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 積載約六〇〇キロ、定員約九名までの人を運べる無味乾燥な狭い箱の中。一定の間隔で減少していく数字を、俺は目覚めて間もない頭でぼんやりと見上げていた。


 狭い箱は目的の階下まで降りることなく、途中で停止した。階数は『3』を示している。


 ドアが開くと、冬の本番を思わせる肌寒い風が拒みようもなく流れ込んでくる。三階に住んでいるならわざわざエレベーターを使うなよと、内心、悪態をつきながら乗ってくる人物の顔を見た。


 同乗してきたのは、セーラー服をまとった女子中学生だった。艶やかでかろやかな黒髪を後頭部で括っている。彼女の細身の右手には、透明なゴミ袋が握られていた。


 視線が合うと、挨拶でもするみたいに言ってきた。


「グッドタイミング」


 俺は反射的に「バッドタイミング」と、応えた。


 幼馴染の黄倉きくらが、ニヒルな笑みを浮かべて俺の隣にたつ。彼女は手に持っていたゴミ袋を俺の腕に押し付けてきた。


「これは、どういう意味?」


「見てわからない? 私の代わりに青山あおやまがゴミを捨てに行ってて意味」


 エレベーターのドアが閉まる前に、ゴミもろとも放り出してやろうかと思った。


「自分で持ってけ」


「あー、このゴミすごく重いわー。か弱い女子中学生一人で運んでいけそうにないわー」


 黄倉はゴミ袋をエレベーターの床に置き、うざいくらいにその重さを主張してくる。


 気兼ねなく甘えてきて、それを軽く受け流せるほどの友人。それが俺と彼女の関係だった。遠慮、秘密、歳の差といった距離感は、俺と彼女の間では皆無と言っていい。だからといって、俺と彼女の繋がりは決して色恋の類いではない。周囲からはよく誤解されるが。あくまで、悪友であり、幼馴染だ。


 たとえ、俺が彼女を一人の女性として見ていても。


 エレベーターが一階に着く。ドアが開くと同時に、黄倉が床に置いていたゴミ袋を奪い取った。存外重かったので、彼女に運ばせなくてよかったと思う。


 俺の後に続いてエレベーターを出た幼馴染が茶化すように言ってきた。


「何だかんだ言って、私に優しくしてくれちゃってぇ。ツンデレなんだから」


「なぁ、ゴミ袋をフルスイングしてみたい気分ってないか?」


「どんな気分よ――って、ちょ、何すんのよッ」


 気恥ずかしさを紛らわすために、彼女が本気で嫌がらない程度の暴挙を振るう。彼女にギリギリ当たらないよう、袋の音をかしゃかしゃと鳴らして。


 それにしても、このゴミ袋の中に何が入っているのだろう? 興味本位で透明な袋の中を凝視すると、紙袋が入っていた。その紙袋の中には、見覚えのある小学生の教科書があった。中学二年生の三学期に、わざわざ捨てるようなものか?


 俺は幼馴染と肩を並べてゴミ捨て場に向かう道すがら、ゴミ袋について尋ねてみた。


「なんでこの時期に、小学生の時の教科書をなんで捨てるんだよ?」

 

 彼女は事もなげに言った。


「最近の趣味が部屋の片付けだから」


「部屋の片付けなんて、勉強をサボる時だけで十分だ」


 腑に落ちない彼女の答えではあったが、わざわざ掘り下げるべきことでもないと思い、その話はそこで打ち切った。



     *



 幼馴染の黄倉と、彼女の親友、赤木あかぎ喧嘩けんかをした。そんな都市伝説並に信じがたい噂を聞いたのは、白い息がこぼれる一月の末のことだった。


 真相を確かめるべく、昼休み、二人が所属するクラスに足を運び、赤木を教室から連れ出した。黄倉の姿は見えなかったので、とりあえず赤木から訊いた。


 赤木は、女子の中では上背があり、スポーツ女子然とした短髪が特徴である。ソフトテニス部に所属し、ボールを追って打ち返すことしか頭にないのか、外面というのをあまり気にしない。本人は怒っているわけではないと言うが、表情の変化が乏しく無愛想で、周囲からクールだとか、雪女と言われている。


 彼女を教室から階段の踊り場に連れ出し、黄倉との不和について尋ねてみると、あっさり否定された。


「別に、仲が悪くなったわけじゃないけど」


「じゃあ、なんでさっき一緒にいなかった? いつもは付いて離れず一緒にいるのに」


「アンタが来た時、あの子はちょうどお手洗い行ってたから」


 それはたぶん、本当のことなのだろう。返事に躊躇いがないことや、俺としっかり目を合わせているから信用に値する言葉だった。


 でも、何かを隠している。俺の中の直感がそうささやく。


「じゃあ、なんであいつとペアを組むのをやめたんだよ?」


 俺がここで言ったペアとは、ソフトテニスのことだった。二人はソフトテニス部に所属し、部内では一番息の合ったコンビだったらしい。


「それは……私がこれからシングルスで頑張っていきたかったから」


 曇った表情に、歯切れの悪い返答。どうも何か裏がありそうな匂いがする。


 俺が聞いた噂では、何の前触れもなく黄倉と赤木がペアを解消したという。他の部員が二人に問い詰めて、解散理由は不明。何らかの諍いがあったわけでもなく、どちらかが怪我をしたわけでもない。極めて不自然で、疑うなと思う方が難しい。


「そんな理由で納得できると思ってるのか。なぁ赤木、正直に答えてくれよ」


「そんなに気になるんだったら、直接本人に訊けばいいでしょ?」


「あぁ、訊くよ。でも、本当に喧嘩しているんだったら、赤木の口から直接あいつに言いづらいことがあったら教えてくれよ。俺が代わりに指摘して改善させる。それで、よりが戻るかもしれないだろ」


 彼女は天を仰いでため息を吐いた。何か思うところがあるのだろう。彼女の不審な言動に気づけても、心まで正確に読み解けない。


 彼女から返ってきた言葉は、意想外なものだった。


「あの子に直して欲しいところは特にない。でも、そうね、……しいて言うならアンタにはある」


「えっ、俺?」


「アンタさぁ、小学生の時はあの子のこと、苗字じゃなくて名前で呼んでたでしょ。なんで今は苗字で呼ぶの?」


「なんでって、周りの目とかあるだろ。別に特別な関係でもないのに異性のファーストネームを呼んで、冷やかしとか妬みを受けるのが面倒なんだよ」


「好きな女子なのに?」


「ただの幼馴染だ」


「ただの幼馴染が、友人関係まで干渉する?」


 今度は俺が返事にきゅうする番だった。


 俺の返答を待たず、赤木が去り際に小さな声量でこう言い残した。


「たまには、あの子の名前で呼んであげなよ」


「……検討しとく。というか、なんでそんなこと俺に言うんだよ?」


「ただの老婆心だよ」


 何だかよくわからない小難しい言葉を言い残し、赤木は立ち去った。


 赤木とこれ以上話をしても平行線を辿りそうだった。たぶん、引き止めて執拗に問い詰めても、直接本人に訊けと一点張り。


 結局、赤木から何一つ答えを得られないまま、ごまかされて、諭された。



     *



 冬空の下。俺と黄倉は共に帰路についていた。

 

 期末テストの初日を終え、まだ正午にもなっていない時刻。朝の慌ただしさが嘘のように閑散とした通学路だった。


 今は幼馴染と足並みを揃えて下校しているが、別に帰る約束をしていたわけではない。偶然、帰っている途中の道先で見覚えのあるポニーテールの女子中学生を見かけた。もしやと思い早足で近づいてみれば、黄倉だったわけだ。


 自宅が近づくにつれ、車の交通量とすれ違う通行人がますます減っていき、道幅が狭くなっていく。道沿いには、空車の目立つパーキングや、流行はやりも廃れもしていない美容院がある。また、地元民が足繁あししげく通うコンビニエンスストアがあり、壁のすすけた戸建て住宅が並んでいた。探せばどこにでもありそうな、俺と彼女が育った町並み。いつかの時代にはなかったものが存在し、存在していなかったものがあると思うと、時の流れをというものを感じる。


 幼馴染とたわいのない会話をしながら、自宅のマンションが見える所まで来た。


 ここまでの道中、思っていることを吐露しやすいよう和やかな空気を醸成じょうせいできたつもりだ。多少言いにくいことでも、ぽろっと本音がこぼれるように。


 世間話の続きをするみたく何でもない風を装い、赤木との関係に触れてみた。喧嘩をして距離を取っているのかと。


「私と木ぃちゃんが喧嘩? ないない。誰から聞いたの、そんなデマ?」


『木ぃちゃん』という赤木のあだ名を親しく言葉にし、彼女は俺の疑いをあっさり否定した。赤木とはこれまでと変わりなく懇意にしていると、一片の曇りもない笑顔を浮かべて断言した。


 ただ、ソフトテニス部でペアを解散したことについては言葉を濁した。本人曰く、大した理由ではないらしい。言葉より、本人の声色が明るくそう物語っていたから大丈夫だろう。


 俺が想像していたより、深刻な問題ではなさそうだった。所詮しょせんは噂。事実を確認してみれば、全然大したことではない。

 

 俺たちが居住するマンションの敷地内に入り、エレベーターが下りてくるのを数十秒待つ。下りてきた無人のエレベーターに乗り込み、『3』と『10』のボタンを押した。十五㎝ほど離れた点灯する二つの数字は言わずもがな、俺と彼女が住む階数を表す。


 これと言って彼女と話をすることもなく、三階まで上がり自動ドアが開く。


「あっ、そうだ。言い忘れる前に言っておくね」


「何だよ? 俺にテストの点数で負けた時の言い訳か?」


「バーカ、私が負けたことある?」


 エレベーターのドアが閉まるまでのわずかな時間。


 彼女は振り返って、まっすぐ俺の方を見てきた。


 含羞がんしゅうの色を浮かべた面持ちで。


「今まで、ありがとう」


「お、おう……またな」


 彼女の羞恥で赤面した表情を隠すようにドアが閉まる。幼馴染とは幼稚園の頃からの長い付き合いになるが、面と向かって心の底から感謝を告げられたことはなかった。得も言われぬ違和感が胸の奥から込み上げる。



     *



 エレベーターは十階に止まり、ドアが開くと冬の冷たいそよ風が吹いてきた。そのままエレベーターから下りればいいものを、俺はなぜか動けなかった。このままでいいのかと、踏み止まる。


 今さっきの普段見せない幼馴染の言動は、何かがある。詳細を確かめるべく、今から三階に下りて幼馴染の玄関の呼び鈴を鳴らしにいこうか。『3』のボタンを押そうと、人差し指を伸ばす。


 しかし、彼女の思わせぶりな発言が何でもなかったらと思うと、行動に移す気になれなかった。


 大丈夫だろう。大丈夫なはずだ。大丈夫に違いない。


 ……本当に?


 幻聴。にわかに信じがたいが、誰かの声が聞こえた気がした。ずっと昔から聞き続けていたようなその声には、願いが込められ、無念がにじんでいた。


 エレベーターに設けられた『3』と『10』のボタンを冷静に見つめる。約十五㎝しか離れていない二つの数字は、その気になればいつでも彼女に会えることを意味していた。


 だが、何者かの切実な声が訴えてくる。手を伸ばせばいつでも届く距離が、いつの間にか、どこに手を伸ばせばいいのかもわからないほど離れ離れになってしまう。そんな後悔の念が頭に流れてくる。


 何者かに自分の指を操られているみたいに、『3』階のボタンを押した。静かに休んでいたエレベーターが降下していく。



     *



『黄倉』と書かれた表札の前に立つ。


 一体、俺は何をしているだ。幻聴に惑わされ、直感で動いた自分に皮肉を言いたくなる。


 まだ逡巡しゅんじゅんしながらも、カメラが付いたインターフォンを押した。呼び出しの機械音が鳴り、数秒待つ。先程、別れたばかりの女の子の声でインターフォンが喋り出した。


「えっ、青山? どうしたの?」


 機械越しでも、彼女が戸惑っているのがわかった。そして、俺も何と答えればいいのか戸惑った。まさか、頭の中に誰かの声が響いて、お前に会いに来たとは言えない。病院に勧められるのが目に見える。


「あぁ、えっ、と、少し話したいことがあって。悪いけど少し出てきてもらっていいか?」


 俺の曖昧な呼び出しに、「ちょっと、待ってて」と、素直に応じてくれた。この間に、彼女の元に訪ねた言い訳を……。


「お待たせ」


 言い訳を考えさしてくれる時間は五秒もなかった。


 まだ着替えを済ませていなかった幼馴染が、外じゃあ寒いからと、玄関に招き入れてくれた。エレベーターで別れた時と印象が違ったのは、括っていた後ろ髪をほどいていたからだろう。


「それで、どうしたの?」


 髪を下ろした幼馴染に胸の高鳴りを悟られぬよう、適当に来意を告げる。


「さっきの言葉が気になって。ほら、黄倉があんなこと言うの珍しいから、何かあったのかって」


「あれは、その……」


 彼女は俺から視線をそらす。過去の恥部を話題にされて困ったように。そんなに恥ずかしがられるとこっちも変に緊張してしまう。


 数秒の沈黙。それを破ったのは、彼女からだった。


「誕生日、おめでとう」


「えっ?」


「えっ、じゃない。今日はあんたの誕生日でしょ。お祝いの意味でさっきはああいうこと言ったわけ」


「いや、意味がわからん」


「だ、か、ら、これまで何かあるたびに優しく接してくれたから、感謝してるんだって。あと、これからもよろしくね。はい、わかった? この鈍感」


 いやいやいや。さっきの『今まで、ありがとう』を何の事情も知らずに、誕生日祝いの言葉に解釈できるなんて無理だろ。もう二度と会うことはないからと、婉曲えんきょくに別れを告げられたという方がまだ納得できる。


 怒声交じりの感謝に理不尽を覚えたが、幼馴染からの思わぬ謝意は正直嬉しかった。


「わかった。感謝されといてやるよ」


「何よ、その上から目線。やっぱり言うんじゃなかった。というか、それだけを訊くためにわざわざ来たわけ?」


「どうしても気になったんだよ。黄倉があんなこと言うの珍しいから」


 心なしか、『黄倉』という名前で呼ぶと、不服そうな顔をされた。そして、「もう用がないなら帰れば」と、素っ気ない態度を取られる。


 名前で思い出したが、赤木から幼馴染のことを苗字ではなく、名で呼べと助言されていた。幸いここには、俺と幼馴染の関係を冷やかす連中はいない。赤木に騙されたと思って、久方ぶりに彼女の名を言って、玄関のドアを開けた。


「あぁ、じゃあ帰るわ。またな、


 今さら馴れ馴れしく名前で呼ぶなと、彼女から煙たがられるを懸念していたが、それは杞憂に終わった。


 幼馴染は、一瞬の瞠目どうもくのあと、心地よい笑みを浮かべて言葉を返してくれた。


「うん、また明日ね。正輝まさき


 明日になればまた、周りの目を気にしていつも通りの苗字で呼び合うかもしれない。彼女に特別な想いを抱いていない、ただの同級生を演じて。


 でも、この時だけは確かに、さりあとの距離が十五㎝ほど近づけた気がした。



     *



 それにしても、エレベーターの中で聞いた幻聴は何だったのか。その正体に気づいたのは、夜のとばりが下りた夕食時だった。


「ただいま」


 玄関から父、の声が聞こえた。父の声はあの時、一度家へ帰ろうとした俺に不安を煽ってきた声と酷似していた。


 父親には幼少期の頃から再三言われ続けていることがあった。根拠がなくてもいいから、少しでも気になることがあれば行動しろ。結果が出なくても、失敗に終わっても、苦杯をなめたとしても、未来の自分を後悔させないために。


 散々聞かされた失敗談にも似た父の教えを、俺はあまり好いていなかた。そんな偉そうなことをいけしゃあしゃあと言えるほど、お前は自分の言葉に恥じない努力をしてきたのか疑っていたから。立派な言葉に見合うだけの功績がなければ虚しいだけだ。


 しかし、父の煩わしい教えのおかげで、さりあとより親密になれたのは事実だ。

 

 部屋着に着替えた父が居間に来た。テーブルのイスに座り、流れていたニュース番組を退屈そうに眺めた。


「ありがとう、父さん」


「うん、何が?」


 疑問符を浮かべて俺に視線を向けてきた。


「父さんが後悔した過去を聞かせてくれたおかげで、俺は今日、後悔せずに済んだ」


 事の委細を語らずとも、それだけで父は俺の言わんとしていること理解してくれたらしい。深く追求されることなく、一言「そうか」と、応えてくれた。


「俺も、もし失敗や挫折、後悔したような経験があれば誰かに伝えるよ。その人にも、同じ道を進んで欲しくないから」


 父はどこか安心したような表情で頷いた。

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