陽炎
せてぃ
陽炎
夏の終わりが、足下に
それは地面に落ちた蝉に似ていた。
ざまあみろ。
妙に冷めた頭で、わたしはそう思った。
女の悲鳴が聞こえた。男のどよめきが聞こえた。そうだろう。皆驚き、叫び、恐怖するだろう。あの子はなぜあんなことをしたのか。きっと、そう言うだろう。
わたしは自分の手を見た。十代前半の女子のそれより、痩せて節くれ立った枯れ木のような手。その手はいま、真っ赤に染まっていた。夏の終わりが流した血が、わたしの手と、その手に握った長い刃を、ぬらりとした生々しい色に染め上げていた。
わたしの視線は、自然と手の先の長い刃に向いた。
なぜだろう。わたしがこれを買う時、
自分で何かをしなければ、この世界は変わらない。自分以外の何者かに歪められてしまう世界を守ることも、同じく出来はしない。
そしてわたしは、変えなければならなかった。
だからわたしは選んだ。わたしたちの世界を終わらせようとするものと戦う道を、わたしは選んだ。わたしたちの夏を終わらせようとするものと戦い、勝利し、すべてを取り戻す道を、わたしは選んだ。
この人のことは知らなかった。
誰でもよかった。
人を殺してみたかった。
わたしは逮捕されるだろう。いまにも警官が走ってくる。駅前だ。近くに交番もある。すぐにも取り押さえられるだろう。そうして
わたしは、わき腹から絶望的な赤い液体を垂れ流す男から視線を上げた。周囲の人たちが音を立てて身を退いたのがわかった。そうだろう。わたしは狂人。なぜそんなことをしたのか、誰にもわからない。それでいい。目的も、人間性も、誰にもわからない。誰も、わからなくていい。
そんなことを想いながら見回した人垣の中に、見知った姿を見た気がした。わたしはその一点へ目を凝らす。ちょうど真正面に人垣が途切れた場所があり、見知った姿はその先に立っていた。
かたん、と大きな音がした。わたしの手から包丁が滑り落ち、刃がアスファルトとぶつかって音を立てたのだ。
手から力が抜けていた。腕からも、肩からも、脚からも、急に力が抜けていた。あと一押し、何かが途切れてしまえば、きっとわたしは意識を失う。それが本能的にわかった。
あなたは……
見知った姿がわたしの方を見ていた。わたしのことを少しもわからない、恐慌に震える人々とはまったく異なる視線を、まっすぐに向けているその姿。
わたしはようやくすべてを悟ったのだ。
新しいお父さんになってくれる人よ。
母さんが見知らぬ男をわたしたちの家に連れて来たのは、父さんが亡くなってそろそろ一年経とうかという八月の半ばだった。
十四にもなれば、わたしだって気がつかないはずがない。母さんの変化。遅くなる帰宅時間。おろそかになる家事。父さんの遺影の前に座る回数の減少。それがどんなことを意味するのか、悟らないはずがない。
リビングに立った見知らぬ男を、頭の先から爪先まで見た。線の細い、優男。父さんとは似ても似つかない、真逆の男。大企業に勤めるサラリーマンだという。背広に身を包み、堅苦しくネクタイを締めた姿。真逆。何もかもが真逆。同じ男性とも、同じ人間とも思えないほど、正反対の男。
ああ、とわたしは合点した。母さんは、何もかもを忘れようとしているのだ。何もかもを忘れて、現実を生きようとしている。いまある生活を支えるという現実。わたしの将来という責任を支える現実。定職にありつけず、肉体労働に従事していた父さんのような人間を忘れ、この世知辛い現実を生き残るための
母さんは、その身体をこの男に売ったのだ。
新しいお父さんになってくれる人よ。
その一言が、母さんを『母を自称する人』に変えた。
母を自称する人の思考をすべて理解した上でわたしが感じたのは、不潔さだけだった。目の前に立つ男と、母を自称する女の関係の不潔さ。わたしの父という、確かに存在していた人間を、さも初めからいなかったように忘れ去り、自分たちの生活へ埋没して行く男女の不潔さ。わたしに人格が存在していることを忘れ去り、わたしのためだと偽って、すべてをわたしの責任にする不潔さ。
美紀ちゃん、よろしく。
眼鏡面が腰を曲げ、わたしの名を呼んだ。そこに父さんの面影はまるで重ならず、眼鏡の奥の瞳の、淀んだ光だけがわたしの脳裏に焼き付いた。
膜が張っている。
そんな風に見える目だった。きっと実際にそうなのだろう。わたしに警戒し、不安に思い、怯え、わたしには決して言えない感情を、その瞳の奥に潜ませている。だから淀んでいるのだ。薄い膜が張っているように見えるのだ。不浄な光を宿しているように思えるのだ。
わたしはたまらず目を背け、家を飛び出した。母を自称する女が、母親のような声でわたしを呼び止めたが、わたしの足は止まらなかった。
ただ夢中で、わたしは駆けた。古い平屋の賃貸住宅を出て、わたしは駆けた。肺が悲鳴を上げ、痛んだ。内臓を鷲掴みにされているように感じた。それでもわたしは駆けた。走らなければ、捕まってしまう。あの不潔さに慣れてしまう。そんな気がした。不潔さに慣れた先にあるのは、忘却だ。わたしはきっと、父さんを失った悲しみを忘れてしまう。あの母親のような女と同じに。それが堪らなかった。
家の外は、真夏の午後の灼熱に包まれていた。夕暮れまではまだ時間があり、強い陽光が眩しかったが、わたしの身体はその熱をほとんど感じなかった。身体の芯は冷え切っていた。暑いはずの空気をかき分けて、わたしは逃げた。手を伸ばしてくる不潔さから、必死で逃げた。
ゆっくりと歩く人々を追い越し、悩みなどとは無縁の夏を追い越し、わたしが辿り着いたのは、街の中心から外れた場所にある神社だった。
鳥居を潜り、境内に入る。勾配のきつい階段を駆け上がった先、神社の前庭はそれほど広い場所ではなく、階段の終わりから拝殿までは、せいぜい二十歩程度の距離しかない。それでも、短いながらもしっかりと石を敷いた参道があり、一段高くなった拝殿の手前には、狛犬が目を光らせる姿がある。境内の周りを背の高い杉の木々が覆い、外の世界の姿は見えない。
人の姿はなかった。風が吹いて、杉の木たちが大きく揺れた。その音と、自分の鼓動以外、何も聞こえなかった。静かだった。まるで何者からも忘れられたように、静かだった。
この神社は、亡くなった父さんの好きな場所だった。
この街で生まれた父さんは、この神社が好きだった。この小さな神社で毎夏行われるお祭りが好きだった。幼い頃から、大人になっても、そしてわたしという子どもができても、父さんは毎年、お祭りの度にこの神社を訪れることを楽しみにしていた。
お祭りには、催される理由がちゃんとあるんだ。神様に願ったり、感謝したり、な。
真夏の炎天下、半場での肉体労働で真っ黒に日焼けしたたくましい腕でわたしの手を引き、狭い境内にひしめき合う屋台の電球を映して子どものように瞳を輝かせた父さんが、優しい声でそう言ったのを思い出した。しかし、この神社のお祭りがどんな神様に、何を願ったり、感謝したりするものだったのかは思い出せなかった。父さんはその時、確かにわたしに教えてくれたはずだった。なのにわたしは覚えていない。いつでも聞ける。そう思っていた。そう信じていた。そう信じて、わたしも大好きな父さんと一緒になって、屋台の灯りに瞳を輝かせ、漂ってくる香りに夢中になっていた。
これまでも、これからも、何度でも聞ける。そのはずだった。仕事場で、誤って落下した建築鉄材の下敷きになる事故さえなければ、何度でも。
わたしは拝殿まで歩くと、短い階段を上がってさい銭箱の前に腰を下ろした。拝殿に背を向け、箱に背を預けで、境内を見回した。もっと幼い頃には、この狭い境内が無限のように広く感じられた。立ち並ぶ屋台が見せる裸電球の輝き。流れてくる焼きそばやたこ焼きのソースの香り。ひしめき合う人々の匂い。体温。笑い声。夏の夜の熱気。そのすべてが魔法のように絡み合い、夜祭を無限の世界に感じさせた。
夏はいいよな、夏は。おれは夏が好きだ。美紀はどうだ?
どこからともなく父さんの声が聞こえてくる。空耳だ。わかっている。それでも風に揺れる杉の木々の音に混じって、途切れ途切れに思い出される父さんの声は、わたしの耳に確かに聞こえた。
夏休みが大好きでな。遊んでばっかりいたなあ。宿題? やったためしがないなあ。だから八月三十一日が大っ嫌いだったよ。
海外のことは知らないけど、この国には幕を下ろしたように突然終わる季節がいくつかある。クリスマスの十二月二十五日を過ぎると、突然お正月になるような変わり身の早さだ。八月三十一日も、その一つだ、と父さんは言った。
九月一日になると、突然秋が来ました、って言うんだ。みんなが。そんなことあるか? まだ暑いし、天気だっていい。真夏の間追いかけた虫たちの声だって、まだまだ聞こえるし、実際取りにいけばまだぴんぴんしてる。気温も高いから、川にだって、プールにだって泳ぎに行ける。なのにみんな、突然夏を終わらせるんだよ。あれは不思議だったなあ。いまでも不思議だ。昨日と今日で何が違うのかがさっぱりわからなかった。公営のプールが閉まって、来年まで開かなくなる。でも昨日と今日で何が違う? 学校が始まると、宿題はやってきたかと訊かれ、やってないと、もう秋だぞって言うんだ。不思議だろう? 何でみんな、あんなに楽しかった夏を一瞬で忘れられるんだろうな、って思ったよ。
ちょうどこの場所に腰かけ、さい銭箱を背にして屋台で買ったかき氷を頬張りながら、父さんの言った言葉が耳の中でうわん、と響いていた。わたしは右隣に座る父さんの横顔をじっと見ていた。屋台の裸電球が刻む陰影の濃い顔は笑顔で、心底夏を楽しんでいた。
ちょっとあなた。美紀にはちゃんと宿題するように言ってくれなきゃ。
わたしは弾かれたように左を向いた。あの夏の夜もそうした。そこには母さんの姿があって、やはり同じようにかき氷を頬張っていた。赤いいちごのシロップを口に運びながら、父さんを咎める母さんの顔は、言葉に反して笑っていた。言葉自体も強いものではなかった。しょうがないわねえ、といまにも聞こえてきそうな、愛らしい声だった。ああ、母さんは父さんのことが好きなんだな、と幼いながらにそう思った。そのことが、堪らなく嬉しかった。嬉しくて、そんな二人がわたしも好きだった。
あの時はまだ、こうして三人で同じ方向を見ていた。同じ場所から、同じように感じながら。
家は裕福ではなかったし、それが原因で学校でいじめにあったこともあった。でもそんなことは気にならなかった。わたしは家族三人、互いのことを互いに好きだと感じていられる時を、愛していた。
何が変わったのだろう。父さんはこの世からいなくなり、母さんは母ではなくなってしまった。あの頃とは、何もかもが変わってしまった。でも、だからといってすべてを忘れ、ぱんっ、と手を打った一瞬で夏が終わるような、そんな風に父さんがこの世にいたことも忘れられてしまうのだろうか。
杉の木々が風に揺れている。ざあ、と鳴る音に紛れて、遠いどこからか、蝉の声が聞こえ始めた。
そんなことはさせない。
ふと、わたしの頭の中で、そんな言葉が形になった。
そんなことは認めない。
認められない。
認めさせない。
わたしは自分の顔が強張るのを感じた。目が吊り上り、頬が硬直する。わかっていた。わかっていて、それを止めようとはしなかった。静かな境内の中で、顔の筋肉が漣を打つ音が聞こえてくる気がした。
母さんを取り戻そう。
父さんを思い出してもらおう。
わたしは父さんを忘れていない。これからも、忘れない。
その三つの想いが、わたしに前を向かせた。前を向いてみると、先ほど駆け上がってきた階段がある場所だけ、境内を取り囲む杉の並木が途切れ、真夏の空がぽっかりと開けていることに気がついた。燦々と降り注ぐ日差しが空を、青よりもむしろ白に近い色に見せている。
夏だ。
いまはまだ、夏なんだ。
わたしの大好きな父さんの愛した夏。父さんを愛した母さんのいた夏。わたしの大好きな二人がいた夏。
膜の張った目を思い出す。意識して、自ら思い起こしてみた。わたしには決して言えない感情を隠したあの目。ぱんっ、と手を打ち、夏を終わらせてようとしている何者かの、その象徴である存在の目。
取り戻さなければ。
わたしの顔は、変わっているだろう。自分で鏡を覗いてみても、もしかしたら自分とわからないかもしれない。それでもかまわない。そう思った。決意と行先を固めて、立ち上がる。
と、その時だった。
わたしの正面に、男の子が立っていた。
ぽっかり空いて見える真夏の空を背景にして、少年と呼ぶにもまだ早いような男の子が立っていた。真っ黒く日に焼け、麦わら帽子を背中に落とした半袖半ズボンの姿は、夏そのもののように見えた。
その男の子が、立ち上がったわたしを見ている。じっと、という感じではなかった。ただ、見ていた。驚くでもなく、訝るでもなく、ただ見ていた。
いつの間に現れたのだろう。まったく気がつかなかった。そんなことを思っていると、男の子はぷいっと背を向けて、階段を降りて行ってしまった。
杉の木々が風にそよぎ、遠くから聞こえていた蝉の声が途絶えた。
あの男の子はなんだったのだろう。考えたのはわずかな間だった。すぐに決意がわたしの思考を覆い、わたしは行動を始めた。
金物店へ行き、包丁を買った。
あの男が電車でこの街へ来たかどうかはわからなかった。もし電車で来たとしても、今日は母を自称するあの人と、わたしたちの家に居座るつもりかもしれない。だから賭けた。もしわたしの想像通りに駅へ現れたら、夏を取り戻す戦いを始めようと。
あの男を刺す。
正直なところ、あの膜の張った目を持つ男を殺そうというつもりはなかった。確かにあの男の存在は、父さんの言っていた八月三十一日で、死んでくれたら変化を止められるだろう、と考えてはいた。でも、それだけだった。わたしの中であの男の生死は特別重要な意味を持っていなかった。むしろわたしがあの男を刺すこと自体が重要だった。それがメッセージになると思っていた。何かを変えるためには、自分で行動を起こさなければならない。母を自称するあの人から、わたしの母さんを取り戻し、父さんを忘れずにいるためには、それだけの強いメッセージが必要だと思っていた。
わたしは駅前で、あの男が現れるのを待った。
そして、あの男は現れた。
堅苦しいスーツ。眼鏡面。顔を合わせたのはわずかな時間だったけれど、はっきりと覚えていた。まばらな人ごみに紛れてしまいそうになる姿をそっと追いかけ、わたしは男の背後に立った。
夏の終わりが、足下に蹲っている。
実際に刺した時の感触や、その瞬間の感情は、まったくわからなかった。忘れてしまったのではなく、ごっそりと、その部分の記憶だけがなかった。気がつくと、男は倒れ、わたしの手は血に塗れていた。
悲鳴。
どよめき。
わたしの周囲がにわかに変わり始める。
そう、これでいい。これで何かが変わる。変わろうとしていたものを、変わってしまおうとしていたものを、変えることができる。
ざまあみろ。
変わろうとしていたものよ、変わってしまったものよ、ざまあみろ。妙に冷めた頭の中で、わたしは何度も何度も繰り返した。
視線を上げると、周囲の人たちが音を立てて身を退いたのがわかった。そうだろう。わたしは狂人。なぜそんなことをしたのか、誰にもわからない。それでいい。目的も、人間性も、誰にもわからない。誰もわからなくていい。ただ、元々わかっている人間には届くはずだ。夏を終わらせに来た、その象徴に刃を向けた、その意味が。そしてその意味が届いた時、わたしは母を取り戻すことができる。亡くした父を生涯失わずに過ごすことができる。
そんなことを想いながら見回した人垣が、一か所だけぽっかりと途切れていた。そこに、見知った姿があった。つい先ほど見た姿だ。わたしを見ていた姿。驚くわけでも、訝るわけでもなく、ただ見ていた姿。
境内にいた、あの男の子だった。
夏の空を背景にして立っていた男の子が、いまは人の並を背にして立っている。先ほどと同じ目をわたしに向けて。
あ、と思った。
初めて見た時には、まったく気がつかなかった。決意を固め、音が聞こえるほど蠕動して表情が変化したわたしには、気がつくことができなかった。
かたん、と大きな音がした。わたしの手から包丁が滑り落ち、刃がアスファルトとぶつかって音を立てた。手も、腕も、肩も、腰も、脚からも、急に力が抜けていた。あと一押し、何かが途切れてしまえば、きっとわたしは意識を失う。それが本能的にわかった。
あなたは……
男の子がわたしを見ていた。あの時と同じ、驚くでも、訝るでもない瞳で、ただ見ていた。
その姿は一見、まったく同じに見えた。だがほんの少し、先ほどとは違っていることにわたしは気がついた。
先ほどよりも、背が伸びている。顔に精悍さが宿り、男の子と呼ぶよりも少年と呼ぶに足る顔つきに変わっていた。わたしは彼の顔の印象に釘付けになった。
少年がわたしの方に向かって歩き始めた。一歩近づくごとに、少年の見た目が変化する。一歩ずつ、大人へとその印象を変えていく。わたしの見知った姿へ近づいていく。肌は浅黒く日に焼け、たくましい筋肉がその身を大きくする。なのに子どもの頃からきらきらと輝く瞳の色は変わらない。その目が、わたしを見ていた。わたしのことを少しもわからない、恐慌に震える人々とはまったく異なる視線を、まっすぐに向けながら、近づいてくる。
そして、ついにわたしの目の前に立った。
「お……とう……さん」
口が自然に動いていた。咽喉が震え、声が出た。頬を涙の雫が流れた。その全て、自分のものとは思えなかった。
男の子から少年へ、そして父さんへと姿を変えたその人は、にっこりと笑ってわたしの頭に触れた。在りし日の父さんがそうしてくれたように、何も言わず、わたしの頭に手を置き、そして、撫でた。その感触は、その温度は紛れもなく、父さんの手のものだった。
お父さん、ごめんなさい。わたしは……
わたしは何を言おうとしたのだろう。何かが途切れてしまったわたしの意識は、急速に遠退いていった。
気がつくと目の前に、訝る顔を向ける老人がいた。
「……それ、買うのかい」
問われて、わたしはぶんぶんと音が出るほど身体を振って周りを見た。あの男を刺すための包丁を買った、金物店の中だった。そう、買ったはずの。
わたしは自分が何かを手にしていることに気がついた。視線を落とすと、まだパッケージに包まれたままの包丁だった。驚き、思わず手を離しそうになるところで踏みとどまった。刃にはもちろん、どろりとしたあの赤い液体は付いていない。
老店主の目が疑念を強くする。じっと見つめる目に、隠そうともしない険しさが宿った。
わたしは慌ててその包丁を差し出すと、深々と頭を下げて、店を出た。店主が呼び止める声には応えなかった。
父さんはわたしに何を言おうとしたのだろう。
わたしは考えながら早足で街を歩いた。
きっと、あれは父さんがわたしに見せたものだ。わたしの決意と、それによって起こる凄惨な未来を、わたしに見せた。そしてそこに父さんは現れた。
父さんは何も言わなかった。ただ黙って、手を差し伸べ、まだ温かい手でわたしの頭を優しく撫でた。
結局、父さんは何も言わなかった。
だから想像する他ない。父さんが現れた理由を。
父さんがわたしに未来を見せた理由を。
それだけの決意があるなら、他にどんなことでもできるだろう?
父さんの体温を感じた時、わたしの頭の中で言葉が膨らんだ。もちろん、父さんは何も言っていない。だから本当のところはわからない。でも、そう聞こえた。この体温は、わたしに違う未来を選ぶこともできるはずだと言っている、そんな風に感じたのだ。どんなに厳しい生活の中でも、決して弱音は吐かなかった、誰よりも前向きに生きていた父さんなら、そんな風に言うように思ったのだ。
お父さん、ごめんなさい。
だからわたしは反射的に謝ったのだ。心配させてごめんなさい、と。まず、父さんならどう考えるだろうと、考えなくてごめんなさい、と。
わたしは勾配のきつい階段の前に立った。巨大な鳥居を潜り、階段を駆け上がる。
ここに戻って来たからと言って、答えが見つかるはずはなかった。父さんはもういないのだ。答えをくれるわけではなかった。でも、ここ以外に答えが見つかりそうなところも、いまのわたしが足を向けられる場所もなかった。もしかしたらあの男の子……父さんがまだいるかもしれない。いてくれたらいい。そんな風に考えてもいた。
階段を上り切り、狭く、静かな境内を見回した。
そこに、人の姿があった。
「……なんで」
わたしは頭に浮かんだ言葉を、そのまま声に出してしまった。
「美紀……」
拝殿を背にして、母を自称するあの女が立っていた。
なんでここへ来た。なんであんたが。そう言って罵倒しようと思った。だってそうだろう。何もかもを忘れ去って生きようとしている女が、なぜ父さんの大好きだったこの神社へ来たのか。わたしを追って来たにしても、なぜこの場所にわたしがいるとわかったのか。
さまざまな想いが錯綜した。わたしの頭の中で言葉が飛び交い、溶け合い、形を作り、そして結局、そのすべてが音にならずに消えた。どんな負の言葉も、出てこなかった。
「……なんで」
声が詰まる。空気が入ってこない。だめだ。このままでは泣いてしまう。それがわかった。もう視界は滲み始めていた。母を自称する女と規定し、否定した存在の表情は、そういう力を取り戻していた。
その表情は、その顔は、あの日、父さんを優しく諌めた、愛らしく、父さんの愛した、わたしの愛した、母の顔だった。
わたしたちは駆け寄り、お互いに抱き締めあった。母さんが耳元で、すすり上げるように泣きながら、ごめんね、ごめんね、と繰り返すのが聞こえた。
そうだ。誰もが自分が選んだ道を生きている。この道が正しいと、自分は正しい道を選んだのだと、その時々信じて生きている。どこかで誰かに間違いだと取られてしまうことがわかりながらも、その瞬間は、これが最善だと信じて、信じ込むようにして、生きて行かなければならないのだ。だから辛い。だからぶつかる。わたしが否定した母さんはやはり、わたしと同じように悩み、辛い思いをしてきたのだ。母さんの声を聴きながら、わたしはそんなことを思った。
ふいに蝉の声が近くで聞こえたように思えて、わたしは抱き合った母さんの肩越しに見える風景に目をやった。
母さんの背後には神社の拝殿があり、その前には父さんと母さんとわたし、三人が背にして座ったさい銭箱があった。そしてその脇に、狛犬の影になるようにして、あの男の子が立っていた。真っ黒く日焼けをし、背中に麦藁帽を落とした半袖半ズボン男の子。夏そのもののような男の子が、わたしたち母娘をじっと見ていた。
わたしと目が合うと、男の子は少しだけ微笑んだ。そしてわたしたちに背を向け、拝殿に向かって小さな階段を上がって行った。
そして男の子の姿は、神社に溶け込むように、消えた。
わたしは何も言わなかった。もしかしたら母さんはあの男の子に導かれてここへ来たのかもしれない。思い浮かんだが、何も言わなかった。それでいい。母さんも何も言わない。それでいいんだと思う。
風が吹き、噎せ返る夏の空気が揺れた。ざあ、と境内の周りの杉の木々が揺れ、ちちちっ、と短い声を残して蝉が、どこか遠くへ飛んで行った。
陽炎 せてぃ @sethy
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