第1話 もう、戻れない
2010年。高校三年の夏。
母、望月朝美と、母の恋人だった木村純也が死んだ。
猪名川花火大会の夜だった。
出火原因は、未だ不明。
死因は全身が大火傷になった末の焼死だということだけはわかっている。
そして二人の遺体からは、それぞれ違法薬物の使用反応と、木村純也の遺体には背中に刺し傷も見つかっていた。
無理心中の自殺か。それとも何者かによる他殺か。あるいは、薬物が引き起こした事故か。
火事の原因は、一体何だったのかーー。
警察は、捜査線上に浮かぶ不審な点の全てを調べ上げたらしいが、証拠となる凶器が見つからず、最終的には未解決事件のまま捜査は今も変わらず続いている。
結論から言うと、木村純也は何者かに背後から背中を刺された後、母と共に火事によって亡くなった。
そしてその火事は、もしかしたら事件の証拠隠滅のための放火だったのかもしれないらしい。
それが、現段階で明らかにされていることだった。
不可解な点が多い重大な事件ということで、事件後は連日マスコミが騒ぎ、一週間ほどは毎日テレビでそれが報道された。
とにかくたまらない恐怖でいっぱいだった。
眠れなかった。
こんな日々は一日でも早く終わってほしいとただただ願っていた。
だけどその願いは、たったの数日であっけなく叶ってしまう。
母が亡くなった一週間後。
東京の歌舞伎町で、無差別の連続通り魔殺傷事件が起こった。
新たな重大ニュースのそれがテレビで取り上げられると、母の事件は以降はほとんど報道されなくなった。
願いは、叶ったのだ。
幕はゆっくりと閉じられた。
未解決のままではあるが、世間はひとまず母の事件については静かになった。
終わってくれた。
そのまま……終われると、思っていた。
あの元刑事。
黒崎亮治(くろさきりょうじ)が、現れるまでは。
「望月(もちづき)さん、新しい生活はどう?慣れてきた?」
放課後、私たち以外には誰もいない教室で、副担任の柴田(しばた)先生にそう聞かれた。
「…うん。まぁ、慣れてきた…かな」
「そう。あんなことがあって、まだ不安は消えへんかもしれへんけど。きっと時間が解決してくれるから。これからの進路のこともあるし…今は将来のことだけをじっくり考えなさい」
小さく頷くと、柴田先生は私に優しく微笑んだ。
本当にそうなんだろうか。
時間が、解決してくれるんだろうか。
この不安は、いつかは消えてなくなるんだろうか。
そう聞こうかと思ったけれど、それを躊躇させるもう一人の自分がいた。
不安なのは、私だけじゃない。
こんなこと、言ってはいけない。
だけど、たまらなく怖かった。
何でだろう。
自由になれたのに。
何でだろう。
今でもずっと、私は鎖に繋がれているみたいで。
縛られた世界から抜け出せても、私は未だに見えない何かに縛られたままだ。
「あ、それから…清宮(きよみや)君と西野(にしの)君のことやけど。最近は二人と全然一緒におらへんね?」
心配そうな顔で、柴田先生は私に聞いた。
「……あぁ、うん。二人には、お母さんの事件のことでも色々迷惑かけてしまったし。今はちょっと距離置いてる感じで。ほら、みんな進路のこともあるし、色々忙しいやろうから。塾とかも…あるやろうし」
「そっか。そうやね…。みんな受験生やもんね。望月さんも、二人に負けてられへんね」
「…うん」
「じゃあ望月さんも前を見て。生きたい道を見つけて、それに向かって進みなさい。進路で悩んだら、先生に何でも相談しておいで。奨学金のことも、詳しく教えてあげるから」
「うん。ありがとう…先生」
生きたい道。前だけを見て。
振り返ってはいけない。
私はそう、自分自身に言い聞かせた。
「じゃあ、また明日ね」
話を終えた柴田先生は、先に教室を出て行った。
一人残された教室で、私はぼんやりと考えていた。
本当に、これでいいんだろうか。
本当に、これが正しかったんだろうか。
このまま、全てを忘れて前だけを見ていけばいいんだろうか。
高校三年の二学期が始まってから、約一カ月半。
季節はあの事件が起きた蒸し暑い夏の夜から、気付けば秋へと変わっていた。
「おーい、いくぞー!」
ぼんやりと頬杖をついていると、窓の向こうから、声が聞こえてきた。
「ほら、ぼーっとすんな!」
なんとなく立ち上がり、私は声のする方へとゆっくり歩いた。
窓からグラウンドを見下ろすと、サッカー部と陸上部の練習風景が見えた。
キラキラしていた。
ボールを追いかけ、声をあげて。
風を切るように、思い切り走って。
笑って汗を流す同世代の彼らや彼女たちが、キラキラして見えた。
鼻の奥が、つんと疼く。
いろんなことが脳裏に蘇ってきて、なんだか泣きたくなった。
見上げれば、青い空が広がっている。
どこまでもどこまでも、広がっている。
「俺に、なんか出来ることない?」
あの日の清宮の声が、胸の奥で響く。
「…っ…何もしてもらわんでいい。ただっ……何があっても、ずっと友達でいてほしい」
あの日の温もりが、今でもずっと消えない。
「何言うてんねん。俺はおる。望月のそばに、ずっとおる。何があったって、俺はおまえの友達や」
ただ、守りたかった。
「ちなみに俺も!ずっと望月の友達やで!」
誰も、巻き込みたくなかった。
傷つけたくなかった。
だから私はあの夜…覚悟を決めたんだ。
静かな教室に、ガラガラ、と音が響いた。
振り返ると、後方のドアから西野が入ってきた。
私はすぐに視線をグラウンドへと戻した。
「なんか反応せえよ」
そう言いながら、西野の足音が少しずつ近付いてくる。
すくそばに気配を感じた私は、ほんの一瞬だけ、チラッと西野の方を見た。
すると西野は、隣で空を見上げながら言った。
「…大丈夫か?ちなみに俺は、なんとか大丈夫」
今にも消えてしまいそうな西野の声に、行き場のない想いが広がっていく。
「ラクになれたか?…望月がそうなってるなら、俺はそれでええ」
溢れ出しそうな心の声が、叫んでいた。
ラクになんてなってへん。
消えへん。変わらへん。……どうしていいか、ほんまにこれで良かったんか。
…わからへんよ。
「ラクになったよ。自由になった。あの事件も…そのうちみんな忘れていく。だから西野は…何も心配せんと、受験のことだけ考えて」
でも、言えなかった。
心の声は、口には出せなかった。
「私はもう、前しか見てない…過ぎたことを振り返りたくない。だからもう、私に話しかけてこんといて。喋ると、思い出してしまうやろ?だから……あの夜にも言ったけど、これ以上私に関わらんといて」
どうしても、言えなかった。
あの日のことは忘れて、前だけを向いて生きてほしかったから。
叶えてほしかったから。
「俺が、医者になりたいって言ったら笑う?」
そう言って、照れくさく笑った西野の夢を。
「何で笑うねん、絶対なったるからな。ほんで、望月と清宮の主治医になったるわ」
あの日語り合った夢を…叶えてほしかったから。
「別に関わってええやん。なんであかんねん」
「だから今言ったやん。ほんまアホやな、西野」
「別にアホでもええわ」
「何それ…」
「関わるも関わらんも、アホな俺の自由や」
「…意味わからん」
「こっちだって意味わからんわ」
久しぶりの、西野とのくだらないやりとり。
塞いだはずの心の扉が、開こうとする。
だけど…
「清宮とも、ちゃんと話」
「っ!うるさい!もう話しかけるなって言ったやろ!」
その名前を聞いた瞬間、私は咄嗟に大声をあげ、そのまま教室を飛び出した。
「待てって!」
「うるさい!ついてこんといて!」
ただ、走った。
力いっぱい、走り続けた。
溢れてくる涙を何度も拭いながら。
西野…ごめん。
私のせいで、ごめん。
何度も心の中で謝った。
ごめん。ウソをつかせてしまって。
巻き込んでしまって。
私のせいで、西野たちにまで…罪を着せてしまった。
後悔してもしきれへん。
結局私は、誰も守れんかったーーーー。
校内の駐輪場までたどり着くと、急いで自転車にまたがり希望の家までの道を思い切り走った。
もう、戻れない。
あの日には、帰れない。
泣きながら、ただ走った。
泣きながら、君を想った。
言えば良かった。
「俺に、何か出来ることない?」
そう聞かれた時、言えば良かった。
助けてって。逃げ出したいって。
……守ってほしいって。
もし言えてたら、もしかしたら今とは違う、今があったのかな。
「お願いやめて!!」
もう、全部終わればいいと思った。
死んでしまえば、この苦しみからも解放される。
だからあの時、死ねばいいって。
そしたら全部終われるって…思った。
「早く…殺して……殺せーっ!」
でも、何も終わらなかった。
*
「おかえり、歩実(あゆみ)ちゃん」
階段を登りかけた時、後ろから食堂のおばちゃん、名波(ななみ)さんの声がした。
「……ただいま」
小さく言葉を返すと、私はそのまま階段を登っていく。
「食堂にお客さんが来てるよ。歩実ちゃんに聞きたいことがあるんやて。もう一時間くらい待ってはるわ」
「…誰?」
私に来客?階段を上りながら聞き返した。
「なんか警察の人みたいやけど」
思わず足が、止まった。
夜空に咲く花 時永 幸 @sachixxx1983
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