帚木(ははきぎ)


 光源氏の部屋は、元桐壺の更衣の住まいだったところである。この時代のお屋敷は、大きな部屋が一部屋と、奥の鍵のかかる部屋でできていて、それを几帳やなんかで細かく区切り、生活用品は、たくさんの女房達がいちいち持って来たり持って出たりする。そして身分の低いものは、この広間には入れず、廂(ひさし)と言う、部屋ではない縁側を利用する。この廂も屋根はあり、すのこの壁もある。そこそこ広く、宮仕えの女房はここを区切って自分のプライベートスペースにしていたりした。このように、一部屋を様々に利用していた。便利なようにふすまで仕切って壁を作り、小部屋を作ることもあったが、基本は大部屋一つだった。だから、屋敷でもあり、部屋ともいえる。帝の号令の下、この屋敷を直し、庭も池を深くしてより趣深くなるようにして、それだけでなく桐壺の更衣に仕えていた女房達まで呼び集めて、光源氏を住まわせていた。これに対して、臣籍降下してもう皇族ではないのに、妃たちの住まいになるはずの内裏に部屋を与えていいのかとか、公費で改装するのはいかがなものかとか、そんな話は陰では言われたかもしれないが、表立っては言われなかった。光源氏は今は臣下であり、民間人の妻をもらい、低い位からコツコツと官位を上げる宮仕えに取り組んでいる。帝の一番のお気に入りだから出世コースかもしれないが、帝の地位を狙う気づかいはないので、「陛下はまだ桐壺の更衣のことをお忘れではないんだな」と、人々が再認識したことで終わった。帝は四六時中光源氏をそばにおいて用事を言いつけ、かわいがって目にかけていた。帝が現役である内は光源氏の将来が安泰なのは間違いなかった。

17歳で、見目麗しく、口説き上手で将来有望となれば、女性にもてないわけはない。そのうえ、彼には難攻不落の女性も我を忘れてしまうような不思議な魅力があった。光源氏の方も女性に興味がないわけではなく、むしろいつも藤壺の女御のような女性を探し求めていた。彼の理想は高かったので、よほど気に入らなければ恋愛関係になろうとはしなかったが、一度関係を持てば深く付き合った。宮中の自分の部屋と二条にある自分のお屋敷を根城にして、正妻の葵の上にしっかり通ってもいたが、遊んでもいた。それを心配して、左大臣家は常に息子たちを送り込んで光源氏に深く食い込むように命じていた。中でも一番仲が良かったのは、葵の上の同母兄の頭の中将である。


 長雨が続き、光源氏が宮中が物忌みだからと言ってなかなか妻のところに訪ねてこないので、左大臣家から、頭の中将が宮中の光源氏の元に送られてきた。頭の中将は年上妻の葵の上のさらに兄であるから、源氏よりはるかに年上であり、身分は今は同じ中将であった。しかし、立場は源氏の方が上で、左大臣の厳命のもと、左大臣家の御曹司たちは、入れ替わり立ち替わり、源氏に手足として使ってもらうように宮中の桐壺に参上していたから、頭の中将も本来なら、主従関係のような立場にあるはずなのだが、彼と光源氏は上下関係の中にも、友の親しみがあった。

頭の中将は勉強も遊びも共にする仲だったので、光源氏が妻の兄に遠慮してはっきりと言わないとしても、かなり遊んでいることはよく知っていた。彼も遊び人であるので、すぐに分かるのである。

頭の中将は同じ皇女の母から生まれた妹の葵の上のことを深く愛していた。だから左大臣家一門の発展のためというよりも、葵の上の幸せのために、光源氏に尽くしていた。もっと熱意を込めて、葵の上に会いに来てもらいたいのである。彼自身も右大臣家の婿のくせに、妻の元に寄り付きもしないで実家に入り浸り、そこに自分の部屋も持ち、生活基盤は完全に実家に据えて、女性から女性へと遊び歩いていたが、光源氏には遊び歩くのをやめて、妹の魅力に気づいてもらいたいと願っていた。そこで、なかなか葵の上のもとに来ないと知ると、ひょっとしてまた新しい女性に入れ込んでいるのではないかと、偵察に来たのである。もちろん、そこできつく意見するような馬鹿ではない。そもそも自分だって妻のもとに寄り付かないで遊び歩いている男のくせに、どの口が注意できるのかという問題もあるが、それが野暮なことは分かっていた。そうではなくて、心の一番に、妹を置いてもらいたいのである。その一番を誰かとりはしていないか、そこが気になるのである。

来てみると、光源氏は本当に物忌み中で、御用の合間に桐壺邸に閉じこもり、油の明かりで本を読んでいた。

男の頭の中将の目から見ても美しく、色っぽい姿である。

届けに来た見事な衣装を渡し、光源氏がおしゃべりをしたい様子ではないと分かると、頭の中将はさっそくたんすをあさって恋文を物色した。

「見てもいいですよね。」

「なら少しお見せするよ。」

「すこしと言わず、全部見せてくださいよ。その見せられないような気の張る手紙こそ見たいんです。なかなか訪ねてきてくれない恨み言だとか、来てほしそうな夕方の色っぽい手紙だとか。」

 身分の高い人の手紙はこんな見られるところに置いておかずにしまい込んであるだろうから、ここにおいてある手紙はすべて身分の高くない軽い遊び相手だろうと思い、頭の中将は遠慮なく全部出して物色した。

「ずいぶんあちこちから集まってますね。この人あの女房でしょう? それでこの人は、ひょっとしたらあそこの奥方ではないですか?」

 当たっているのもあり、間違っているのもあった。おかしかったが、女性を大事にするプレイボーイは手紙を全部隠してしまった。

「あなたのところこそ、たくさん集まっているでしょう。それを見せてくださったら、このたんす、差し上げますよ。」

「そんな見せられるような手紙はありませんよ。」

押し問答をするうちに自然と女性の話になった。

「いろいろな才芸に秀でた女性というのはめったにいないものだとういことが最近分かってきました。」

 しみじみと頭の中将は話した。

「噂で優れていると聞いて、手紙をやり取りしてみればさらさらときれいな文字を書く。上っ面だけにしてもなかなか上手な歌を詠む。でも付き合ってみると優れているのは一芸だけで、他人をこき下ろしたりして、とんでもない女性がほとんどです。親が大切に世話をしている娘時代は、一芸を磨くこともできるでしょう。若いうちは美しいこともあるかもしれない。でも本当に優れた女性と言うのは、ほんの一握りしかいませんよ。まったくとりえのない人間と、数は同じくらいでしょう。周りの人間が、優れているところだけを言って、優れていないところを言わないでいるので、よく見えるような気がするだけなんです。行ってみたらがっかりするのがほとんどです。」

 光源氏はうっすらとほほ笑んだ。心当たりがあるようだと、頭の中将は好感触を得た。妹の葵の上は、美しいだけでなく、いくつもの才芸を備えている。珍しい女性の一人である。

「とりえのない女性なんていますか?」

「元から得意なことがないという評判の女性には、最初から近づきませんが、数は少ないでしょう。

 上流階級なら、周りが隠すから才芸がなくてもはっきりしないし、中流階級は周りも隠さないから、どの才芸が得意か下手かははっきりわかります。下流階級の女性の評判など、最初から聞く気にもなりません。」

「ずいぶんと詳しいですね。その女性を三種類に分けるのは、どういう分け方ですか?

 たとえば、生まれは卑しいけれど高貴な身分に上り詰めたとか、逆に生まれは高貴だけれど官位が上がらず、不如意な生活に落ちぶれているとかは、どちらに分けるんですか?」

 そこに同じく女遊びの好きな左馬の頭(左馬寮の長官)と藤式部の丞(藤原氏で式部省の三等官)が物忌みをしようと部屋に上がってきた。



左馬の頭はどの階級の女性のこともよく知っていたので、話を聞くと重みのある答えを出した。

「生まれが卑しいけれど成功した家の女性は、いくら素晴らしくても高貴な生まれの女性とは違ったところがあるという評判がいつまでも抜けません。それに、もともと高貴な生まれだけれどもみじめな生活をしているという女性は、心がけが気高くても生活が伴わないので良さが生きません。

 場合にも寄るでしょうが、この二つは中流階級に入れるのがよいでしょうな。

地方にいる受領階級は、それこそ中流そのものですが、生活に余裕もあるし、この中から良いものを選ぶと素晴らしいです。

なまじっか上級の貴族よりも、むしろ参議になれないでいる四位くらいの貴族が、生活に余裕もあるし、もともとの生まれもそれほど卑しくはないから、世間の目もそれほど冷たくはないし、恋人としては理想的ですな。このくらいの家の娘が、非の打ちどころがなく育っていて、宮仕えに出れば高貴な方の目に留まって幸運をつかむことも珍しくないですよ。」

「結局は出世がすべてなんだね。」

 光源氏は笑うので、頭の中将は妹のことを言われていると思ってじりじりした。

「まるであなたらしくもないことをおっしゃいますね。」



「上流階級の女性については、もともとのお生まれも素晴らしく、なおかつ十分に教育を受けて育てられているはずですから、難があればむしろ期待外れな気がするでしょうね。しかし私の手の届く方たちではないので、この階級については何も申しますまい。

 そんな高貴な姫君が、打ち捨てられた御屋敷に住んでいて、性格も愛らしくて、というのがいたら、意外な感じがしてすごく惹きつけられますね。

 そうそう、父親がぶくぶく太って、兄も顔が憎たらしいのに、その姫君たちが美人で琴や字が上手だと評判なのは、まったく欠点がないというのではないにしても、これはこれで意外な感じがしてひどく惹きつけられます。」

 左馬の頭は意味ありげに藤式部の丞を見やると、藤式部の丞には評判の妹たちがいたので、むっとした。

(いや、上流階級にだって、優れた女性は少ない。)

 光源氏はそう思った。

 のりのとれた下着を何枚も重ね、袴はなく、ただ簡略上着の直衣だけを紐を結ばずに軽くはおって、ものに寄り掛かって思いにふける姿は、女性にしたいくらいに魅惑的だった。光源氏には上流階級のうちの最上の女性を選んでも足りないと思わせるくらいだった。


「しかしあれですな。」

 議論が続いてしばらくすると、左馬の頭はため息をついて言い出した。

「恋人としてよくても、妻とするにはどうかと思う女性もいて、迷われるところですな。どういう女性がいいのか。

 忠臣だって、お一人お一人はよくても、大臣にすることを考えたら、どの方がいいかと悩むところでしょう。どの方も長所もあれば短所もあります。

 恋人としてはきれいな字をさらさら書いて、才芸にあふれているのがよいです。何か言えばかすかな返事が返ってくるような奥ゆかしい女性が可愛いです。しかし妻として家を守ってもらいたいと思えば、頼りないのは困ります。朝夕出仕しているのに、何かにつけて指示を仰ぐ手紙をよこすのは困るし、かといって髪を美しく垂らしてもおかないで家事にかまけて、あの人がああだこの人がこうだと噂話ばかりする人に、宮仕えの苦労を話す気にもなれませんしね。話す気になれないから自分の心の中で話して、思わず独り言に出ると、「何ですか」とじっと見られるのも興ざめです。

 いろんな夫婦を見てきましたが、理想の夫婦というのはいませんでしたよ。

 おっとりして素直な人をしつけなおすのが一番ですな。自分の好みにかなうように。しかし何かにつけて自分で判断ができないのは困るところだし、気の強い女性が万事うまくこなすこともありますが、これはこれでかわいくないし。」

 左馬の頭は自分でも結論が出ずに困っていた。

「もうこうなっては、身分の上下など申しますまい。顔の良しあしも才芸も、関係ありません。女はおとなしくて、操正しく、嫉妬しないのが一番です。遠い外国においても…」

 左馬の頭はながながと女はいかに操正しくて嫉妬しないのがよいかを語りだした。頭の中将は、「葵の上は操正しくて嫉妬もしない」と思い、この話こそ聞いてくださいと思って源氏の方を見たが、光源氏は居眠りをしてよく聞いていなかった。


 やがて話し終えた左馬の頭はふと暗い顔をして、ほかのものを見やった。

「そういえば、私がまだ身分が低かったころの話なのですが、聞いていただけますか。」

 光源氏は目を覚まして、ほかのものも耳をそばだてた。

「私が身分が低くて、まだ出世のあてもついていないころに、一人の女性と恋仲になりました。この女性は顔はそれほどでもないのですが、私のことをとても愛してくれていて、万事につけて嫌われまいとして、努力するような女性でした。私が好きなことはやったことがなくても身に着けようとするし、私に必要だと思えば、工夫してそれができるようにするといった具合で、私の世話も万事につけて不足のないようにといつも気を遣ってくれていました。顔も美しくないのを気にして、常に化粧をし、私が恥ずかしい思いをするといけないからと、人前にも出ないように気を付けていました。家に引き取り、一緒に住んでいました。年を取ってからも夫婦になるつもりでした。

 ただ、嫉妬の癖があって、その点だけがいただけませんでした。私も若かったので、その女性が美しくないのが気に入らず、ほかの女性のもとにも通っていましたが、それをひどく疑って嫉妬します。

 私はそこのところだけは直してやろうと思い、ある日特につらく当たった後で、『その嫉妬の癖が抜けないのなら、縁を切る。嫉妬の癖さえ直すなら、お前には何の欠点もないから、出世しても一番の妻のままにしておいてやる』と言いました。嫌われるのを怖がって、私の言う事なら何でも聞く女性だったので、これで直すだろうと思ったのです。ところが素直になるどころか、こう言いました。『出世するまでの貧しい時期をいくら長く待ったって何とも思いはしませんが、いつか直ってくださるだろうとあてにならない心をずっと待っているのは苦痛です。それならこのまま縁を切りましょう。』それでひどいけんかになって、女が指にかみついたので、傷になったこれでは出仕できないと責めて、女も泣き出して、そのまま指を曲げて出てきました。

 そうはいっても何日かしたら反省するだろうと思い、その間にほかの女性のもとで気楽に遊びましたが、ある雪の日に宮中から出て、同僚と別れると、行きたいと思うのはその女のもとしかありませんでした。その女しか、温かい服や食事を用意してくれるところはなかったのです。他の恋人の家ではゆっくり休ませてもくれないでしょう。

 それでそろそろ反省しただろうと思い、その女の家に行ってみると、綿入れの新しい服が温めてあり、几帳も巡らせて私がいつでも入れるように几帳の布を上げてありました。嬉しくなってその女を探すと、女房達しかいなくて、女は実家に帰ったというのです。書置きも何もありませんでした。しかしその綿入れの服だけは、いつもよりも心を込めて仕立ててあって、女の真心を感じましたので、愛情は冷めていないと思い、真剣には考えませんでした。実家に手紙をやると、『私の考えが改まったら帰る』という返事で、それならと私も意地になって、急いで呼び戻そうとしませんでした。何度か手紙をやり取りするうちに、返事が来なくなって、問い合わせると、悲しみのあまり女は死んでしまったという事でした。

 夫婦になるなら、あんな女性こそ適当だったのに、ささいなことでも大きなことでも、相談すれば手ごたえのある返事が返ってきたし、染め物も縫物もうまいものでした。」

 悲しみに沈む左馬の頭に、一同は好意をもってあいづちをうった。

 話はそれで終わりではなかった。

「この妻がいたころ、別に通っていた女性は、顔も美しいし、字もうまく琴も弾けて歌も詠むし、特に難がない女性でした。妻がいたころはここのところが素晴らしく思えていたのですが、死なれてしまった後、仕方ないのでこちらに何度も通っていると、むやみと浮気っぽいところが目について、それほど通わなくなりました。

 それが11月(旧暦10月)の月の美しい夜に、ある身分の高い方と同じ牛車に乗り、大納言の家に向かっておりましたところ、この女の家の前を通りかかり、「今夜は人を待っているようだ。素通りはできない」とおっしゃいまして、勝手知ったる様子で中に入っていきます。家の垣は崩れて、池には月が写り、なかなかの風情で、女の方も明かりをつけて御簾を下ろし、人を待っていました。その方が縁側に腰を下ろすと、早速琴を弾き、歌をやり取りしてよい雰囲気です。最上とはいかなくてもそれはそれは風流なものでした。でも、こんな風雅な女房は、浮気相手としてはいいでしょうが、頼みにはできないと分かって、それきり通わなくなりました。

 若いころでさえそんな女性は頼みにできないと思ったのですから、年を取った今ではなおの事そう思うでしょう。

 お若い方はお気を付けください。風流なのはよいように見えるでしょうが、そのような浮ついた女性は頼りにはならないのです。悪い評判が立ちますよ。」

 光源氏は片頬だけを上げるほほ笑み方をした。

「どちらもみっともない話だねえ。」


「それでは私は愚か者の話をします。」

 今度は頭の中将が語りだした。

「隠れて通っていた女がおりました。長く続くとも思っていなかったのですが、女は私が長く通わなくても、他で女性を作っていても、たまに行けば知らないふりをして頼りにしてくれます。

 親もおらず、私だけが頼りのようで、いじらしいので、私も『僕を頼りにするように』と言っていました。

 私は知らなかったのですが、妻のもとから、きつく言ってやったようでした。そうとも知らず、手紙もめったに出さなかったのですが、子供がいたので、心細くなったのでしょう。撫子の花をつけて、手紙をよこしました。


「山がつの     卑しい身分の

 垣ほあるるとも  わたしへの思いは絶えるとしても

 おりおりに    時々は

あはれはかけよ  かわいそうと思ってください

撫子のつゆ    子供にはつゆほどのわずかなだけでも」


そこで思い出して行ってみると、物思いに沈んで虫のなく草むらを眺めていて、物語にありそうな風情です。


「さきまじる   咲き混じっている

色はいづれと  どの花の色と

わかねども   見分けはつかないが

なおとこなつに それでも撫子の花に

しくものぞなき 勝るものはない」


そう詠んで、これは凡河内躬恒の歌に合わせて、「私の寝る寝床はあなたと植えた床、とこなつ(常夏)の花しかない」と機嫌を取ったのです。女は『常夏の花にも秋が来ました』と言って、私に嫌われまいとして涙を見せないのですが、泣いているようです。これほど私のことを気にしているのなら大丈夫だろうと、また行かずにおりましたところ、行方をくらましてしまいました。妻がひどく脅したようで、何ともしようがなかったのでしょう。頼りの少ない身の上でしたから。

 うるさいほど愛情を示してくれれば、もっと頻繁に通うところにしていたのに、今頃生きていたらひどい暮らしをしていることでしょう。子供もかわいかったので探したのですが見つかりません。

 左馬の頭のおっしゃった「頼りない女性」とは、こういう女性でしょう。私が愛している間も心の中で恨んでいたのかと思うと、これはまるで片思いです。私は忘れようとしているところですが、向こうは今でも忘れていないでしょう。誰のせいにもできないと思って、夜などつらい思いをしていることでしょう。

 さきほど左馬の頭がおっしゃったやかまし屋の女性も、差し向かいになるならうるさいし、琴の女性は浮気が許せないし、このようなおとなしい女性はよいのですがどうかと思えるところもあって、難しいですね。」


 語り終えると、頭の中将は藤式部の丞をせっついた。

「あなたも何かあるでしょう。こういう女性は良かったとか。」

「私のような身分の低いものに、そんな話はありません。」

「いいからいいから。」

 藤式部の丞は頭をひねって話を思い出そうとした。

「私が文章生の学生だったころ、左馬の頭の言った、『賢い女性』に会いました。仕事の話をしても話し相手になり、生活においても万事心を配って、漢学の才能は、下手な学者も顔負けなくらいでした。

 ある学者の先生のもとに、娘が大勢いると聞いて学問を教わりに行ったのですが、ついでに恋文をやると、その先生が聞きつけて、さっそく盃を持ち出し、『富家の娘は夫を軽んじ 貧家の娘は姑に孝なり』と延々と語りだし、先生の手前、結局夫婦になることになってしまいました。

 その娘は万事私の世話を焼いて、寝覚めの語らいにも仕事に役立ちそうな故事を教えてくれて、くれる手紙もひらがなは一文字もなく漢字ばかりで、文章も麗々しく作ります。自然と行くのをやめられなくて、その娘を先生にして、漢詩の作り方を習いました。その恩は忘れていないのですが、才能のない私からすれば、打ち解ける妻と思えませんでした。貴公子の皆様にはそんな世話女房も、先生女房も、必要ないことでしょう。何かにつけて恥ずかしい思いをするので、我が身の情けなさが思われて悔しかったのですが、それでも前世からの因縁でしょうか、情を断ち切れず…。」

「うん素晴らしい妻ですよ。」

 言い渋るので頭の中将が合の手を入れると、お世辞とは思いながら藤式部の丞は得意がって続きを語った。

「さて、ついでがあったので長らく行っていなかった後で行くと、屏風を立てて逢おうとしてくれません。浮気をしていたので嫌われたか、別れるいい機会だと期待したのですが、道理が分かっていて浮気くらいで怒るような女ではありませんでした。

『長い間病気だったので、極熱の薬草、ニンニクを食べました。臭いのでお会いできません。お会いできなくてもできる御用はいたしますので、お申し付けください。』

 と堅苦しく言います。返事のしようがなくて、『分かりました』と言って出ようとすると、私の興ざめな様子が伝わったのでしょう。

『このにおいが消えたらお越しくださいませ』と大きな声で言うので、逃げるのはかわいそうですが、いるのはくさいので、

『クモの動きで私が来るのは分かっただろうにニンニク臭いとは』と言いながら逃げると、


『逢う事の    お会いすることが

 夜をし隔てぬ  一夜も隔てないような

 中ならば    仲だったなら

 ひるまもなにか ニンニク(ひるま)がどうして

 まばゆからまし 恥ずかしかったりするでしょうか』


 さすがに賢女らしくそれはそれはすばやい返歌でしたよ。」


 と落ち着いて語り終えると、一同は「嘘だ」「そんな女がいるわけない。そんなだったら鬼といる方がまだましだ。風情がない」と非難した。

「もう少しましな話をしてくれよ。」

「これ以上の珍しい話がありますか。」

 と平然と座っている。



「女性は返歌が素早くできなければなりませんが、これも時期をはずしたことを言うと興ざめですし、漢文の素養も少しはなければなりませんが、しっとりした歌の方がふさわしい時に難しい漢文を詠みかけられても困りますしね。

 何もかも承知していて、10知っていても知らない顔をして、ふさわしい時にだけ1か2を言う。これがよろしいですね。」

 左馬の頭は言った。それを聞きながら光源氏の胸にはそれができる女性の姿が思い浮かんで苦しかった。藤壺の女御のことを考えつつ、くだらない話をして、夜は明けていった。



 左大臣が気をもんでいらっしゃるだろうと、夜が明けると源氏は左大臣家に向かった。

 館の雰囲気、人の様子、きれいで乱れたところがなく、気高い。「こういうのが左馬の頭が言った『頼みにできる様子』と言うんだろうな」と思いはするが、葵の上が美しくファッションにも非の打ち所がないが、すきがなくて親しみが持てないのがつまらなくて、光源氏は女房の中納言の君や中務などに冗談を言いかけ、自分も着崩れて楽しんでいた。

 光源氏が来たと聞いて左大臣があいさつに来たが、光源氏がくつろいでいるので遠慮して屏風の陰で話した。

「暑いのに。」

 と言うと、みんな笑った。光源氏は脇息(ひじ掛け)に寄り掛かって、のんびりと過ごしている。



「今夜は中神の内側がふさがっております。」

 女房の一人が大臣邸が方塞ぎで縁起が悪いことを告げた。

「しまった。いつもそうだったね。しかし二条邸も同じ方角だし、方違えできないから。気分も悪いし。」

 そう言って寝ようとするのを、女房達は真剣に止めた。

「縁起が悪すぎます。」

「親しくしている紀伊の守の屋敷が北の方にあります。このところ庭に水を引き入れて涼しくしております。」

 と、方違えを勧めた。

「それがいい。気分が悪いから、牛車を乗り入れられるところがいい。」

 源氏は承知した。方違えできる女性の家はいくつもあるが、左大臣の耳に入って、「方違えの日にわざわざ来たのか。最初から出ていくつもりだったのか」と恨まれないですむようにしたのである。


 紀伊の守に申し入れると、

「父の伊予の介(伊予の次官)のところでも物忌みがあって、女房達も一緒に方違えに来ております。人が多すぎてご無礼かと…」

 うんぬんかんぬんの婉曲な断りの返事が来た。

「それがいい。その女房達の几帳の後ろに入れてくれ。旅寝の夜は、女性が近くにいる方が寂しくないからね。」

「それは本当によい御座所で」

と、女房達は使いを走らせた。紀伊の守はいい顔をしなかったが、光源氏が相手ではしいて断ることもできない。

 光源氏は数人の友だけを連れて、お忍びで方違えに出た。お忍びだからと左大臣にも挨拶はしなかった。引きとめられるのが分かっているのである。

 急な話だと迷惑がる紀伊の守に、東の寝殿を空けさせて、そこを光源氏が滞在できるように御座所を整えた。その部屋はふすまで仕切られた、庭に面した外側の小部屋だった。

 庭には水を巡らし、柴垣、前栽、なかなかの風情である。

 風は涼しく、虫の音もまばらに聞こえ、蛍が飛び交う。人々は渡り廊下の泉の前でお酒を飲み、主人はごちそうの手配に走り回っている。光源氏はその様子をのどかに見回りながら、「中流階級と言うのはこれだな」と思った。どこかに中流階級のすばらしい女性がいるはずだ。

 西の寝殿から、衣擦れの音がした。忍び笑いも漏れてきて、わざとらしく誘うような気配がするが、紀伊の守がやってきて、「不用心だ。」と言って、格子を下ろしてしまった。中では火を灯したので、明かりが格子の隙間から漏れているが、のぞき見のできるすき間はどこにもない。聞き耳を立てていると、近くで女房達が集まっているらしく、話が聞こえた。

「おまじめそうで、高貴なお身分だけれど、もう奥様が決まっているなんてさびしいわ。けれど、見えないところで、ずいぶんと遊んでいらっしゃるそうよ。」

 これは自分の話に違いないと光源氏は思った。こんな時に、絶対漏れてはならない自分と藤壺の女御との秘密がうわさされるのを聞いたらと思うと、ぞっとしたが、そんな深刻な話ではなく、兵部卿の姫君に桔梗を贈った時の歌を間違えて話しているのを聞き、ほっとして盗み聞きを続けた。

(歌を詠みがちで気も抜きすぎだ。こんな女房では、女主人もしれているな。)

 光源氏は自分の部屋へ帰った。


 紀伊の守がやってきて、灯篭を掲げて部屋を明るくし、もてなしに努めるので、源氏も果物だけを口にした。

「几帳の後ろに寝かせてもらう話はどうなったのだ。女性がいなくてはもてなしも不十分だろう。」

「何がよいのやら、分かりかねます。」

 紀伊の守はかしこまって光源氏のご用が済むまで控えていた。

 控えているだけでなく、この機会に覚えをめでたくしていただこうと、一門の子供たちを全員呼び集めて、全員でお世話をした。

 食事がすむと光源氏は端の方の仮の御座所で横になるので、お供の人々もみんな静まった。

 居並ぶ子供たちを見ると、宮中ですでに殿上童として仕えていて見た顔もあるし、紀伊の守の息子も、伊予の介(次官)の息子もいた。顔つなぎこそ、何よりの宿の礼であると光源氏は心得ていたので、一人一人の素性を聞いて顔を覚えた。その中に、高貴な顔立ちをした12,3歳の子供が一人いるのを、光源氏は目にとめた。

「どちらの子供か。」

「亡くなった右衛門の督(従4位下)の末の子で、とてもかわいがっておりましたが、幼くして頼りをなくしていたのを、姉の縁でこちらで世話をしております。学問の才能がないのではないのですが、殿上童を望みながら、まだできないでおります。」

「その姉が伊予の介の妻で、そなたの継母だね。」

「さようでございます。」

「若い母親を持ったものだ。帝もお聞きになって、『宮仕えに出るという話はどうなったのか』と仰せだったぞ。世の中は分からないものだな。」

 年寄りのような意見を述べると、紀伊の守もしみじみと言った。

「どうなるか分からないのが世の中でございます。今も昔もそうです。中でも女の運命は、本当に水に浮いた木切れのようなもので、あわれなものです。」

「伊予の介は妻を大事にしているのか。主人のように尽くしているだろうな。」

「そうなります。まるでわが主とでも思っている様子で、年甲斐もないと思って私たちはみんな不承知なのです。」

「そうだとしても、伊予の介はそなたのように似合いの若い者に妻を下げ渡しはしないだろう。あの介はなかなか洒落もので気取っているよ。」

 そう話しながら、話のついでに光源氏は尋ねた。

「どこにいるのだ。」

「皆は召使の部屋に下がらせました。」

 酔いが回って、周りのものは皆すのこの上に横になって寝た。



(一人寝はつまらないな。)

 光源氏が眠れずにいると、北のふすまを開ける人の気配がした。

(例の若いのに年寄りに嫁いだ伊予の介の妻かもしれない。気の毒だ。)

 起き上がって気配に耳を澄ますと、伊予の介の妻の弟の声がした。

「もしもし。そこにいますか。」

「ここに寝ています。お客様はお休みになりましたか。近すぎると思ったけど、思ったより遠いのね。」

(声が似ているから姉だ。あれが伊予の介の妻だ。)

 眠たげなしどけない声を聞いて、光源氏の胸は高鳴った。

「廂の間でお休みになりました。うわさに聞いたお姿を拝見しましたよ。素晴らしいです。」

「昼間なら見たかったけれど。」

 と眠たげに言って、ふすまを閉める。

(もっとよく話を聞いたらどうだ。僕の話なんだぞ。)

 光源氏は悔しく思った。

「私は外で寝ます。真っ暗だな。」

 弟は火を掲げた。

「中将の君はどこに行ったの?一人では不安だわ。」

「召使棟へお風呂に行っています。『すぐに戻ります』と言っていました。」


 人がいなくなってから、ためしにふすまの掛け金を開けてみると、内側からは締めていないらしかったらしく、簡単に開いた。中は真っ暗で、入り口に几帳を立てて明かりが漏れないようにしてから火をつけると、中はごたごたと唐びつがならんでいて歩きにくいのを分けて入ると、小柄な女性が一人で寝ていた。お風呂から帰った侍女だと思っていたが、光源氏が上にかかっている着物を押しやると、さすがに気が付いてはっとした。

「中将をお呼びになりましたので、思いが通じてわたくしのことを呼んでくださったかと思いまして。」

 光源氏も中将である。女は物の怪に襲われたような気がして、「あ」とおびえた声を出そうとしたが、顔に着物がかかっているので声にならなかった。

「軽い気持ちで来たとお思いでしょうが、違います。長年お慕いしてきた心の内を申し上げたくて。こんな機会を待っていたのです。『浮気心ではない』と思ってください。」

 柔らかい物言いで、鬼でもなだめられそうな優しさで、「人が来ています。誰か来て!」と叫ぶこともできなかった。

「人違いでしょう。」

 女は苦しい息の下、情けなさを押し殺していった。今にも消えてしまいそうな苦し気な様子が可愛いので、光源氏は女を抱き上げた。

「間違えようもない思いなのに。思い間違いだなんて、辛いことをおっしゃいますね。けしからんことなど考えてはいません。思いのたけをすこしお話ししたいだけです。」

 小柄な体を抱き上げ、ふすまから出そうとすると、お風呂上がりの中将の君とばったり出会った。

「おや。」

 中将の君は驚いたが、その時顔に香がふりかかって、「これは光源氏に違いない」と、相手の身分が分かってぎょっとした。

 普通の身分の者なら無理やりにでも引きはがすが、それも大騒ぎして人に知られてしまうのはよろしくない。

 おろおろしてどうしていいか分からないまま主を抱えた光源氏について行ったが、彼は奥のふすままでたどり着くと、「夜明けになったら迎えに来るように」と言ってぴしゃりと戸を閉めた。

 女は使用人が何と思うかと思って情けなくて仕方がない。

 二人きりになると、光源氏はいったいどこから出てくるのかと思うような優しい言葉を滝のように浴びせかけたが、女はその言葉に酔ったりはしなかった。

「私はつまらない身分のものかもしれません。ですがこんなご無体をなさったお心が、深いとも思えません。」

 そう言って悲しい情けないとしか思っていないのを、光源氏はかわいいと思った。

そうして再び誓いの言葉、愛情の長を山のように浴びせたが、弱弱しい外見と異なり、女の心は折れなかった。光源氏のことを好きだと思い、こんな頑なな態度をとる女を情け知らずの冷たい女だと思われるだろうと辛く思いながら、それでも頑なな態度を崩さない様子は、しなっても折れないなよ竹のようだった。最後には泣き出すのだった。

 光源氏はその苦悩を見て気の毒に感じるものの、「この女性と他人のままで終わっていたら後悔していた」と思った。


 言葉を尽くすのをあきらめて光源氏は恨んだ。

「男女の仲をご存じないわけではあるまい。このような機会を持てたのも、前世からの縁です。どうしてそんなに冷たくなさるのか。つらいです。」

「昔の夫の定まらない身の上でこのような情けを頂戴したのでしたら、私に対してあるはずがないと分かっていても、お心が長く続くかもしれないと思って望みを抱いたでしょう。ですが夫のある身で、このように仮の一夜の情けを思うと、わが身が情けないのです。『それをだに 思う事とて 我が宿を 見きとな言いそ 人の聞かくに(古今集:どうぞ私のことを思ってくださるのなら、私の家に来たことがあると人の耳に入れてくださいますな)』」



 夜が明けて、鶏が鳴いた。

「よく寝たなあ。車を出せ。」とお供のものは言うし、「女性の方違えならともかく、そんなに急いでお帰りにならなくても…。」と伊予の守は引きとめている。

 光源氏はいったんは女を放したものの、手紙をやることも難しく、また会いに来ることも難しいのを思って、胸が痛くなって引き戻した。

「つれないのを恨みたいのに、空は明けて鶏は早く起きろと急かす。」

 女は自分の身分が不釣り合いであることと、こんなことが夫にばれては、普段は嫌だとしか思えない夫だが、もしかして夢にでも見たのではないかと気が気ではなく、光源氏との身分差を考えれば光源氏が十分すぎるほどやさしくしてくれていて、愛情があるのかもしれないと考えつく余裕はなかった。

「我が身の辛さを考えているうちに夜が明けて、鶏とともに私も泣いています。」

 そしてふすまの手前まで、光源氏を見送り、ぴったりとふすまを閉めた。

 光源氏は帰る前に屋敷を振り向いたが、浮気な女房たちがのぞいている様子しか見えなかった。何とかこのつれなさを思い知らせる手紙でも送りたいと思いながら、彼は自分の家に帰った。



 屋敷に帰っても、女のことが思われた。

(二度と会えないと思うと私もつらいのだ。ましてや向こうはもっとつらいだろう。)

 そしてこうも思った。

(あれが話に出た「生まれは高貴ではないが優れている中流階級の女性」だろう。特別の美人ではなかったが、なかなかだった。さすがに左馬の頭の話は本当だ。)

 左大臣邸に滞在を続けながら、女と切れてしまうことが、残念でならなかった。

 彼は紀伊の守を呼び出した。

「衛門の督の息子だが、可愛い顔立ちをしていたから、身近で使いたい。帝に申し上げて宮中にも出そう。」

「小君ですね。ありがたいお言葉でございます。姉に申し上げてさっそく。」

 女の話が出たので光源氏はドキッとした。

「その姉なのだが、夫との間に子供はいないのか。」

「おりません。宮仕えをするという親の意志に背いたとかで、不満に暮らしているようです。」

「気の毒だな。ほんとに美人なのか。」

「そのように聞いております。」


 5,6日ほどして、その弟の小君が光源氏のもとにやってきた。これで手紙が出せる。

光源氏はさっそく自分の部屋に入れて、親しく語らい、手紙を預けた。子供なので深く考えずにそれを姉に届ける。

姉は情けなくて涙が出た。

弟の目を気にして、顔の前に隠すようにして手紙を広げると、


「見し夢を     この間見た夢が

 あう夜ありやと  現実になる夜はないかと

 嘆く間に     嘆きながら

 目さえあわでぞ  そんな目にあうこともなく

 頃も経にける   しばらくたちました

眠れる夜もないから夢を見ることもできないのです。」


 見事な美しい文字で書かれた手紙を読んでも、身分の隔たりと待つこともできないわが身の哀れさが思われて、泣きながらつっぷした。


 翌日、小君は光源氏に呼び出されたので、姉のもとに行って返事を要求した。

「このような手紙を見る人はいませんと言いなさい。」

「間違いのないように届けよとおっしゃったのに、そんな返事はできません。」

 それでは弟にも事情を話したのだと思い、姉はますます絶望した。

「ませたことを言って、ならば行かなければいいでしょう。」

「宮中に出仕させてくださるとおっしゃっているのに、行かないようにしろって言うんですか?」



「昨日は一日中待っていたのだよ。返事はどうしたのだ。」

 光源氏に言われて、小君は返事をもらえなかったことを報告した。

「頼みがいのない。それでは次の手紙だ。」

 光源氏はあの女性ともう一度逢おうと思ったら、この子供を味方につけておく必要があると思った。

「お前は知らないだろうが、お前の姉とは昔からの関係なのだ。しかし伊予の介が言いよると、そちらのほうがあてにできると思って、そちらの妻になってしまった。しかしお前は私を頼りにするんだよ。伊予の介は長くはないから。お前のことは私の子供と思って世話をする。次は間違いなく届けておくれ。」

 つい先日はじめて会ったのだが、するするとうそをついて、光源氏は次の手紙を渡した。このそつのなさは女性の口説き方にも生きている。

 

そうして手紙を届けさせる間も、光源氏は本当に子供のように小君に目をかけた。

どこにでも連れて歩くし、自分の裁縫師に命じて立派な衣装も作らせた。姉の家にいるときも、美人の継母に下心のある義理の息子の紀伊の守が、小君のご機嫌を取ってくれたが、ここまではしてくれなかった。小君はすっかり光源氏に心酔して、彼の味方になり、姉をせっついた。

姉は怒涛の手紙攻撃に、ほだされないわけではなかった。暗闇の中でも並の人とは違っていた光源氏の様子が思い出されたが、子供の小君に返事を預けてうっかり夫に知られるようなことがあっては困るし、自分の身分も忘れたわけではなかった。

「素晴らしい方だったからといって、それが何になるだろう。」

そう思って返事は出さなかった。

一方光源氏は恋しくて恋しくて、この女のことばかり考えている。苦しんでいた気配の哀れなことも思い出されて、何とかして逢いたいと思うが、「人目の多いところで逢うわけにもいかない。もしばれたらあの人が困るだろう。」

 そう思って機会を待った。



 ある日、宮中に何日も詰めた後、紀伊の守の方角に方違えに行けるときを選び、左大臣家に行くふりをして途中で方角を変え、紀伊の守の家に突然訪れた。

「遣水のおかげだ。」

 紀伊の守は改修して涼しくなるようにしたことを大喜びした。

 光源氏はもとから女に会うつもりで、小君にもそう言い含めておいた。別に言われたわけではないが、源氏が何をしに来たのか、女にも分かった。

(もう一度お会いしたところで、夢のような時間が増えて、嘆きが深くなるだけだわ。)

 部屋で待っている気にはなれず、召使の中将の君の部屋に隠れた。

 一方小君は夜になると、光源氏に言われて姉を探し回ったが、見つけられず、ようやく召使の部屋で、召使たちの間で寝ている姉を見つけた。

「こんなところに隠れているなんて。源氏の君が私のことを頼りないと思われるじゃないですか。」

 小君は泣いて抗議した。

「こんな不埒なお使いをするなんて。子供が恋愛の取り持ちをするのは悪いことなのですよ。源氏の君には『気分が悪いので召使に腰をたたかせています』とおっしゃい。人に見られたら怪しまれるから、早く行きなさい。」

 そう言いながら、『もう中流の家の者と決まっていない身で、親の家にいるときで、たまのお越しでもお待ちできる身の上だったら、どれほど幸せだっただろう。こんな風にはねつけるのを、恨んでいらっしゃるだろう』とひどく心乱れたが、『それでもこういう運命だったのだから、嫌な女だと思われて終わるのがよい』と無理に心を決めた。


 光源氏は小君がうまくやれるか気がかりで、横になって便りを待っていたが、そこに「だめでした」というしょんぼりした少年が帰ってきた。光源氏は女のあまりの強情ぶりにあきれてしばらく言葉が出てこなかったが、手紙をやった。


「帚木のように いるくせに逢ってくださらない。(「古今集:園原や 伏屋におうる 帚木の ありとて行けど 逢わぬ君かな))

 申し上げる言葉が見つかりません。」


 女は眠れずにいて、すぐに返事を書いた。

「数ならぬ身の帚木は、生まれの卑しさにいたたまれず消えてしまうのです。」


 小君は源氏の君のことが心配で、姉の気を変える方法はないかとうろうろしているが、人に見られると叱られて、返事を持って帰った。

 光源氏は返事を読むと腹が立ったが、手紙から立ち上るどこか人と違っている気配を思うと悔しくて、

(こういうところに惹かれたのだ)

と思いながらも残念でしようがなかった。

「姉君の隠れている場所に連れていけ。」

「人が大勢いて、とても無理です。」

「よし、それではお前がここにいなさい。」

 光源氏は姉とどこか面影の似ている小君を傍らに寝かせた。光源氏のことを心から崇拝している小君は、強情な姉よりもよほど素直だった。

 こうして小君は姉の身代わりになってしまったが、帚木の姉が光源氏を振りぬいたら、源氏の心遣いも終わってしまっていた、いや怒れる光源氏はむしろ小君の将来をつぶしてしまったかもしれないことを考えると、この処置は小君にとって、これからもある程度源氏の好意を当てにできるという点で、いいことでもあった。




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