教室

「よし。今日は終わり。委員長は宿題のプリントを集めてくれ。出さない奴はそれなりに成績に反映させっからな」


 一時限目の授業も、もう後半だった。自分が受け持つ担任のクラス、ここ二年三組で国語の授業である。もう針はそろそろ、あと五分も無いだろう。私は授業を切り上げると最後に宿題としてやってこいと言っていた小論文を回収していた。

 長く伸びた髪が眩しく光る。委員長が宿題を回収している。そんな中、最前列の森田が私に言った。この生徒は遅刻、居眠り、及び赤点魔ということで教卓のすぐ前に配置されている。いわば将来を危ぶまれる問題児だ。私はあくまで笑みを作ってそのヘラヘラ声を聞き、返した。


「先生、俺やったけど忘れたんですよ〜」


「そうか。今日中に出すんなら、特別に点は引かないでおいてやる。悪いことは

言わん。机の中にある白紙のプリントに今すぐ書け。帰りまでに出せたら点をやらないこともない」


 森田は悲鳴をあげて、鞄の中からグチャグチャに丸くなったプリントを急いで取り出す。こいつ、よっぽど点数がいらないと見える。私は笑みに怒りを添えて森田に送ってやった。


「高田先生。これ宿題のプリント。全員分です」


「あ、ああ。うん。ありがと……」


 委員長が任務を終えたらしい。私の前にプリントの束を差し出しそう言った。その委員長を私は見る。視線を私から逸らすその少女は、非常に柔和な顔を、仏頂面に変えている。私の娘だ。私を先生と呼ぶ雅美の瞳は伏し目がちで、私を捉えてはいなかった。それが拒絶の意だと知っている。私は曖昧にそう返事をしてプリントの束を受け取り、去りゆく雅美を見つめた。雅美は我がクラスの学級委員長だった。プリントの回収などを頼めば、受け持ってくれる。学校で、恐らく担任教師と最も顔を合わせ続けなければいけない役職なのだが、何故か雅美は私と出会わないように方々で上手いこと隠れ続けていた。だからこういう小さな任務以外では中々話しかけられない。今この時を置いて彼女(自分の娘なのに)に話しかけられるタイミングはない。

 私は、だが、弱々しく娘に声をかけた。


「あ、あのな。雅美……」


「じゃ」


 私は流れるような視線に振られ、拒絶されてしまった。自分の席に戻っていくその背中は痛く冷たい。もう何も言う気は無くなり、私の伸ばした腕だけが後に残った。


「なーに? あんた自分のお父さんにまで冷たい態度とってるの?」


 その途中のことだ。身体中に絡みつくようなネットリとした声がざわついた教室を割く。そしてその声と共に、ざわついた教室は不自然なほど静まり返るのだ。あの森田ですらも。いや、彼は今、グチャグチャになったプリントの皺を伸ばしている最中で状況が掴めていない。無駄だというに。

 始まりはいつもここからだった。いじめになりかけ(らしい)の発言が、違う席からヒュッと突然に始まった。その言葉に雅美はピク、と動きを止め、しかしすぐに動いて自席に戻る。その間、他は黙りこくり、すっかりと静まり返っているが、その一角、正確にはちらほらだが、発言元と、他数人(全員女子)が雅美に爛々とした殺気を放っていた。私は発言をした人物を名指しし制す。


「おい。三河。止めなさい」


 私から右端、窓際で前から三番目に座る、同年代からすると身長の大きな女生徒に視線と口頭で告げる。彼女は三河といい、現在、女生徒らしからぬふんぞり返った姿勢で座る彼女はこのクラスのボスだ。ボスが何かを言えば皆は鞭に叩かれたと思うくらいに押し黙る。大人の社会でも言えることだが、中学校というのはこういうことがより顕著だ。

 彼女は私が言うと、首を回してそのネットリボイスを披露した。


「嫌ですー。あ、そうですよ。父親からも言ってくださいよ。勉君と別れろって……」


 その発言は私を舐めきっていった。昨今の力関係というものを子供はよく理解する。教師は上の存在に頭が上がらない。それを利用した、いわば、恫喝である。醜い女児は薄ら笑う。こんな子が世にできるとは、なんとも嘆かわしいことか。私はまだ幼い彼女に対して顔として言い放った。心に釘が刺さってくれれば、そう思っての発言だ。


「俺が娘の交際をどうこう言うつもりはないし、関係のない他人がそう言ったことに首を突っ込んで、あまつさえ邪魔をするというのはどうかと思うな」


 むしろ首を突っ込みすぎて引っ込みがつかなくなってしまったのが私なのだが。そういう事情を生徒は知らない。故に余計ややこしい。私と雅美が親子だということは周知の事実なのだが。

 私が冷静に言うと、悪鬼か、餓鬼に相応しい彼女、三河はハッと息を吐き出して私に返す。


「なにそれ? 私が邪魔者だって言いたいんですか? はい人権侵害ー。教育委員会に言ってやろ」


 これだ。これを言えば教師は黙るしかないと思っている。自分の立場が上だと認識していることもこれが主な原因だった。私は再度思った。非常に、嘆かわしい。私は三河に対して、少しばかり素を出した。


「録音でもしてから言うんだな。横恋慕ちゃん」


 言うと、三河はその発言に一瞬驚いたように目を剥いた。そりゃそうだ。教師である私は品行方正、言葉遣いには特に気をつけている。だが素の私というのは、存外、軽口だ。この道何年だと思っているのか。いじめっ子がこちらを睨もうが全く怖くはない。


「録音……」


 と、私が口元に笑みを漏らした時だ。そう雅美が呟いたように聞こえた。確かめようと視線を向けると、私から明らさまに目を逸らす。やっぱり嫌われている。どうすればいいのだろう。そうこうしているうちにチャイムが鳴った。


「……次の授業は体育だぞ。遅れるなよ」


 私はそれを聞くや否や、教師を戻して、そう告げると、こちらを睨む三河を無視してその場をさっさと立ち去った。この後も他所で授業は続き、別のクラスでは勉にことの現況を聞いたが、知らぬ存ぜぬで押し通された。こちらも敵が多いらしい。今は中立に近い微妙な立ち位置なのだそうだ。思春期とは、かくも戦争なりき。外交に勤しむその姿はまさに調停官と呼ぶに相応しかった。

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