第十一章

青年の名を呼び、朔は紙の上に指を滑らせた。

 見事な調度に囲まれた薄暗い室内で、朔はそっと息を吐いた。芙蓉は別室で休んでいる。手紙を書きたいからと言って下がらせ文机に向かい、向かったはいいが筆を手にすることなく、萌黄色の紙を見つめていた。


 そこに、一人の青年の姿を浮かび上がらせる。


(真夏)


 青年の名を呼び、朔は紙の上に指を滑らせた。


(何処に行ってしまったの)


 柳原公忠の屋敷から迎えが来て、朔は牛車に乗った。その前に見た、地に打ち伏せられた真夏の姿が、朔の胸を痛ませている。


(どうして)


 彼は共に来てくれなかったのだろう。


 朔は牛車に乗ってから今までの事を、意識の中でなぞった。


 牛車に揺られ、二日を経て柳原邸に到着した。旅の疲れや埃を落とすため、この館の女房に身支度を整えられ、食事をすすめられ、寝所に案内をされた。彼女たちは言いつけられた事を忠実に守ろうとし、朔が何か質問しようとしても笑顔で遮り、返答はしないということを無言で示した。


 食い下がって質問をする事ができないほど、疲れていた。


 父の政敵の館であるとはわかっていても、体は休息を欲し、朔はそれに従った。疲れに鈍った思考では、何事も判断が出来ない。


 そうしてゆっくり休み終えた後は、また館の女房たちに細々と世話をされ、一日が過ぎた。芙蓉の姿を見たときは、心底ほっとした。一人ではないと心強く思った。


 芙蓉も安堵したのだろう。朔の姿を見るなり涙ぐみ、二人はしっかと抱きあって、互いの存在を確認した。他の者たちはどうしているのかと、世話をする女房らに問えば、全員がふさわしい場所に配されているとの返答を受けた。


「笛を聞きたいのだけれど」


 真夏の笛を聞きたいと朔が言えば、女房は少し首をかしげ、少々お待ちくださいと去っていった。


 真夏に会えば、彼もここにいるのだと確認ができれば、父を失脚させた相手の腹中にいるという不安を、きっと払拭できる。彼の笛を聞けば、きっと心がなぐさめられる。勇気を得られる。


 そう期待をふくらませていた朔に告げられたのは、笛を扱う家人はこちらには来ておりません、というものだった。


 そんなばかなと、朔は色を失った。眉の辺りの涼やかな、りりしい青年がいたはずだと言えば、女房は首を振る。笛を御所望であれば、柳原の三男である道章様が上手の方でいらっしゃいますからとすすめられ、断った。

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