、女の子と一緒に歩いた道。病気だった女の子と一緒に歩いた散歩じぶんんお道。そして『三つの約束』のうちの一つをした散歩道。普通歩いて一五分しか、かからないこの道を少女と話して一時間以上も歩いて怒られたこの道。
しかし、肝心の少女の名前と顔が思い出せない。自分の中で少しずつ苛立ちを感じ始めていた。
「どうして思い出せないんだろう……」
自分の中にある謎の感情を孝はどう処理していいかわからなかった。自分の中に眠るどうやっても思い出せないこの記憶が孝自身の思考回路の邪魔をする。この話題を終わらせたくても頭からまったく離れてくれない。
「な……んなんだ……!」
――たーくん、私とあそばない? もっと、もっと。ずっと。
少女の声が聞こえた。どこか昔で聞いたことのある声。自分をやさしく包み込んでくれる甘く幻想的な声。『たーくん』という懐かしい声。
いったいどこで聞いた声だろう。この病院の中……なのかと筋道をたてて推測するも、どうしてもすぐに崩壊してしまう。
なんなんだよ……ほんとに。と少し自暴自棄になって彼は家へと帰っていった。
翌日。日曜日。
彼は頭の中にある謎の意億を掘り起こすために再びあの少女の幻影が通った道を歩む。
少女を追いかけていて全く見えなかったいろんな施設がこの目の中に映り込む。
桜並木のそばの交差点を右に曲がる。事実上、歩道は道の右側になるのだが中央分離帯に生えている木々が反対車線の景色を遮っている。とはいえ完全に遮っているわけではなくやたらと間隔が狭いわけで確認が困難なのである。駄菓子屋、靴屋、卸売スーパー。街並みはごく普通でさすが平成だと感心できる場所でもある。
交差点を曲がって進むと再び交差点にぶち当たる。目印は卸売スーパー。右折すると桜並木ではなく別の木々が植えられている。
――たーくん、この木は銀杏(イチョウ)っていうんだよ……
少女の言葉を少しずつ思い出しつつ、孝は少しずつ坂を上っていく。何もないこの坂道。子供たちの笑い声、スズメの鳴き声、カラスが羽をはためかせる音。そのすべてを景色と認識しながら曲がりくねったこの坂道を登っていった。
五分ほど登ると再びあの病院が見えてくる。病院の駐車場は広大すぎるため、信号機と信号機の間ほどの大きさはある。孝がこの病院の敷地に入ったとき、また少女の声が聞こえた気がした。
――ゴール……だね、たーくん。
少女は少し悲しそうにいているように聞こえた。
――私、たーくんと入れて本当に……よかった。
何か少女の声がおかしい。少し震えているように聞こえる。涙ぐんでいるのだろうか。
――引っ越しても、また会えるよね! 私、ずっと待ってる!
「……!」
孝はそのあと『たーくん』が出した返答を知っている。
約束だ。すみか。僕も絶対にまた会いに行く。
少女は黒田 純夏だったのだ。気づけずに今まで彼女と接してきたことにとても罪悪を感じた。心の底から叫びたいほどに感情があふれ出てくる。
「なぜ……俺は……」
――じゃあ約束ね! 私たちずーーーーーっと友達!!
――引っ越しても、また会えるよね! 私、ずっと待ってる!
そして最後の約束は……。
――たーくん、私をおよめさんに迎えに来てください。
孝は桜並木の道でひざを折って涙を流した。
翌日。月曜日。
純夏はやはり平日になると、純夏はこの桜並木の道に現れるらしい。
「おはよ! 孝くん」
孝は黙って純夏を見つめる。心の奥の感情を押し殺して。
「どうしたの? 孝くん」
「ちょっと小指を貸してくれ」
「孝くん、小指を貸したら私の小指がなくなっちゃうよ」
「あー、小指を出せってことだよ」
孝に言われるがままに、彼女は小指を孝に突き出した。それに合わせて孝も小指を出して小指と小指を結ぶ。純夏が小指から孝の顔に視線を合わせると彼の顔には涙が流れていた。少し疑問を抱いた純夏だったがその答えはすぐに返ってきた。
「俺と純夏がした、『三つの約束』覚えてるか?」
孝と純夏が出会ったのは今から4年前。小学校五年生の時である。
☆☆☆
孝は重い病気を患い、桜並木の道にあるあの病院に入院していた。
あまり外界に出られず退屈だった。病院の中の窓から見える景色をただただ、ずっと眺めていた。
「ああ、退屈だな……。僕はなんて病気にかかってしまったのだろうか」
生きる意味を失ってしまった孝。瞳が曇ってしまった彼に話しかけたのは……。
「こんにちは、今日も天気がいいですね」
「ああん?」
孝は少女をそっけない態度で突き返す。
「私はキミと仲良くなりたくて話しかけているんだよ」
少女を下から上へとなめるように観察する。
「古井 孝。十一歳。お前は?」
「黒田 純夏。同い年だあ!!」
「うっせえ。ぼくは早く退院したいんだ。邪魔をしないでくれ。癇に障る」
孝は純夏を突き離すかのように言葉を遮った。
その後、彼女は孝が退室、出かける際にはいつも声をかけてくる。
「どこへ行くの? 教えてよ!」
「教えない」
必死で絡もうとする純夏を何度も突き放す。それでも彼女はあきらめなかった。行く日も行く日も彼女は必死に話しかけようとするが、孝は目もくれない。
ある日、孝とその両親が話していた。
「孝、手術を受けなさい」
「じゃないと、お前死ぬぞ」
「僕は、成功率の低い手術なんて受けたくない」
その次に発せられた言葉は純夏にとってとてつもない打撃を与える一言でもあった。
「どうせ死ぬんだから……」
「でも孝…」
この会話を純夏は盗み聞きしていた。まるで昔の自分を思い返しているようだった。
――孝くんのあの言葉は本心ではないはず。手遅れにならないに早く説得しなくちゃ!
その後、両親は孝を置き去りにして帰った。
「孝くん……」
「ああん?」
孝はいつもの適当な返事で返す。まだほんの少しの可能性でも希望を失ってほしくない。彼女はその一心だった。
「死にたければ、早く死んだら? 生きたいと思っている人に迷惑よ」
「お前、僕の話を……」
純夏は言葉を遮った。
「どうせ死ぬ、生きているのが無駄だと思うなら早く死ねばいいじゃない。むしろ私が死んでほしいの」
孝は黙った。純夏がいったい何を言いたくてこんなことを言っているのか、少しずつ察しはつき始めていた。
「私ね、この病院でとても退屈で……いつも自分の中の病気と闘ってて、独りぼっちだったの。だけど、隣に年が近い子が来て……孝くんが来て……とてもうれしかったの!」
「お前に何がわかる。この命のタイムリミットが少しずつ、刻一刻と迫ってくるこの感覚……」
「わかるわよ……。この病院ではもう生きられない人もいるの!!ねえ、まだ助かるかもしれないキミに、その人たちの気持ちはわかる?」
「うっさい」孝は彼女の言葉をはねのけて寝に入った。
「生きられないなんて……どうせ死ぬなんて……言わないでよ……」
このとき、すでに純夏は余命二年を宣告されていた。
孝の様子が変化したのはその翌日からだった。
「先生、僕手術を受けます」そう両親の前で主治医に宣言すると孝は隣にいる純夏に笑顔を浮かべていた。
「おい、隣のヤツ」
「純夏よ、純夏!!」
「僕、行ってくるよ」
彼は前のような弱気な態度を見せず、明るく元気に過ごすようになった。そしてそんな姿を見て少しずつ純夏も孝に惹かれていった。
手術は無事成功し、リハビリを続け体力を取り戻していく一方でお互いがお互いを感じあった。
☆☆☆
「どうしたの? 孝くん」
小指を結んだまま、孝は涙を流している。
「ねえ~!」
今ここで真実を話してしまうと純夏が消えてしまいそうで怖かった。だけど、たとえ幻想だとしても彼女の夢をかなえてあげたかった。忘れていても、古井 孝本人にまたこうしてめぐりあって、心のどこかで自分を待っていたことに感謝し彼は震える唇を動かした。
「最初の約束は……ずっと友達でいること。二つ目の約束は引っ越してもまた再会すること。そして三つめは……」
「たーくんのお嫁さんになること……」
今の言葉は孝から発された言葉ではなかった。小指から先純夏の顔をみると、彼女も涙を流していた。
「全部……おもいだした……」
瞬間、孝の心の底にあった感情が火山のように噴火、あふれ出てきた。
「ごめんね……。たーくん。私こんな大事なことを忘れていたなんて……引っ越してもずっとまた会いたいって思ってたのに……!!」
「俺もごめん……こんな大事な約束を守れずに、迎えに行けなくてごめんね。そして、久しぶり。純夏」
純夏は左手で涙をぬぐった。
「あーあ、私消えるんだ……。時間がたつのは早いね」
えへっと彼女は満面の笑みを見せた。
「病院にいるときも退院した後も、そして今も私に会いに来てくれてありがとう。ずっともあってた。引っ越す前にくれたあのお礼の花。とてもきれいでずっと生けようとしてたんだけど小っちゃくて生けられなかったんだ。でも、臆病な自分を後押ししてくれた気がするんだ。病気でもう希望が持てなくなった自分に勇気をくれた気がしたんだ。たぶん、会いたいという強い気持ちが……私たちをめぐり合わせたのかもしれないね。本当にありがとう」
「俺もだ。最初はそっ気ない態度だったけど本当はうれしかった。引っ越した後もこの花を探しては自分の一年の始まりだと思って生きてきた。あの時、どうせ死ぬとか言ってごめん。純夏がいなかったら俺は死んでいたのかもしれない。感謝しきれないほどありがたいと思ってる」
純夏は孝に飛びついた。
「好き、消えたくない」
「ああ、俺もだ」
孝はくびれた彼女の腰を包み込むように。優しく抱擁した。
この感覚を忘れないように二人は桜並木の道で強く抱いた。
「じゃあ、私、そろそろ行かなくちゃ。いつもの指切りげんまんで終わりにしよう?」
二人の目から熱い涙が流れた。
「俺、純夏に出会えてよかった。本当にありがとう。大好きだった」
「もう、過去形? ひどいな~。たーくんも元気でね」
孝と純夏は再び小指を結んだ。
「たーくん、指震えてるよ~?」
「うるせえ! よしやるぞ……」
――指切りげんまん 嘘ついたら針千本飲ます ゆびきった
純夏は舞い散る桜のごとく光の粒となって消えていった。孝は喉が枯れるほど大きい声で泣き叫んだ。
翌年の春。彼は卒業式を迎えた。
桜が舞い散るこの道を何回も何回も通って学校に通い詰めたのだ。彼の一年の終わりも始まりもこの桜ではない。その根元に咲いている小さな花だ。そしてその花に彼は言葉をかける。
「純夏……見てるかい? 俺は中学校を卒業したよ」
花の名は『春桜(クロッカス)』。
花言葉は、強く望むこと、『切望』。
(The End)
春桜 カガリ ナガマサ @Kagari_Nagamasa
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