かっちゃんの森

せてぃ

かっちゃんの森

 また、夏がやってきた。

 また、あの人に会える。


 頭から額へ、額から頬へ、そして顎へ、首筋へ。頭の先から爪先まで流れ落ちる汗を拭いながら、ぼくたち四人は畦道をかけた。白い入道雲と青い空の下を走るぼくたちの身体を、田んぼを渡る風が撫でて行く。べったりと湿ったTシャツを抜ける青田風は心地よかった。風の香りは田んぼの湿った土の匂いがした。真夏の日差しに蒸された香りはとても濃く、猛烈な豪雨の後を思い出させる。それはどうしようもなく強い、夏の匂いだったと、いまでも思う。

「かっちゃん、もう来てるかな」

「いると思うよ。昨日、いけやんたちが遊んだって」

「おれ、釣りの道具持って来たんだ。今年もまた教えてもらおうよ」

「え、おれはザリガニ取りたいけどな」

 ぼくは後ろに続く三人を見もせずに叫んだ。たぶん、健人も準も篤史も、ぼくの背中など見てはいなかっただろう。みんなあの人のいる水路へ急ぐことだけを考えていた。

「ザリガニ、いたっけ?」

「あの水路、いっぱいいるんだよ。かっちゃんが言ってた。穴場があるんだ、って」

「え、どこ、知らなかった」

「今日、教えてもらおうぜ」

 田んぼの中の畦道を抜けると、ぼくたちは田んぼの水路に沿って走った。水路はやがてこんもりとした山の麓へ行き着き、さらにその山の森の中へと伸びていた。

 ぼくたちは迷うことなく森へと駆け込んだ。水路の脇には獣道のような、農家のじいちゃんやばあちゃんが水路の点検に行く時だけ使う、細い道がある。ぼくたちはここまで走ってきた疲れも忘れて、その獣道を這うようにして駆け登った。

 初めだけとても急な坂道だが、少し登るとすぐになだらかな道になる。水路も坂の上では幅の広い、緩やかな流れに突然姿を変える。木漏れ日を受けてきらきら輝く水面はそよとも動かず、流れているのかどうかすら、ぼくたちにはわからなかった。森に入る前にはあった、夏虫たちの喧騒がぱたりと止み、目に痛いほどの光が木々によって和らぎ、気温さえ、がらりと変わっていた。それまで自分たちがいた世界が嘘であるように、もしくは別の世界に紛れ込んだように、森の中は静かで、涼しく、優しかった。

 ぼくたちはあの人の姿を探した。村の子どもたちの間で、『漬物岩』と呼ばれている大きな岩。その上にいつも、あの人はいた。

『漬物岩』は祖母が使っていた糠漬け石のように丸く、大きく、水路のど真ん中にあった。いまにして思えば、なぜあの岩だけ水路の中心から退けられなかったのか。きっとそこにもなにか理由があったのだろう。あの頃、ぼくたちが知らなかった理由が。

「かっちゃん!」

 水路の奥に『漬物岩』が見えると、準が大きな声を出した。浅黒く日焼けした腕をぶんぶん振って、ぼくの前に走り出す。ぼくもほぼ同時に『漬物岩』の上に人影を認めていた。

 麦わら帽子に白いランニングシャツ。膝丈の黄土色のズボンを穿いた人影は、全体に胴が長く、ひょろっとしたもやしのような輪郭だった。しかし、もやしにしては色が黒く、ぼくは毎年、その姿を見ると炒められたもやしを思い出すのだった。

 名前を呼ばれたそのもやしのような人影が振り返る。もやしの、ちょうど豆が付いている部分に顔があり、糸のように細いたれ目がこちらを見た。森の中と同じく、どこか涼しく、優しい笑みがぼくたちを見つめ、少し頷くと、片手を上げて手招きした。



 ぼくたちが育った村には、夏になると子どもたちの遊び相手をしてくれる青年がいた。

 その青年はかっちゃん、と呼ばれていた。白いランニングシャツに黄土色のズボンと麦わら帽子がトレードマーク。柔和な笑みで子どもたちの知らない遊びや、森の中の秘密の隠れ家や、水路の釣りの穴場を教えてくれる、村ではとても有名な人だった。

 ただし、誰もかっちゃんが何者なのかを知らなかった。

 おかしいのだ。ぼくのお父さんも、お母さんも、兄も、近所のお姉さんも、学校の若い先生だって、この村出身の人はみんな、かっちゃんに遊んでもらったことがある。なのに誰も、かっちゃんがどこに住んでいて、普段は何をしている人なのかを知らなかった。ぼくたちの村は都会から遠く離れた村で、住んでいる人の数だって、そう多くはなかった。隣近所、みんな顔見知りで、知らない人などいないはずだった。

 なのに、かっちゃんのことは誰も知らなかった。子どもたちが夏休みになると、田んぼに水を引いている水源の森の中に現れて、いろんな遊びを教えてくれる。それだけしか、みんな知らなかった。

 もしあの村が都会なら、そんなことは絶対に許されなかっただろう。子どもと遊ぶ不審な人物として、誰かが通報し、警察はそれに応じてかっちゃんを探し出そうとしただろう。

 しかし、あの村ではそうはならなかった。決して、誰も、詮索をしなかったのだ。まるでかっちゃんがいることが当たり前であるかのように。自分たちは彼のことを昔から知っていて、自分たちは彼のことを知らない。その全て含めて、知っている、とでもいうように。

 考えてみれば、不思議なことは他にもあった。かっちゃんは絶対に歳を取らなかった。ぼくたちが見たかっちゃんは、お父さんが見た姿と同じ姿をしていたそうだ。そしてこれも不思議なことだけれど、お父さんが大人になってから森に入っても、かっちゃんの姿を見たことはないのだという。お母さんも、遠くの街の高校へ通い始めた兄も、夏のこの時期には毎年会っていたかっちゃんに、ある時から急に会わなくなった、あれはいつからだっただろう、というのだ。兄はかっちゃんに会った最後の年を思い出そうとしたけれど、結局ぼくの前では思い出せなかった。

 あの人はね、むかーしからあそこにいるのさ。お前のおじいちゃんだって、遊んでもらったんだよ。

 昨年他界した祖母が、ぼくの質問にそう答えてくれたことがある。祖母は亡くなる一週間前まで元気で、畑仕事も熟していた人だから、記憶も確かだった。

 ——え、なら、かっちゃんって、幽霊なの?

 ぼくは驚きのあまり、祖母に質問を重ねた。思いがけず声が大きくなり、庭先で掃除をしていた母が、縁側にいたぼくたちに視線を寄越したのが見え、それがなんとなく悪いことをしたように思えて、祖母の影に隠れたのを覚えている。

 ——幽霊じゃあないよ。

 ——え、じゃあ……

 ——ええじゃあないか。なあ、耕平。ええじゃあないか。

 祖母はそれ以上、何も言わなかった。何も言わなかったが、その目はそれまで一度も見たことがないほど優しく微笑んでいて、なぜかぼくはその微笑みが、答えのような気がした。



「ほんとにたくさんいたな」

「二十ぐらいは捕ったぞ」

「かっちゃんの言った通りだったな」

 友人たちが思い思いに話す声を聞きながら、ぼくは木漏れ日を仰ぎ見た。水路の淵に腰かけ、靴を脱いだ半ズボンの足を水の中に浸していた。真夏とは思えない水の冷たさが気持ちよかった。

「耕平、かっちゃんは?」

 篤史がそう言うので、ぼくは辺りを見回した。気がつくと、かっちゃんの姿がなかった。

 ぼくたちがザリガニがたくさんいる場所を教えてほしい、というと、柔和な笑みを見せてその場所まで案内し、どんなところに隠れているか、手づかみで上手に捕まえるにはどうしたらいいのかを教えてくれた。そして一緒になってザリガニ捕りに精を出してくれていたはずだった。なのに気がつくとかっちゃんはいなくなっていた。

 どこに行ったんだろう……そう考えた瞬間、ぼくは自分のすぐ後ろに誰かが立っている気配を感じた。

 慌てて振り返る。するとそこにはもやしのような人影があった。柔和な笑みがぼくたちを見ていて、とてもほっとしたのを覚えている。

 かっちゃんは顔を傾けた。柔和な笑みはそのままで、糸のように細い目も、垂れた目尻もそのままで、ただ、優しく微笑みかけてくれた。

 そういえば、とその笑顔を見た瞬間、ぼくはあることに気がついた。

 ぼくはかっちゃんと話をしていたはずだった。言葉を交わしていたはずだった。なのにかっちゃんがどんな声で、どんな言葉で話をしていたのか、思い出せなかった。目の前の、もやしのようなシルエットを持つ男性の話声を、まったく思い出すことができなかったのだ。

 ぼくの中で大きくなったかっちゃんという存在に対する疑問は、しかし、最後まで言葉になることはなかった。それはかっちゃんの笑みが、あの時、祖母が見せた笑顔に似ていたからだ。その笑みこそがきっと、彼という存在の答えであるように、祖母の笑顔を見た時と同じように、ぼくは思った。



 かっちゃんに対する記憶は、一緒に遊んだ誰もがあいまいだった。誰もが一度は遊んだことがあるはずなのに、誰も最後に遊んだのがいつか、ということは、覚えていなかった。ぼくもそうだ。小学生の夏、毎年のように遊んでいたことは確かだったが、ぼくが最後にかっちゃんに会ったのはいつだったか、はっきりと覚えていなかった。

「ねえ、パパ。パパが遊んだ水路の森って、まだあるの?」

 二両編成の電車を降りたホームで、今年五歳になる息子が言った。ぼくの腰の下辺りでこちらを見上げる息子は、近頃めきめきと背が伸び、こうして話す言葉も大人が話すのとなんら変わらなくなってきていた。ほんの一年ほど前までは、ものによっては文章にすらなっていない会話もあったのに。

「あると思うよ」

 そう答えながら、ぼくは自分が子どもの頃の夏を思い出していた。かっちゃんの姿を思い出そうとして、炒めたもやしが頭の中に浮かんだ。爪の後のように細い目が垂れ、微笑んだ顔が思い出された。

「行ってみたいな」

 そうか、じゃあ行ってみようか。手を繋いだ息子にそう答えようとして、開きかけたぼくの口は、思いがけず止まってしまった。若い男女の嬌声が耳についたからだ。

 近年では、レジャーだ、アウトドアだ、といって、ぼくの田舎の村も、年若い人たちが足を運ぶ場所になっていた。村の経済は潤っているのだから、無視できないそうだが、果たして住民たちは心の底から喜んでいるのだろうか。もうここには住んでいない身で、自分も行楽シーズンに里帰りする身ながら、考えてしまう。

 狭いホーム上に目をやれば、ライフセーバーを彷彿とさせる、浅黒く日焼けした筋肉質の肉体を晒し、ぎらつく視線をサングラスで隠した上半身裸の青年が二人、ほとんど裸に見える服装をした女性たちともつれ合うようにして歩いている。そんなグループがいくつもいた。彼らの姿は山の中の小さな村には似合わず、ぼくは頭に描いたかっちゃんの細いシルエットと無意識に対比して見ていた。

「……あるかな」

「え、ないの?」

 かっちゃんの居場所は、もうなくなってしまったのではないか。

 結婚をして、子どもが生まれてからは、毎年こうして家族三人で自分の実家に帰って来ていた。来ていたが、これまで一度もあの森へ足を運んだことはなかった。果たしてあの森は、あの水路は、まだあるのだろうか。もしかしたら、時代の移り変わりとともに、あの場所はなくなってしまっているのではないだろうか。もちろん、あの森にいたかっちゃんも、いなくなってしまっているのではないだろうか。

「わからない」

「えー、パパ、ぼく、行ってみたいよ。ママも行きたいでしょう」

 そう言う息子に、ぼくとは反対側で息子と手を繋いだ妻は、そうね、と笑顔で頷いた。

 刺さるような日差しの照りつけるホームから、改札のある駅舎へと入る。日陰に入ると思わず深いため息をついてしまった。

 ぼくたちが子どもの頃、夏にはもっと品があったような気がする。確かに暑かった。でもその暑さにも品があった。夏の品位というものがどんなものなのか、ぼくにも上手くは言えない。ただ、人を殺すほどの灼熱ではなかったように思う。ぎらぎら、という言葉よりも、かっちゃんの柔和な笑顔が似合う、きらきらとした暑さだったように思うのだ。

 やはり、もう、ないのではないか。

 ぼくはそう考えながら、まだ自動改札ではない改札口で、毎年顔を合わせる老人駅長に声をかけた。誰もが顔見知りであるこの村では、駅長も例外ではなく、耕平君か、おかえり、おかえり、と返してくれる。

 少し世間話をして、切符を渡し、駅を出た。駅舎の屋根が作る日陰の向こうには、陽炎が立ち上る小さなバスロータリーがあり、その向こうにはもう田園風景が広がっている。

 駅に向かって、青田風が吹いてくる。日陰でその風は、畦道を駆け抜けた子どもの頃と同じように、Tシャツを心地よく撫でて行った。真夏の日差しに蒸された田んぼの、湿った土の香りが届き、夕立の後を思い出させた。

 あ、っと思った。

 ぼくは数歩駆け出した。

 日陰が途切れるぎりぎりまで。

 陽炎に揺らめく田園が近づいた。

 その只中に、白いランニングシャツと麦わら帽子が見えた気がしたのだ。

「パパ、どうしたの」

 妻の驚いたような声が聞こえた。バスロータリーの向こうの田園風景の中には、誰かが立ち働く姿はなく、風に揺れる稲穂だけが、音楽に合わせて踊っているように見えた。

「パパ、どうしたんだろうね」

「麦わら帽子のお兄さんがいたんだよ」

 ぼくは驚いて振り返った。それは息子の言葉だった。

「あれってパパの知ってる人?」

 息子は優しい微笑みでぼくを見ていた。その笑みが何かの答えのような気がして、ぼくはただ、頷いた。



 行ってみよう、あの森へ。

 きっと、息子は会えるはずだ。

 あの人に。

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かっちゃんの森 せてぃ @sethy

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