源氏物語

白居ミク

桐壺


 かつて大勢の美しい女性が華やかさを競う中で、一人だけ特別に帝に愛された女性がいた。

 身分は后より一段低い更衣であった。血筋も皇族でも大臣の娘でもなく、大納言の娘に過ぎなかった。しかもこの父親はすでに他界しており、後ろ楯になる人はいなかった。しかし帝はこの女性のために、他の女性を顧みなかった。彼女は普通の幸せを捨てて後宮に来た女性たちと、その後ろ楯となって応援する女性の一族の顔を丸つぶしにした。この恨み妬みは露骨に態度で示された。後ろ楯の父大納言がいなかったからである。桐壺院に部屋をもらっていたので、桐壺の更衣と呼ばれた。

 身分の高いものも、低いものはなおいっそう、この女性を恨み、嫌がらせをした。歩けば悪意ある視線と囁きが交わされるというだけではなかった。更衣の部屋は帝の清涼殿から遠く離れた桐壺邸にあって、后たちは夜、更衣が清涼殿に呼ばれて上がるのを聞いた。帝に毎晩呼ばれるので、妬まれて、通り道に面した部屋の后たち女房たちは、汚物のたまったおまるを廊下にひっくり返して更衣一行の衣装のすそを臭くしたり、廊下の前後の扉を閉めて立ち往生させたりした。こうした嫌がらせは更衣の神経をどんどん参らせた。

 そればかりではない。このことは表の朝廷でも問題にされた。後宮の后たちは、皆大臣の娘か姉妹であった。彼女たちは寵愛を受けるために後宮に入り、寵愛を受ければ一門は朝廷で一目置かれて幅をきかせられるし、あわよくば皇子を天皇に立てて摂政関白に、と思うからこそ大金を投じて后を盛り立てている。この愛情合戦は大変に政治的な問題であり、帝のえこひいきはとても見過ごせない議題だった。廷臣たちは楊貴妃やその他の傾国の美女を引き合いに出して上品にののしった。

 夜呼べば次の日の昼まで何かと用事を言いつけて側に置くし、管弦の遊びや風流ごとがあると、またそれにかこつけて更衣を呼んだ。このために更衣は、女官のように見られて、いっそう低く扱われた。帝はついに、すぐに行き来できるように、自分の居所の女房を一人追い出し、その部屋を桐壺の更衣に与えた。追い出された女房がさらに悪い噂を広めたのは言うまでもない。

更衣はそんな悪意ある嫌がらせを甘んじて受けた。帝に言いつけようとは思わなかった。更衣の一門はとても弱かった。弱いからこそ叩かれるのである。彼女には寄る辺のない年老いた母と、政治の世界に足を踏み入れたばかりの若輩の兄と、彼女に前途をかけて、精一杯尽くしてくれる召し使いたちがいた。告げ口しようものなら類が及んで、自分たちの土地も身分も脅かされてしまうだろう。黙っていなければ平和が保たれない。勝ち目のない争いを仕掛けるわけにいかなかった。できることはただただ腰を低くして逆らわず、どんな嫌がらせもできるだけ避けられるように、常に神経を張りつめていることである。帝も知ったところで、何もできない。何もできない帝は、更衣が耐えるに任せたいということを、更衣は分かっていた。だから毎日会いながら、二人の間で、その事が話されることはなかった。更衣はただひたすら帝を頼りにして宮中での生活に耐えていた。そんな更衣を、零落した実家は必死に応援し、儀式の際にも、恥ずかしくない衣装を整えた。更衣とおつきの女房達は大貴族が後ろ盾についた他の后たちにもひけを取らなかった。それでも人前に出る更衣は心細げに見えた。

 何もかも時間が解決してくれるはずであった。今は若輩の兄も、経験を積んで大臣になれば、おいそれと更衣をいじめる者はいなくなる。それに更衣は何にもかえがたい者をもたらした。男の子である。彼女は皇子を一人産んだ。それも玉のように輝く、素晴らしく可愛い子で、帝は更衣の息子を溺愛した。亡き父も望んでいたことであるが、この子が皇太子になりさえすれば、周りの人の態度は一変するのだ。年上の、最初の后である弘徽殿の女御には、すでに男の子ができていたが、帝は右大臣の娘である弘徽殿の女御の息子は義理で通り一遍の可愛がり方しかしなかった。皇太子にも立ててはいなかった。このことが右大臣と弘徽殿の女御のさらなる怒りを招いていじめに拍車をかけていた。

 3歳の時の袴着の儀式で、帝は腹違いの長男にはしなかった、ぜいを尽くした儀式を行った。恨みを買ったのはもちろんだが、このときは子供のあまりの可愛らしさに、宮廷中が妬むのをやめてその子に肩入れしそうになったほどである。これほどの皇子を産んだからには、待っていれば、更衣の立場も固まり、家運も上を向くはずであった。しかし、更衣はそこまで強くなかった。やがて彼女は起きている日の方が少ないような、病がちの体になっていた。

 皇子が袴着を済ませた夏、更衣は病に倒れた。

 いつもとは明らかに様子がちがい、彼女は今にも死にそうな苦しみを見せたが、帝は「いつも病気勝ちだから」と、更衣を離そうとしない。更衣の母親が泣きながら頼んで、やっと「里帰り」が許されたが、今度は手車を入れてもいいという許可がでない。手車に乗せるには帝の宣旨が必要なのにそれが出ない。小細工をしてまで帝が更衣を手離そうとしないのには、帝なりの理由があった。本当に死ぬとしたら、もう二度と更衣には会えない。帝はおいそれと宮中から出ることはできないし、死の穢れを持ち込むことになるから、臨終には立ち会えない。つまりこれが最後なのだ。唯一の希望は、更衣が帝の愛の力で力を取り戻し、このまま持ち直してくれることだが、一向によくなる気配がない。

 更衣の母も兄も気が気ではない。この時代、病気でも医者は呼ばず、代わりに僧侶を呼んで神頼み仏頼みをするので、方々の寺社に祈祷を頼み、死に物狂いで祈らせているが、できれば実家に連れて帰り、間近で徳の高い僧侶に祈ってもらいたいのである。それに、宮中でいじめられているせいで病気になっているのだから、離れた方がよくなるかもしれないのは、帝以外の誰にでも分かることだった。あえて言うなら、帝にも薄々分かっていた。それなのに、日本で一番位の高い男が、だめだと言うのである。

 母と兄は、万一に備えて皇子を置いていくことにした。母の死という不安定な時期に死の穢れがついたと言われるより、宮中にいる方が、皇族の立場が守れると考えたからである。どんなささいなことでも心が折れそうなくらい悪く言われる原因になるので、一族は最後の頼みの綱を守ろうとした。母親と兄の心配は的中した。

 わずかに5日のうちに、更衣の容態は悪化した。そうなって帝も手車の宣旨は出したが、今度は更衣の部屋に入ったきりで出ていかない。側を離れると、更衣の身内が連れ出してしまうかもしれないので、帝は片時も更衣の側を離れなかった。美しい更衣のやつれた顔を見て、手を握っては返答を求めて話しかけ、更衣のわずかな体力をますます奪うのだった。

 帝が出ていってくれないと、身分の低い更衣は出て行けない。更衣の兄が、丁重な中にもいら立ちをにじませて帝に言った。

「もう祈祷の準備が整っております。」

「ああもう行ってしまうのか。」

 出ていってしまうのかと言いながら、帝は出ていこうとしない。もう何時間も同じやり取りを繰り返しているのだった。しかしようやく分からず屋の帝にも、このままここにいれば更衣は死ぬだけだということがはっきりと分かる時が来た。

「本当に私のそばから離れたいのかね?

 私たちは来世でも夫婦になろうと誓ったではないか。死ぬときも共にいよう。」

 帝はこれこそ最後と思って言った。

 更衣は歌を詠んで答えた。

「かぎりとて わかるる道の 悲しきに

 いかまほしきは 命なりけり

(これまでですと お別れすることは 悲しいのですが 行って生きたいと思う 命なのです)」

 この他にも言いたいことがあるらしく、更衣は帝の目をじっと見つめた。

(皇子のことが心残りなのだな。皇太子になるまで生きていたいと申すのか。)

 壁に耳ありの宮中で、また悪口の種になるので、余計なことは言えないが、言葉にしなくても帝にはひしひしと伝わった。帝も何も言わなかった。更衣が望んでいるから表立って口に出さなかったが、皇太子になるのは弘徽殿の女御の息子だった。無理をして皇太子に立てても、宮廷の実権を握るのは弘徽殿の女御の父親なのだから、潰されて終わるだけなのだ。

 だから帝は何も言わずにその場を離れた。

 帝がその場を離れたので、召し使いたちは急いで更衣を実家へと運び去って行った。

 帝は一睡もせずに知らせを待っていたが、その夜の深夜に更衣が生き絶えたという知らせが届いた。



(皇子を皇太子にしようなどと思わず、陰口も嫌がらせも気にせずに、桐壺の館の片隅で私にこれだけ愛されていることに満足して、共に白髪の生えるまで、暮らしていればよかったのだ。)

 そう思いながらも、帝は更衣を死なせたことを、激しく悔やんだ。

 悲しみに沈んで日を送り、他の女性のところへも行かず、更衣が消えたことを喜んでいた他の后たちをがっかりさせた。

 明けても暮れても更衣の姿を見たいと思い、夜は夢で、昼は幽霊でもよいから近くに

いてほしいと願ったが、何も出てこなかった。女房たちを侍らせ、更衣の思い出話をさせたり、更衣の上手だった曲を弾かせたりしてみせたが、更衣の美しさ、愛くるしさに近づく者はなく、かえって空しくなるばかりだった。

 暗闇を見つめながら更衣の面影を思い浮かべるが、そこには生き生きとした気配というものがなかった。

 人が死ぬとしばらくはその人の気配を感じるものだが、ずっと宮中を出たがっていた更衣は自由になるとすぐに好きなところに飛んでいき、帝の側には気配のかけらさえも残さなかったようだった。

 忘れ形見の息子に会いたかったが、息子に限らず、更衣のゆかりの着物や家具にいたるまで、いつのまにか弘徽殿の女御に叩き出されていて、空っぽだった。

 初七日に文を送ると、老母は使いの者に、そのためにとっておいた更衣の櫛一式を与えた。帝はそれを召しあげて、一人の時にこっそり眺めた。

 帝は更衣が死んでからさらに更衣を恋しく思うようになり、相変わらず他の女性のもとで過ごすことはなく、愛情は忘れ形見の息子に向けられた。今はこの皇子だけが頼りとばかりにしがみつく老母から無理矢理我が子を引き取って、自分の手元でどの子どもよりも大事に育てた。

 女性を近づけぬまま、弘徽殿の女御には形ばかりの挨拶を欠かすことなく、更衣を死なせたあてつけであるのは明らかだった。弘徽殿の女御は確かに陰湿な嫌がらせをした。しかし、すべて言い訳がたつように、自分が一切関与していない証人を用意していた。帝が問い詰めてくれれば、堂々と申し開きができるのに、申し開きにかこつけて、日頃の不満を訴えることができるのに、帝は何も尋ねず、非難もせず、ただ腹の中で恨んでいるだけだった。

 弘徽殿の女御は帝より年上だったが、帝の初めての后であり、息子を産み、身分も高く、自他ともに認める正妻だった。自分の思うことはすべて通してきた。帝に見向きもされなくなってからは、さらに気難しく、ちょっとしたことでむやみに怒りだすようになり、更衣が生きているうちは、まだ、「身の程知らずに思い知らせる」という怒りのはけ口もあったが、亡くなってからはやり場のない怒りっぽさが周囲の者に、向けられるようになり、およそ手のつけられない女性になっていた。仕えるものは更衣のいた頃を懐かしがった。

「考えてみればそれほど悪い振る舞いをする方でもなかったですね。」

 女房達は休憩時間にこっそりと仲間内でしゃべった。



 帝は更衣の忘れ形見を可愛がり、三つの子が七歳になるまで一度も帝と后たちの間に男女の情が通じることもなく、やがて皇子のお披露目の儀式が催されることになった。

 弘徽殿の女御は昔更衣にしたごとく、歩みかた、座りかた、立ちかた、すべてにわたってけちをつけて宮中での評判を泥の中に突き落としてやろうと、張り切って儀式に参列したが、また腹の立つことに帝はお金をつぎ込んで、見たこともないほど麗々しく儀式を飾り立てていた。

 一番の実力者の右大臣の娘、次期帝の母親、弘徽殿の女御がお出ましになっているのを見て、別に指示があったわけではないが、他の参列者も子供をこそこそけなすか、あざけり笑いを浮かべようと、心積もりをしていたが、いざ子どもが姿を現すと、感嘆のざわめきが広間中に広がった。

 更衣の息子は輝くほど美しい男の子だったのだ。お仕着せの桐の地紋の浮き出した黒の直衣姿は息をのむほどに凛々しく、愛らしく、歩く姿は生きた姿絵のようで、誰も目を離せなかった。

 宮中の人間は美しいもの、高雅なものに殊に重きを置く人種である。美しくないもの、下品なものはすぐに嘲笑の対象になる。皇子にはその点、けなすところがなかった。宮廷中が皇子に恋をした。弘徽殿の女御の機嫌を取らなければと思い付く前に、更衣の息子がどれほど美しく光り輝くようだったか、人にしゃべらずにはいられなかった。宮中には、あの皇子は光り輝いていた、「光る君」だという評判が立ち、下手に逆のことを言えば、弘徽殿の女御の方が悪者にされかねなかった。

「あんなきれいな子は早く死ぬんだよ。」

 弘徽殿の女御は苦し紛れに言った。だが子どもは案に相違して大した病気にかかることもなくすくすくと育った。また頭もよくて学問もできるという噂も伝わってきた。

 そのころ、帝はようやく女性を愛することを再開した。それまでどんな美しい娘が差し上げられようと見向きもしなかったのだが、亡き更衣にそっくりだと評判の立った娘を、「いじめ殺すようなお妃のいるところへ差し上げたくない」としぶる母親を押し切り、強引に後宮に上げたところ、ようやく女性に関心を示すようになった。更衣の来る以前のように、ほかの妃たちの元へ平等に訪れ、弘徽殿の女御の元へも時々は逢いに来るようになった。彼女のヒステリーも収まって、更衣が死んでからはじめて、宮中はだんだん明るくなり始めた。

 この女性は藤壺の御殿が与えられたので、「藤壺の女御」と呼ばれた。

 以前と違うのは、藤壺の女御の方が弘徽殿の女御よりも力を持っていたことだった。有力な親類縁者も大勢そろっており、血筋も財産も弘徽殿の女御がちょっと何かしたくらいではびくともしないばかりか、帝に愛されている分、立場が上なくらいだった。嫌がらせなど、到底できる相手ではなかった。悪口さえ、おいそれとは流せない。それどころか、彼女が皇子を産めば、皇太子にはその子が立つかもしれなかった。

 宮廷は帝と藤壺の女御を中心にして、穏やかな日々を送れるようになった。ただ、帝は更衣が生きていた時ほど幸せではなかったが、その分ほかの妃たちおよびそれにつながる大勢のものが、平穏に暮らすことができた。


 そのころ帝は、光る皇子の可愛さがずいぶん威力を持っているということに気がついて、この機会に後宮の女性たちに大いに可愛がってもらえるようにすれば、この子の将来に役に立つだろうと思いついた。そこでどこにでも子供を連れ歩いて、妃たちの元へ通った。

 女性は顔を見せてはならず、一人で外出はならず、治安は確かに悪かったのだったが、部屋に閉じこもっていなければならない時代だった。身分の高い女性は他人に会うことはほとんどない。そこに、宮中のどんな女性よりもかわいい顔をした男の子が飛び込んできたのだ。帝は有力な妃たちのところへは-その妃たちが更衣をいじめ殺したのだがー有力で無視できないので必ず皇子を連れて行った。「母親が死んで寂しがっているから、可愛がってやって。」という罪悪感と母性本能を両方刺激するエスプリのきいた一言も忘れなかった。

 妃たちは、負い目と、光る君の可愛さの両方から、皇子をもてはやした。

 そうこうして過ごしているうちに、更衣の老母も失意のうちに亡くなった。

頼みの娘は逝き、頼りの息子は貴族社会に適応できず問題行動が多くて、唯一の希望だった皇子はまだ幼くて将来は何年も先のことであり、おまけに手元で育てていないので縁も薄くて「皇子の養育者です」と言うこともできず、老母は自分の寄る辺がなかった。荒れ果てた屋敷の中で不如意な売り食いをしていたが、ついに倒れて逝ってしまった。

 帝は全く気にかけなかった。更衣の母親は帝の娘だったが女房腹で身分は低く、帝から財産も分けてもらってはいない。更衣の世話がない今、生きていても死んでいても皇子には何の影響もない。何より更衣に息子を皇太子にせよなどと吹き込んだ人々を、帝は憎んでいた。

 問題はこの皇子にどんな将来を作らせてやるべきかである。

 どんなに好かれていようとも、帝位に少しでも近づければ更衣のようにいじめ殺されるのは目に見えていた。自分の財産を譲っても、地位がなければ奪い取られてしまい、結局貧しく頼りなく生きることになる。

 帝は光る皇子の取り巻き達に、事あるごとに皇太子にするつもりはないとほのめかした。

「この子は高い位の大臣になると、中国の偉い人相見が言ったんだ。きっとこの子の一門は栄えるだろう。」

 その心は、帝位につけるつもりはないが、臣下にして全力で後見し、必ず高位につけてやるという意味である。帝の取り巻きの一人に知恵者がいて、「偉い中国の人相見はこうも言ったらしい。『この子は将来太政大臣になるが、帝になれば国が乱れる』」という噂を流した。

 噂に後押しされるように、光る皇子は皇子の身分を捨てて、臣籍降下することに決まった。帝の寵愛が第一だからひょっとして、と思って皇子にひっついていた取り巻き達はがっかりしたが、見る目のあるものは逆に確かな将来を予期して、前よりも光る君に目をかけるようになった。

 名字は「源氏」、臣籍降下する皇族のポピュラーな名前である。「光る」をつけて「光源氏」となった。相変わらず帝はこの子を愛し、顔を売らせるべくどこへでも連れていった。

 どこへ行っても光源氏はちやほやされて、彼もその好意をそらさない好少年であったが、一番好きなのは、藤壺の女御だった。顔を思い出すこともできないが、幼い頃に亡くなった母にそっくりだという。

 光源氏は母にされるように可愛がってもらいたいと思い、特に姉のようなこの若い義母に甘えたが、女御は子供といえ恐ろしいほどの美貌の男の子に近づかれるのを好まなかった。母親の事を知っているので哀れに思い、季節の服やお菓子や書物など、高価な贈り物を欠かさず何くれとなく気を遣い、勉強の進み具合を尋ねるが、御簾越しである。光源氏は父帝にくっついてするりともぐり込んでしまい、女御の顔をじっと見て、膝に寄りかかったりする。女御が扇で顔を隠すと、帝は気を悪くした。

「まだ子供なんだから、隔てをなさるのはよしなさい。」

 帝は光源氏が藤壺の女御を亡き更衣と重ねていることをわかっていた。自分もそうだったからだ。


光源氏は十二歳になった。元服式をとりおこない、宮中に出仕し始め、早い人なら結婚もしてよい。平安時代では、十二歳は子どもが終わり、大人になる年齢である。

 帝は細部まで計画を練った。

 まず、すぐに良い嫁をめとらせよう。早いが、左大臣の娘が年頃で、大臣が掌中の玉のように可愛がっている。あの娘婿になれば、左大臣も大事にして、強力な後ろ盾となるだろう。弘徽殿の女御が、もう一人の皇太子になる息子にとその娘を欲しがっていたが帝は黙殺した。それに娘を愛する左大臣も、宮中で大勢の妃とともに苦労するよりも、一門に外戚をもたらしてくれなくてもいいから、将来のある、若い美しい殿方と、結婚してほしいと思っていた。

 宮中では自分が生きている限り常にそばに置く。左大臣家に住まわせず、正式な住まいも用意して、光源氏本人に影響力があることを見せつけるのだ。

 さらに元服の儀だ。・・・これは細かい所まで帝が取りしきり、サボタージュを起こされるのを未然に防ぐため、関係官庁には前もって酒や料理を下賜しておいた。懇ろに滞りなく執り行うようにという手紙をつけて、見張り役も特別融通の利かない者を選んだ。

 それでも弘徽殿の女御は邪魔したくてしようがなかった。

 不吉なことを起こしてやろうと画策していたのだが、最近は藤壺の女御に忠誠を誓う家臣が多くて徒労に終わった。



 源氏は元服の儀でみずらに小児服から正装の束帯姿に変わり、のちの宴でお酒もたしなむと、宴の後、引きさらわれるように左大臣家に連れていかれ、結婚式を挙げた。

 葵の君と呼ばれる娘は、源氏より3つ年上である。顔立ちの美しい女の子ではあるが、つんと澄ましてろくに口をきこうとも、目を合わせようともしない。皇太子の妃になる人として育てられた彼女は、帝の息子とはいえ、更衣腹の、臣籍降下した家臣風情では、気に入らなかった。

 それを補って余りある愛嬌を、娘に甘い父親が発揮していた。

 何度も光源氏の盃に酒を手ずから注ぎかけ、光源氏が気に入る食事はないかと遠国から取り寄せた珍しい山海の珍味を次々と並べ、心のこもったお世辞を述べて、「どうぞ末永くよろしくお願いいたします。」と、深々と手をついて12歳の子供に頭を下げた。

 すでに老年のこの左大臣は、子供たちのうちでも遅くに生まれた正妻腹の美人の娘を、誰よりも愛していた。財産も大きく譲るつもりであったし、光源氏のような青年にただ一人の妻として愛されるほうが幸せだと思っていたのである。それに彼の考えは、本道を外れてはいなかった。この時代、力のある男は多くの妻を持ち、子育てにも協力はしない。それが「通い婚」というものである。しかしここまで父親との縁が薄いと、自然と女親で一族はたどれるようになる。一族の子孫は一族の女性の産んだ男の子。育てるのは男兄弟。夫婦よりも、娘とその兄弟のきずなが一門を作るのである。だからその娘が高貴で力のある人の正妻として、立派な息子を産み、その息子を男兄弟が育てて仕えて盛り立てていくのは、出世の王道であったし、うまくいけば下手にどんな目が出るかわからない宮廷政治で外戚の賭けに出るよりも、よほど太い貴族になれた。

 左大臣はその場にいた大勢の息子たちに、源氏の君にお仕えするように厳しく命じた。

「息子たちも源氏の君を頼りにし、終生お仕えする覚悟でございます。」

 彼はそうやって、あちこちの女性に産ませた自分の息子よりも帝の血を享けた光源氏を立てる意思を、はっきりと表明したのである。

 彼自身左大臣の地位までのぼりつめた、そして帝に娘を差し上げてもおかしくない皇女の妻を持つ、由緒正しい大貴族であったが、娘可愛さのため、源氏がよそにいりびたらないようにできることは何でもした。

 娘を請われていたのに断ったので、代わりに4番目の息子を婿として右大臣家に差し出したが、この息子は相手を嫌って、妻の元ではなく、実家に入り浸って、源氏とつるんでいた。

 光源氏はそんな左大臣が好ましかったので、彼の望み通り、時々妻の元へ通ったが、つんとして、笑顔を見せず、すぐに気を悪くする、美しいが扱いにくい妻を、好きにはなれなかった。彼はそのことを口にしたり表情に出したりするたちではなく、生来のプレイボーイらしくいつも恋妻として機嫌を取ったが、心の中では藤壺の女御と似通うところのない妻に失望していた。

 そして一か月のうち20日間は宮中の自分の部屋で寝て、帝に仕える仕事をこなしていた。その仕事をしていると、憧れの藤壺の女御の、元服してから御簾のうちに入れないのだが、お声が時折かすかにもれきこえたり、管弦の遊びがあれば御簾をはさんで合奏する機会もあった。光源氏はそんな機会を決して見過ごさなかったし、万難を排して出席した。そのことはじりじりと藤壺の女御を追い詰めていった。

 左大臣の心遣いは、光源氏が左大臣家にいるときばかりではない。宮中にいればはるか宮中にまで及んだ。毎日のように体の空いている息子たちが入れかわり立ちかわり訪ねてきて、新しいゲームをお持ちしました、珍しい本が手に入りました。どこぞへ一緒に出掛けましょう、あちらの会に行きましょう、と誘いかけてくる。左大臣はどこまでも光源氏を自分の家の後継ぎとして扱うのだった。

 そして、「左大臣家の妻の元に来ない日は適当に遊んでいますよ。」という噂を耳に入れる者がいても、「でたらめだ」と歯牙にもかけなかった。源氏の君は12・13歳、女に興味が持てないのだ。14歳、まだ遊びたい盛りなのだ。15歳、わしも若いころは方々で浮名を流したわ。と、彼は一途に誠実に、光源氏を盛り立て続けた。彼は男孫の誕生を待っているのであり、源氏がしっかり葵の上の元に通ってくれるならば、よそで何をしようが関係なかった。季節ごとの服などもゆるぎなく整え、源氏の君の装束は、宮中でいつも人目をひく美々しさだった。儀式事にどんな美しい装束を着ているかは、宮中では出世に響く大事だった。

 左大臣は正確に物事を見抜いていた。光源氏は必ず将来大臣となって国家の中枢に立ち、権力を手にするだろう。その跡を継ぐのは、正妻の葵の上の産む(まだ産まれていないが)息子なのだ。

 光源氏は良い家に婿入りしていた。 


 

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