アトムの子
「くそ!」
視界はありえないほど混濁していた。
「タナカを守れ! 全員で囲うんだ!」
どこも見ても真っ黒だった。視界は上下を判別せず、時折周りで起こる明滅した光などの単調なものしか理解できなかった。耳鳴りもし、それはまるで脳みそが耳から抜け出るような酷い苦痛を伴った。彼は頭を押さえる。すると、手が鼻先に来た時、何か生暖かなものが手に付くことを感じた。顔から手を離し、それを指でよく揉んでみる。あれ? すると、それは持つことはできず、ボタボタと鼻から手へ、手から下へと零れていった。
「立て!」
と、それが何かを判然としないまま、彼は肩を持たれ、そのまま無理やりに上に引っ張られる。少し震える足をどうにか制し、彼は立ち上がった。すると今度は、両肩を掴まれ、引き寄せられる。そして、目の前にはボヤッとだが人を象った輪郭が現れた。その輪郭から声が聞こえる。彼は頭を何回か叩き、酷い耳鳴りにどうにか終止符を打つと、輪郭はもっとくっきりとし始め、彼の前にいる人間をやっと見ることができた。
「タナカ。大丈夫か。指は何本だ?」
「うう、二本……」
けれど、彼の意識はどこか朦朧としたままだった。聞こえる声はどこか篭っており、目の前にいる男には無精髭が生えていて、中途半端に伸びた髪の毛があるというところまではわかるが、目や鼻の正確な影は見えない。彼は男が上げた手の指は見えるが、そこにある影はまだ見えなかった。男の着ている緑色の服に二本の肌色が見えて、呻きながらも二本と答える。
「そうか。ほら、お前のだ」
彼が男に課せられた質問にやっとの思いで答えると、男はあるものを押し付ける。それは黒光りする長もので、伸びたそれの横にはそこから斜めに曲がった取手が付いていた。彼には、それが一瞬トンファーか何かに見えた。しかし、彼はその取手を掴むと、男からきっちり譲り受けた。
「ちゃんとできるな。撃つんだ。生き残りたきゃな」
受け取ると、男はそう言って彼の肩を叩く、そしてクルリと回転すると、次にはダン、ダン、という断続的な音を鳴らして明滅するフラッシュを焚いた。
彼はしばらくは手に持ったそれを見つめていたが、やがて長ものの横に小さなレバーがあることを見つけて、それを引いた。引いて離すと、カシャという気持ちのいい音が鳴ってレバーは元の位置に戻った。
彼はその音を耳にすると、視界と耳をようやくはっきりとさせるのだ。
「ああ、くそう。扉は閉まっちまうし、ここから出ていけねえし。奴らは束で来やがるし」
目の前には五人の男たちがいた。実際はもっといるのかもしれない。彼は、男たちがそれぞれ一本の直線放射状に伸びる光を合計で五本見てそう判断した。男たちの他にも明滅するフラッシュと、それから、ダン、ダンという断続的な音が聞こえる。
目の前にはそれだけだった。辺りは真っ暗で、他に見えるものと言ったら。
「奴ら、どれだけこん中にいやがるんだ? キリがねえぞ」
暗闇の中に光る赤い二つの閃光だけだ。しかも、それが幾つも幾つも、彼の眼前に、男たちの眼前に無数に広がってた。男たちは口々に焦りの声を抱き、囂々と吠えている。鳴り止まない二つの音が彼の耳には良く響いた。
しかし、それ以外の音も、小さくだが彼の耳には聞こえる。それは実に獣的で、金属や黒板を爪で引っ掻いたような音にも似ていた。
キー! キー!
その音、声は何重にも重なっている。その様たるや、まるで動物園の猿山だ。彼はそれを耳にすると、両手で持っていた長ものの先を正面に、赤い閃光たちに向かって構え、長ものの横に取り付けられていた出っ張りのスイッチを入れた。
「あれ?」
カチッという音がしたのだが、その出っ張りには何ら変化がなかった。彼は疑問を呈し、一度その出っ張りをよく見た。すると、
「割れてる……」
出っ張りの正面、つまり長ものを正面から見ると、出っ張りに付いたガラスが割れて、銀に光るその中に破片が散乱していた。彼はそれを目にすると、口に小さく「クソ」と漏らすや、長ものを再び構えた。そして赤い閃光たちに向かって躊躇なく、取手の引き金を引く。
と、男たちと同じようにダン、と大きな音がして一瞬のフラッシュが焚かれた。その直後、赤い閃光の一つがより甲高い獣声を発して消灯した。
普通に撃てる。彼は冷静にそう思った。また別の閃光に狙いを付けると、また引き金を引く。音、フラッシュ、悲鳴。それが再び捲き起こる。彼はその作業を何度も繰り返した。
赤い閃光を見ては、その閃光は悲鳴を上げる。それは果てしなく続き、やがて、引き金を引いても音どころか、フラッシュも出なくなった。すると彼は長ものを片手で持ち、下部についていた黒い小さな板を取った。それを胸に取り付けた大きめのポッケに入れ、今度は違うポッケから同じ黒い板を取り出した。それをさっきの板の変わりに長ものに取り付け、レバーをまた引いた。と、
「うわ!」
彼は前から飛びついてきた何かに押し倒され、背中が床に打ち付けられる。彼は痛みに耐えつつ、その何かにしかと顔を向けた。暗がりで灯りはなくとも、この近さならその何かがよくわかった。
キー!
奴らだ。犬の様な口に猿の様な体。毛並みはハリネズミの様で、その体臭は硫黄の様な鼻につく臭いを感じる。彼が長ものの板を交換している間に近寄ってきていたのだ。しまった。彼はその目に怪しく光る赤を見るや、そう思った。そして、まだ手に持っていた長もので、襲い来る一匹の獣をどうにか防いだ。
キィー!
そいつは彼の半分にも満たない身体だったが、その力は彼とまるで同等かそれ以上だった。伸びて鋭く尖った爪が長ものを抑えつけ、獰猛な口からはこちらを噛み殺そうとする刃が粘液質の唾液とともに垣間見えた。その唾液は彼が着る迷彩柄の服を濡らすが、彼はそんなことを気にしている余裕はない。長もので獣を抑え続けた。
「切れ! タナカ!」
すると、先ほども聞いた男の、叫ぶような声が聞こえた。彼はその助言を即座に聞き入れる。片手で長ものを抑え続けると、離した手で腰につけていた、刃渡の短い果物包丁を取り出して獣の明け透けな喉を狙って横に突き刺した。赤い鮮血が少し宙を舞い、包丁を持つ手にかかる。そして刺した箇所からはドバドバと鮮血が流れ出た。
獣は包丁が喉に刺さると声を上げる事はなく一気に力を無くして、彼の上に覆い被さった。まだ流れる鮮血が彼の服を濡らしていく。彼は、今度はそれを良しとはしなかった。急いで獣の死骸を退かし、着いた血をある程度はらい、そしてまた、正面を仰ぎ見た。
するとだ。
「うわ! 離せ! 離せ!」
誰かの吠え声が聞こえた。赤い閃光はさっきよりも格段に大きくなっている。声が聞こえた方を目にすると、一番左端にいた男にあの獣たちが何匹も取り付いていた。彼は即刻、その男を助けようと銃を男に向けるが、獣は男にしっかりと組み付いている。獣だけを撃ち落とすのは至難の技だった。それに他の四人は手一杯で、助ける余裕などとてもない。
撃つか、撃つまいか。彼は迷った。そうこうしているうちに、悲劇は起こったのだ。
「ギャー!」
男は、そう断末魔を上げると、ついには地に伏し、それ以降は何も聞こえなくなってしまう。ただ小さく、血がブシュと噴きあげる音だけが聞こえた。彼はそれを耳にしてしまうと息を荒げて正面に銃を構えた。そして、一際大きくなった赤い光に銃弾をかました。
かまし続けた。一発ごとに悲鳴が湧き、赤光は一つ消灯する。しかし、その消灯を打ち消すように、後ろから禍々しい光は前に出た。
多勢に無勢だったのだ。もはや五人になった男たちに対し、獣たちは無数とも言える数を一向に減らそうとはしない。次第に彼らは後退していったが、彼の後ろは、もうこれ以上下がれなかった。五人はより固まって、彼を中心に一箇所に集まった。
「ここで電池切れまで押しとどまるしかないな」
「それで死ぬわけだ。トミタみたいに……」
「何とか抜け出す方法はないのか?」
「後ろが開くなら助かるが、開いてくれないんだろう?」
「タナカ。無理やりやってくれないか?」
彼は言われ、自身の後ろを振り向いた。後ろには、青く塗られた扉があった。所々が錆び付いており、青の塗装は徐々に剥げかかっている。引き戸になっているその扉の一方の取手を掴むと、彼は力一杯に引いた。
「ビクともしないか……」
扉はうんともすんとも言わない。彼の仕事は無駄骨に終わってしまった。彼は焦って長ものを扉に向けたが、しかし引き金を引く前に考えた。扉は厚めの金属製だ。小口径の弾丸では貫通するのかわからない。それに、もし貫通せず、跳弾すれば全員ではないにしろ、ここにいる誰かがただではいかない。彼は諦め、チッと憎々しげに扉に舌打ちをした。
男たちはその舌打ちに全面的に同意した。ある者は歯軋りを、またある者は獣たちに小さな唸りを添えて、長ものを撃つ。だが、その内に弾丸は底を尽きかけてしまい、響く発砲音は次第に獣たちの不協音頭に負けていった。
しかし、男たちは諦めない。まだ光があった。暗がりを好む化け物たちに、直線的な光を浴びせ、一匹も近寄らせないよう最善を尽くした。でも、それもいずれは限界を迎える。幾ら放射状の光が四本あるとはいえ、直線的に伸びる光では必ず穴が出る。化け物たちは決して賢くはないが、折角の抜け穴を利用しない手はない。段々と、男たちとの距離を縮めていった。
男たちは必死にそれを防ごうと躍起になっていたがため、半狂乱を抱いた先にとうとう真っ黒い闇を垣間見始めた。
「……やるしかないな」
そんな最中だ。誰かそう言った。男たちは耳にすると、下を俯き、しかしまたすぐに上へと上げた。その瞳にはジャッカルを思わせる獰猛さと、しかし、奥には追い詰められたネズミのような破れかぶれが見て取れた。
彼らは背水に片足を突っ込んで、襲い来る獣たちと戦う事を余儀なくされた。残る光は四本、残る弾薬といえば、その数は高が知れている。彼らの間にはこの周りと似た闇が静かに歩み寄ろうとしていた。
しかし、全員が決死の覚悟を取ろうと、それぞれが長ものを静かに構えたその時のことだ。
ガガッという闇に響き渡る大きな音がしたかと思うと、次にはその闇を突き抜けていくような、明朗なジャングルビートが心地の良いリズムを伴って鳴り出したのである。シャンシャンという明るい音調が貫いた闇の中に響き渡り、男たちは張り詰めた空気を一変させた。まるで風船の空気が勢い良く抜けていくように肩に入れた力は急に抜けていった。
山下達郎の「アトムの子」がノイズと共に大音量で流れだしたのである。
「今度は何だよ?」
四人は耳を軽く力を入れつつ、何が起こっているのかと混乱を起こしていた。それは確かに混乱ではあったが、いざ音楽を耳にしていると、全員は絶体絶命にも関わらず顔には小さな笑みを浮かべ始める。不思議と楽しく、また頼もしく、自分が無敵に思えてくるのだ。
ところが、ただ一人、彼はこの明るい音楽を耳にした瞬間、ハッとしたように目を見開いて、次には口が勝手に動いていた。
「ケサだ」
ポロッと出たそれは、彼が長い間探し求めていた名前だった。
この「アトムの子」を、耳にした彼は、探している少女の名前を口に出していたのだ。
実は、過去に彼が大好きだからと彼女に上げたCDに入っていた楽曲だった。どうしてそれが、突然ここで流れるのだろうか。電気もないはずなのに。彼がそう疑問に思い、辺りを見回した時だ。音楽とともに起こった、ある一つの変化は、否応なしに彼の目に映り込んだ。
「あ、あそこ」
「灯りがあるぞ……」
それは誰の目に明らかなことだった。彼らは口々に言って、視線を斜め上に固定してしまう。彼もそれと同様だった。
闇の中には、煌々と輝く灯りが灯っていた。しかも、彼らが持つ直線的な光ではなく、周囲を照らすような熱い光だ。まさにその光は全てを照らす太陽とまでは言えなくとも、それと同等に近しい存在に見えた。
「あそこは放送室か?」
誰かがそう言う。強い光は長方形のガラスフレームから溢れていた。音楽は放送室から奏でられ、灯りはその放送室から漏れているらしい。ここはかなり広々としているが、室内だ。自然的な灯りが出てくることはない。ということはあの灯りは限りなく人為的なものである。つまり、だ。
彼はもう一度、今度は頷きながら「ケサだ」と呟いた。
「そうだな。きっとケサだ」
男の一人、無精髭の男はその彼の発言に同意した。男は曲のことは知らないはずだが、彼の目的を知っている。ずっと彼女を求めていた彼の、根拠がない発言に、しかしきっぱりとした云い切りに、男は何とは無しに彼に同意したのだった。彼はそれを聞くと男に対して顔を綻ばせ、目的が、あと少しで達成されるかもしれないという期待に胸は膨らんだ。別の男が、「なんでわかる?」と疑問を呈したが、そんなことは知らない。
「よし、兎に角、いるいないどっちでもいい。誰かがいることは確かなんだ。あそこに向かおう」
「「了解」」
男たちのリーダー格がそう言い、全員が同意した。再び長ものを構えると、音楽は丁度、大きく「アー、ワン」と数をカウントし始めていた。男たちはそれを聞くと、それぞれが顔を見合わせる。どっちみち破れかぶれだ。
「ワン!」
全員が長もののレバーを引き、射撃体勢を整えた。まさに一つの光明が自分たち前に現れた。
「トゥー!」
膝に力を入れ、その足を大きく曲げた。このチャンスを逃す手はない。
「スリー!」
腰も曲げ、長ものを構えながら前に進み出でる体勢を整えた。チャンスは、希望は、掴むためにあるのだ。
「テイクオフ!」
これがその合図だ。彼らは一斉に走り出した。一塊に、放送室を目指してだ。
放送室はここから左に行き、少し大きな段差を越えて、また階段を上がった先にある。前の二人が長ものから伸びた光で、囲む赤の光の中に一本の道を作り、横から襲われないようにその後ろの二人が横に光を放つ。そして後ろの二人はそのまま、列の後部を護衛した。
「ほら退け! 道を開けろ、猿ども!」
「横から失礼してくるんじゃねえ。この犬っころ!」
「追いかけっこか? 逃げ手には鉛玉があるんだぞ? この犬猿共が!」
滑り出しは何にでも言えることだが、かなり順調だった。彼らには軽快で無敵の音楽が付いている。そして、これも、また何にでも言えるが、音楽にのった人間というのは限りなく優秀になった。
獣たちは数で勝るというのに、彼らに飛びつくこともできず、ただ次々と撃ち倒されていった。そら行け。僕らは無敵だ。彼は長ものを後ろに向けながらそう思った。
このままあの光の元へと向かえばいい。そうすれば、やっと、僕の念願が、彼女を見つけることができるのだ。彼は期待の海を小躍りするように、荒れる獣が跋扈する中を走り、長ものを撃ち続けた。
しかし、彼は決して、無敵になったわけではないのだ。
「わ!」
だから、か。彼は調子に乗ってしまったのかもしれない。音楽は彼らに力を与えてくれたが、あまり過信しすぎるべきではなかったのだ。
彼は列の最後尾だというのに、足を何かに取られたと思うと、そのまま滑って大きな音を立て、派手に転んだ。何らかの液体を踏んだのだ。彼はその液体の中へと突入し、その先にあったものに当たって止まった。
「タナカ!」
彼の姿は集団から急に消え失せてしまった。横にいた無精髭の男がすぐそれに気がつき、走りながら彼の名を力一杯呼ぶ。すると、「ここですー!」と大きな返答が返ってきた。全員がそれに気がつき、一旦足を止めて奴らを近寄らせまいと光をそこらに散開させ、フラッシュを焚いた。
妙に生暖かい液体に顔を突っ込んだ彼は、その状態で叫ぶと、液体に顔を濡らしたまま大急ぎでその顔を上げようとする。急いで男たちの中に戻らなければ、自分は間違いなく、犬猿に食い殺されてしまうのだ。
急げ急げ。彼は焦って顔を上げ、そして次には、命の終わりを間近で感じる羽目になった。その感想は巨大な叫びとなって、流れている歌すらも打ち消してしまう。
「うわああ!」
彼が見たもの。それは先程死んだ男の死体に他ならなかった。あまりにも無残な死体だった。四肢は原型を保たずに食い千切られ、胴体から断裂し、その胴体はといえば化け物の爪痕をくっきりとそこら中に残していた。おまけに顔は。
「ヒエ」
彼はそこまで視線を移動させると、もう声にもならない情けない悲鳴を喉から出した。
男の顔は、存在していなかった。まるで抉られたように、顔だけがゴッソリと取られていた。目も、鼻も、口も、それらを守る、硬いはずの頭蓋すら諸共である。
彼は人の死体には慣れていたつもりだった。が、その光景はショッキングという言葉を超越しており、彼はすっかりと腰を抜かしてしまう。それをやった化け物が周りには無数にいるのにだ。
化け物たちは、それを待っていたとばかりに静かに彼に近づいていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます