蚕糸

雑駒 波鸞

プロローグ

少年時代

「ねえ。君の名前は? 良かったら、一緒に遊ばない?」


 まだ、空に太陽が燦然と輝く中、少年はとうとう一人の少女に声をかけた。

 少年は少女のすぐ目の前に背筋を伸ばして立ち、右にはすでに傾いた太陽を、左には屋根が崩れかけた掘建小屋がある。その後ろには、少年の背では見えないものの煉瓦が幾つも整然と積まれた壁があり、小屋はその壁に凭れかかるように建てられていた。

 また、少年は少年にしては背が高く、纏う服こそ泥だらけだが顔立ちは幼さを残しつつも青年への変貌を遂げようとして、またその頰は林檎が熟したように赤々としていた。

 言い切った少年の瞳がまだ少女に向いていると、彼に気を有り有りと感じさせる強い女性の声が投げかけられる。


「何してんだよ、タナカ。早くしろよ」


「あー。ちょっと待ってよ。お姉ちゃん」


 少年は、遠くから自分に向かって投げられたその言葉に、遠くを見ながら弱く返した。そして、また、眼前にいる少女に向き直る。

 少女は少年よりも頭一つ分は小さい。しかし、その小ささに伴う彼女の笑顔は、あの燦然たる太陽よりも眩しいものだった。まるで図鑑で見た向日葵や、色取り取りの花畑を思い起こさせるような笑顔だ。少年はその笑顔を一目見た時からかなり気に入っていた。何度か目にする内に、次第に暇さえあれば、視界の端に少女を捉えるようになっていた。そうなると、得てして少年の心は、時に電気スタンドよりももっと単純なものになる。だから少年の心に、少女への近づこうという意思が生まれるのは至極当たり前のことだった。


「ね。君、いつも僕らを見てるでしょ? 一緒に遊ばない?」


 少年は優しくそう言うが、しかし、その拳は硬く握られていた。そう、彼女に近づくことはまた、自身の大地に亀裂を生むことにもなるのだ。彼の意思は鉄鋼よりも遥かに強靭だったが、一瞬でも気を抜くと、途端に飴細工になってしまうだろう。

 しかし、そういった少年の意は彼女には届かなかった。少女は無邪気な笑顔を顔に貼り付けたまま、少年に対して小首を傾げてしまう。言われたことがわからないのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。少年は、彼女が大人の言うことに、笑顔で首を縦に振るところを何度も見ていた。

 だから少年は、少女が何か言うところを待った。幸いにも、少女は小首を傾げつつも自分を見つめてくれている。待ってれば、何か他のアクションがあるはずだ。少年はそう思い、少女の動き、その笑顔を見た。と、何故だが自分の頰が熱く感じる。

 少女は、しばらく待っても何も言わなかった。


「えへ……。何か言ってくれると……。あ、名前。君の名前は?」


 少年は自分の頰が熱くなることに耐えられなくなった。苦笑して、言うと、短い頭をポリポリと掻く。きっと聞こえなかったのだ。少年は無理やりそう納得して、こちらに笑顔を向け続ける少女を、今度は伏し目がちに見た。

 いよいよ少女が答えてくれるかな。そう思った時だ。


「そいつはケサだ」


「え?」


 突如として、軽量さと軽薄さを同時に兼ね備えたような捉えどころのない男の声がした。それに少年は思わず、声を出してしまう。急になんだろう。自身の後ろから投げかけられた声に振り向こうとするが、声はその前に言葉を続ける。


「名前だよ。そいつの名前はケサだ」


 誰かが言うと、少年の肩に手が置かれた。少年はビクリと肩を震わせ、その手を見る。

 手袋を着けていた。手先がささくれだった、まるで長年使いこまれたようなボロい茶色の革製の手袋だ。少年は、その古びた手袋にある見覚えがあった。少年は途端に息を吸い、慌てて肩に乗った手を払うと、そこから距離をとる。そして、その手袋をはめた男をよく見た。

 しかし、少年はその人物をよく見ると、次には目に怯えを浮かべて堅く握った拳に大汗を掻いた。

 男は、着ている服装だけを見れば、どこかのビジネスマンを思わせる格好だった。折り目がついた紺色のスラックスに、上には少しヨレヨレのワイシャツを、しかし袖は捲っておりネクタイはなく、上着は着ていない。昼下がりのサラリーマンと見間違う格好だ。だが、彼はただのサラリーマンではない。腰に締めたベルトの両脇に一対のホルスターを取り付け、その中には銀と黒の回転式拳銃が一丁ずつ収められていた。彼はガンマンだ。少年はその二つの死を呼ぶ鉄塊に恐れをなしたのだ。

 と、言いたいところだが、少年はその格好に恐怖したわけではない。

 彼は異常なのだ。一言でそう片付けられるほどの狂気が彼の身にはあった。

 彼はマスクを被っていた。と言っても、絹でできたただの布地を顔にスッポリと収まるように加工した粗末なものだが。そう、マスクを被るという行為自体に何ら問題はない。ただそのマスクに描かれた模様が異質で異常なのだ。

 それは歪んだ笑みだった。異様に垂れ下がった目と、異様に歯を見せて口角を上げた口はあるところでつながり、目の周りは黒く乱雑に塗り潰され、その黒は繋がった口を通じて下に伸びる。それらはまるで溶け始めた顔が笑顔を浮かべているというようで、こちらにそのマスクが向けられた時、心には虚ろな闇を抱かせた。

 このマスクを一目見た瞬間、少年は今と同様な感情を起こし、またある一つの言伝がその脳裏にはよぎった。

 少年にとって、その男は知っている人物なのだ。ここ、ムショではある意味有名人の彼だ。実態はよくは知らないが、少なくとも「いい噂」は聞かない、怪しい男だった。だから少年は、彼に関してこんなことを父から言われていた。



 彼には近づくな。見るな。聞くな。話すな。



 だから、彼と出会うことは、すなわち会敵と同じことを意味する。つまりは、彼は不審者のそれと同義の存在だった。少年は、その不審者と出会った。少年の鼓動が高まるのも無理はないのだ。


「ハハ。そんで、俺の娘さ」


 だが、男はそんなことなど素知らぬ風だ。少女の元へ赴いた彼は、しゃがんで少女と顔を隣り合わせて軽く笑うと、そう言う。と、次には立ち上がって、あろうことか距離を取った少年の元へと近づいていった。

 少年はそれに恐れをなした。父から聞いた警告が、余計脳裏を過ぎる。気味の悪い男が言う通り、少女はその男の元に住んでいた。男の娘で間違いはない。少年は、だから彼女にも近づくなと言われていた。しかし、走ろうとする少年の初々しい心には、警告など意味がない。少年は男がいない時間をあらかじめ調べ、こうして少女に話しかけただった。

 だが、その目論見はどうしようもなく、瓦解した。

 少年は少しずつ後ずさるが、しかし、男は少年よりもずっと大きい。距離はグングンと詰められ、少年のすぐ目の前に男が来たところで少年はもう後ろに下がれなくなった。

 少年は、怯えた目つきで男のマスクを真下から見る。それは恐怖への起爆剤となった。歪んだ笑顔を象ったマスクは影を作って、まるでこちらを見下すかのようにユラユラと揺らいでいた。自分はこれから何をされるのだろうか。きっと、想像もつかない、ひどいことをされる。単純にそう考えた少年は逃走という簡単な選択肢を忘れた。その場から動かなくなり、目を瞑り、それにちょっとした抵抗をしてやろうと心の隅で意気込んだ。すると、


「あいつには言われてるんだろう? この子には近づくなって。なのに……勇ましいな。お坊ちゃん?」


 彼はまるで少年を弄ぶように「お坊ちゃん」呼ばわりをすると、彼の頭をポンポンと優しく叩いた。そして、「ヒヒヒ……」とそのまま少年を嘲るように笑い声を残し、吹きすさぶ冷たい風と共に去っていく。


 少年はポカンと口を開けてその姿を見送った。なんだか急に自分を包んだ小さな嵐が、少しだけ雨を降らしたと思ったら、また急に去っていくようで、どこに置けばいいかわからない妙な感情を、彼はとりあえずと、フーと吹く息に混ぜた。それでも、まだ心臓は高鳴りを収めようとはしないし、額には、一筋の汗すらも流れる。

 少年はしかし、去りゆく男が帽子を被り直したところを皮切りに、少女へと向き直った。少女が、自身の手をいつの間にか取っていたのだ。初めて意識した異性に、唐突に触れられる。もやもやと霧がかかっていた少年の心は簡単に晴れやかなものになった。

 彼は彼女の笑顔に同調するように、彼もまた笑顔を向けていた。

 純真な笑顔と無垢な笑顔が向き合い、そこにはキリストや仏でさえひれ伏してしまうような、誰も辿り着けない聖域ができる。少年はその聖域を保ったまま、少女にこう問いかけた。



「ケサ。何をして遊ぶ?」

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