(お父様が、失脚?)

 まるでそれが聞こえたかのように、真夏が顔を上げる。一瞬、二人の目が合った気がした。


(うそよ。うそ――)


 気のせいだ。


 こっちを見てと望みすぎたから、彼がたまたま顔をあげたのを、音にしない呼びかけが聞こえたのだと、心が通じたのだと錯覚したがっているだけだ。


 そう頭の端では思うのに、朔の胸は期待とよろこびを体の隅々に広げていく。


(気のせいよ。ただの、偶然)


 偶然でも気のせいでもないと思いたがっている自分を、朔は認識していた。恋愛を拒み続けていた月日が、朔の気持ちに歯止めをかけようとする。


(彼は家人なのよ)


 それに、自分の風変わりぶりを見ているのだ。姫らしくない自分を、彼は知っている。朔の身分とつりあう官位をさずかることのできる人だったとしても、彼は姫らしい、たおやかな娘に恋文を出すだろう。自分ではない誰かに、愛おしいとつづった手紙を送るだろう。


 ずき、と朔の胸が痛んだ。それをごまかしきれず、朔は顔をゆがめた。真夏が驚いたように眉を上げる。気付かれたとあせったが、表情を戻すことが出来ない。


「姫様」


 さりげなく芙蓉が手を差し伸べた。やわらかな芙蓉の気配に、朔の胸の痛みが和らぐ。


「慣れぬ土地であちらこちらと毎日、珍しいことをなされておいででしたから、お疲れになられましたか?」


「芙蓉」


 ほっとした心地で、朔はずっと傍にいてくれる人の名を呼んだ。


(そうよ。私には芙蓉がいるわ。芙蓉さえいれば、平気)


 そう心に浮かべる朔の目の端に、案じ顔で近付いてくる真夏が映っている。


(来ないで)


 胸の中で鋭く、朔は叫んだ。


(来ないで)


 来られてしまっては、芙蓉の笑顔に落ち着きかけた心が乱れてしまう。


(来ないで)


 誰か、真夏が来ることを阻んで。


 その願いが通じたように、男がまろびつつ庭に現れた。必死の形相で、土ぼこりと汗にまみれた男が叫ぶ。


「左大臣様、失脚にございます!」


 庭に響いたその声に、誰もが言葉を失った。


 ◇◇◇


(お父様が、失脚?)


 どういうことか詳しく聞く前に、駆けつけた男は庭に倒れた。すぐに人々が集まり、彼がつかみしめていた文を取って朔に差し出す。呆然とする朔の代わりに、芙蓉が受け取った。


「さ。姫様」


 促され、体を支えられるようにして、朔は立ち上がり奥へと下がった。倒れた男が担がれ、運ばれていく。

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