空蝉(うつせみ)
光源氏が愛しているのは藤壺の女御一人だけだった。
どんな女性も我を忘れさせてしまう光源氏だが、藤壺の女御の前に出ると、光源氏が我を忘れてしまう。この人と夫婦になってずっとともに暮らしていきたい、そんなことを考えてしまうのだった。
それは実行すれば光源氏にとっても藤壺の女御にとっても身の破滅だった。それだけではなく、二人が没落するということは、母の敵である弘徽殿の女御とその一派が、天下を取るという事でもあった。息子と最愛の妻に裏切られたというだけではなく、最愛の人をいじめ殺した妻の一族が栄えるのを見る、これは桐壺帝にとって死ぬほどの打撃であるはずだった。
桐壺帝は弘徽殿の女御の息子が皇太子になるのを阻もうと、ずいぶんと苦労を重ねて、自分の弟を皇太子にしていた。しかし、その弟が先に死んでしまって、それも正妻腹に女の子しかいなかったので、結局弘徽殿の女御の息子を皇太子にせざるを得なかった。弘徽殿の女御の悪運が強かったと言うほかない。
今の皇太子は弘徽殿の女御の息子(その息子だって光源氏と同じわが子のはずなのだが)、彼が帝位につくときに、できる限り光源氏の官位を上げてちょっとやそっとではびくともしない地位を築かせておかねばならない。左大臣家の婿にしたのも、その時に左大臣家の後ろ盾を作るためだ。藤壺の女御に皇子さえ生まれてくれれば、その皇子を皇太子にできるのだが、その兆しはなかった。桐壺帝も年なのだ。彼はひたすら光源氏の栄達を願って少しでも長生きしようと頑張っている。
それを光源氏が一時の狂気のような恋心に負けて藤壺の女御と関係を持ったりしたら、それが一生の恋であろうが何だろうが、桐壺帝の心づくしは台無しになってしまう。
光源氏は宮中で生まれ育った身で、表面だけのきれいごとしか聞いていなくても、その意図を汲んでいた。
しかし彼は桐壺帝の息子だった。
内裏中の女性を怒らせても、ひたすら一人の女性しか愛さなかった男、その女性亡き後は忘れ形見とそっくりさんしか愛していない、桐壺帝の息子だった。
彼が初めて藤壺の女御と関係を持ったのは、雨夜の品定めでどんな女性が一番妻としてふさわしいか、女好きたちが話し合ったあの夜の少し前のことである。
一度でも思いが遂げられたなら、忘れられるはずだった。しかしそうはならなかった。
彼はますます忘れられなくなってしまった。
しかし忘れなくてはならない。こんなことがばれないはずはない。もう関係を持ったりしてはならない。
葵の上や浮気な女房たちでは、この胸の炎を鎮めることはできない。藤壺の女御にも勝る、素晴らしい女性でなくてはならない。
彼は真剣に素晴らしい女性を探し始めた。そして中流階級に、めったに動かない彼の心を動かしてくれる女性を見つけた。妻にするには身分が不足だが、この女性が彼の自分ではどうにもならない情熱を、少し忘れさせてくれるはずだった。が、なんと振られてしまった。
胸の焦燥感を忘れるために帚木の女性と関係を持っているのに、逆にいらいらが増えた。
ある意味藤壺の女御のことをしばらく考えなくて済んだともいえる。
「私はこんなにも人から嫌われたことはない。もう恥ずかしくて死んでしまいたい。」
光源氏が小君に愚痴をこぼすと、小君は自分が悪いのだと思って泣いた。
小君は姉に似ているところがあった。手首のほっそりしたところ、髪のあまり長くないところ、小柄なところ。考えられるのは、やはり小君の姉のことばかりで、一睡もしないまま、光源氏は夜中に自分の屋敷に帰った。いつものようにぺらぺらとおしゃべりもせず、ただ腹を立てていた。それを見送りながら、言いつけられたことをできなかった申し訳なさと、自分は愛されていないのだという寂しさに小君は立ち尽くしていた。
帚木の女は手紙が来なくなったので、「怒ってもう私のことは構うまいと思われたのだ」と思ったが、それはそれで心乱れた。
「このままお手紙を頂けなくなるのは辛い。かといってこのまま何度も押しかけてこられては困ってしまうから、このくらいで止まるのがよいのだ。」
そう考えながらも、じっとして物思いにふけっていることが多かった。
光源氏は怒ったままでいるような人間ではない。彼はすぐさま別の女性をターゲットにした。そうしようとは思っていなかった、位の高い女性である。前の皇太子である、桐壺帝の弟(早死にしたが)、正妻は大臣の娘で、とても美しく、教養がある女性だと評判だった。子供は娘しかいなかったので宮中を退いて、今は少し中心から外れた六条に広大な屋敷を構えて、娘とともに住んでいる。皇太子にとても寵愛されていたという。それは単に生まれが高貴と言うだけでなく、美しさと教養と、愛情を抱かせる何かの証明でもある。帝の正妻になる方、という点で、藤壺の女御にも通じるものがある。あまりにも身分が高いので遠慮されがちだったが、この件で彼は吹っ切れた。
さっそく手紙をやり、口説き始めた。若くして夫をなくすと、恋人を持ちがちなものだ。光源氏ならその恋人に申し分ないはずだ。帝の息子で、若く美しく、元皇太子妃の恋人にとてもふさわしい。
光源氏の7歳年上で、24歳、子供を産んだ妃なので、身分は「御息所(みやすんどころ)」、六条に住んでいるので、「六条の御息所」と呼ばれている。ただし恋人になるには時間がかかるだろうと予想された。
そうしながらも、光源氏は帚木の女を忘れてはいなかった。もう手紙は出さないが、いまいましいと思いながらも、どうしてももう一度逢わないことには、踏ん切りもつかない。堅気な受領の妻のもとに手引きできるのは小君しかない。
「つらいから忘れようとするが忘れられないのだ。もう一度逢えるように取り計らえ。」
と始終言いつけるので、小君は寂しいながらもうれしくて、子供ながらに気を付けていた。紀伊の守が国に下って留守になり、女ばかりになるときがある。
「この機会です。粗末な服で、私の牛車に乗って一緒にお越しください。」
光源氏は身をやつして出かけることなど軽々しくできる身分ではないのだし、子供を信じてついて行っていいものか分からなかったが、どうしても逢いたかったので粗末な牛車に乗り込んだ。少年は牛車を紀伊の守の家に横付けした。門番も子供だと思って愛想も言わないので、光源氏を牛車ごと簡単に中に入れることができた。
光源氏を別の戸口に立たせておいて、小君は南の格子を大きな音でたたき、女房達の視線をわざと集めて中に入った。
「なぜ格子を閉めているの?」
小君は中の様子を光源氏に教えるために大きな声で言った。
「昼から西の御方(伊予の介の娘、帚木の女の義理の娘)が遊びにいらして碁を打っておいでなのです。」
光源氏はそれを聞くと、普段顔を見られない女性を見るチャンスだったので、開いた格子から御簾のすき間に入り込んだ。暑いので中の几帳は上げてあって、燈も灯してあり、丸見えだった。
二人の女性が碁を打っていて、一人は柱にもたれて顔を隠している。小柄で、濃い紅の綾織の単衣を着ている。奥ゆかしく、こちらが思い人だろうと思われた。
もう一人は藤紫の上着を暑いからと袴のひものところまでだらしなく引き下げていた。大柄で色は白く、むっちりと太り、髪は清らか、髪筋が肩にかかるラインはきれいで、目や口元は派手な感じである。伊予の介の娘は美人だと評判だったが、そのとおりである。しかし光源氏は少し下品な気がして、気に入らなかった。碁を打つ時もはきはきと石の数を数えて、頭は悪くないのだろうが、せわしなくて、落ち着きが足りない。女性の値打ちが下がる気がする。
一方帚木の女性の方は、口元を抑えてはいたけれどようやく目元と鼻筋が見えた。目は腫れぼったく、鼻筋は丸っこい。美人ではないのだろうが、全体からかもしだす品が違う。あけっぴろげに笑ったりはしない。女同士でいるときでさえ奥ゆかしい。これほど奥ゆかしい人だから、光源氏の部屋を空けるために大勢で寝ている部屋にいて顔が見られたり人近くなって言い寄られるのが嫌で、危険なのに(実際光源氏に襲われたのだが)、来客のいる部屋のふすまの奥でこっそり寝ていたわけだった。
とはいうものの、品のない方の若い美人も捨てがたい。打ち解けて笑っているところは花でも咲いたようだった。女同士くつろいでいるところなど、なかなか見られるものではない。
光源氏は目の前の光景を堪能していたが、小君が出てくる気配がしたので、自分のいた場所に戻った。姉はともかく、伊予の介の娘ものぞき見していたと知られたら自分の責任だと思って悩むだろう。良家の女性が身内以外に顔を見せたら欲望を誘発し、襲われても文句は言えないと思われている時代である。
「珍しい客が来ておりまして、そばにも寄れません。」
「なら今晩も帰すのか。そんなことをするのか。」
「とんでもありません。客が帰りましたら、考えがあります。」
光源氏はうなずいてみせた。子供とはいえ、機転もきくし、人の顔色をよく読むから、考えがあるのかもしれない。
碁が終わって、女房が格子を閉める音がした。
「小君様。どちらですか。格子を閉めますよ。」
「人々が寝静まったら私を入れるように。」
光源氏は小君にささやいた。小君もそう思っていた。姉はまじめすぎて、光源氏のような強力な方の縁を残しておくべきだという頭もないのだ。これほど思い悩んでいらっしゃるのだから頼って大丈夫だ。馬鹿正直に「行く」と言ったらまた逃げられるので、寝たら光源氏を部屋にお入れしようと思っていた。
「ところで、紀伊の守の妹が来ているそうだな。のぞき見させてくれないか。」
「格子の裏にべったり几帳を張り付けてありますから。何も見えないです。」
小君は固い声で言った。光源氏はそれ以上追求しなかった。もちろん自分の家の女性を守ろうとしているのだ。見るのはおろか、耳に評判を入れることさえ興味をそそることになるのだから。のぞき見済みだとは言うのをやめておいた。
小君は中に入ると、姉のふすまの前で敷物をばさばさと広げて上着を脱いだ。この時代は上着を掛け布団にする。
「僕はここで寝よう。風通れ。」
人々が雑魚寝する中で小君も寝たふりをしたが、全員が寝たと思うと、几帳で明かりを隠して源氏を姉の部屋に入れた。
帚木の女性は眠れずにいた。光源氏の手紙が来なくなってからと言うもの、昼間は物思いに沈んでばかりいるし、夜は眠れない。いつも「あったかもしれない人生」と「手を伸ばせばそれが届くかもしれない」という愚かな考えが彼女を苦しめている。光源氏の魅力は強烈だった。そして彼が本当に望めば、伊予の介という年寄りのもとから自分を救い出し、お通い女の一人として囲うこともできるのだ。子供でも生むことができれば、受領階級の妻でいるよりよほど恵まれた暮らしになれる。しかしそれは光源氏の気まぐれが終わらないと信じるならの話だ。もしも飽きて捨てられたなら、すぐに捨てられるのは目に見えているのだが(受領階級の妻は上級の貴族からしたら気まぐれと使い捨てのためにあるようなものだ)、おそろしくみじめな人生を送らなければならない。身寄りのない女の生活の手段と言えば、誰かの女房その意味するところは召使兼不安定な愛人、もしくは遊女である。弟も巻き添えになる。自分に仕えてくれる召使たちもだ。伊予の介の妻の地位を捨てるのは、本当に愚かな行為なのだ。
この日も帚木の女性は自分の希望を出てくる端から叩き潰す作業を続けていた。眠れるわけがなかった。
隣では囲碁の終わった後でそのまま泊っていくことにした義理の娘がぐっすり寝ている。
眠れなかったので光源氏が忍び込む音が聞こえた。かぐわしい香りが漂うだけですぐにそうだと彼女には分かった。いつも光源氏のことばかり考えているからだ。
彼女はすぐに薄絹の下着一枚で逃げた。
光源氏は女性が一人で寝ているので、安心して近寄った。外側で女房が二人寝ているが、大きな音を立てなければ何の問題もない。近寄って添い寝すると、思っていたより大柄な気がする。触ってみると、反応が繊細さに欠けている気がする。ぐっすり眠りこけているのはおかしいと思い始めると別人だった。思い続けていた人妻の方ではなく、美人で評判の娘の方だった。
娘は光源氏だと分かったが、取り乱さなかった。むしろ期待する目で光源氏を見ている。
(人違いだと言ったら、あの人に迷惑がかかる。)
光源氏はそう判断して、いつも通り適当な嘘でかき口説いた。それほど興味はないが、悪くはない。何と言っても若い美人だ。
「方違えだと言って何度もここに来たのは、あなたに逢いたかったからですよ…。」
帚木の女性と違って、娘はすっかりそれを信じた。
「人に言わない秘めた関係の方が愛情が深いと申します。親御さんは許してくれないでしょう。どうかあなたも誰にも言わず、私を愛していてください。小君を通じて手紙を送りますから。」
まだ夜中なのにさっさと出ていくとき、光源氏はそう言い含めた。光源氏が娘に手を付けて堅気でなくしたと知ったら、伊予の介は激怒するだろう。面倒である。
娘は完全にそれを信じた。
光源氏は出かけに帚木の女性がかぶって寝ていた上着をすくいとって持ちだした。
途中お腹を壊して夜中に出歩いていた年寄りの女房に気づかれそうになったが、うまい具合にトイレに行ってくれたので気づかれずにすみ、二人はほうほうの体で二条院に帰った。
光源氏は荒れ狂っていた。
「子供はやはりあてにできない」と言って怒って小君を悲しませたかと思うと、
「これほど嫌われるとは。我が身がいとわしくなる。伊予の介に劣るというのか。」と嘆いて小君をいたたまれなくさせた。
持って帰った上着は、愛しい人の匂いがした。
光源氏はそれを直接肌につけるように敷いて、ちくちく嫌味を言いながら小君も傍らに寝かせた。
眠れないので、起きて紙に書きつける。
「うつせみの 空蝉(うつせみ=セミの抜け殻)が
身をかえてける 自分の身を抜け殻に変えた
このもとに 木の下で
なほ人がらの それでもあの人柄が
なつかしきかな 慕わしく思う」
それを小君に言づけた。人違いで契った娘の方を忘れたわけではないが、このままフェードアウトすることにして、手紙は送らなかった。
小君は光源氏の手紙を大切に懐に入れて、姉のもとに帰った。
姉は小君を待ち構えていた。叱責があった。当然である。夫でも身内でもない男を寝室に引き入れたのだから。
「何とか逃げましたが、あんなことがあったら間違いなく人に疑われます。私の立場が分からないの?ただでさえ浮気をするだろうと軽く思われているのよ。私の評判が傷つけば、お前もここにはいられなくなるのよ。大体あの方はお前を何だと思っていらっしゃるの?いいように利用なさって、それでもかわいがってくださっていると言えるの?」
小君は光源氏には責められ、姉にも怒られ、立つ瀬がないが、懐から光源氏の書付けを取り出した。内心では待ち望んでいた手紙なので、すぐに手に取った。
(あの着物を持っていかれたのだ。)
空蝉は(以降彼女は空蝉と呼ばれることになるが)汗でくたびれた上着を思い出して恥ずかしさのあまり血の気が引いた。
小君が行ったり来たりするのを見て、人違いと成り行きで源氏に口説かれた娘は待ち望んでいるが、手紙はない。
空蝉は身分が違うのだからこれきりにしようと思いながらも忘れ難く、誰に見せるわけでもない歌を懐紙に書き付けた。
「空蝉の 儚い蝉の
羽に置く露の 羽に置く露が
木隠れて 木の間に隠れて見えないように
しのびしのびに 私の涙も人目を忍び
ぬるる袖かな 袖を濡らします」
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