15のセンチ
雑駒 波鸞
起
行ってきます
「行ってきます」
私はいつも通りに寝室で目覚め、いつも通りに妻が作った朝食を頂き、いつも通りに身支度を整えてから玄関先でそう言った。
「ええ、いってらっしゃい」
すると、台所で食器を洗っていた妻が少し高めの小綺麗な(私から見ると悪趣味な)スリッパをパタパタと鳴らしながらこちらに近づいてくる。我ながら顔立ちも小綺麗である妻は至って笑顔で私を送り出した。と、玄関先からは二階に上がる階段も見えるのだが、そこから降りてくる一つの影が見えた。真直ぐに伸ばした髪と妻よりも祖母に似た柔和な顔を持つ、私の娘、雅美だった。彼女はまだ寝ぼけ眼で目を擦って降りてきていた。
私はその姿を見つけると、一旦、息を飲んでから娘に「おはよう」と言った。すると、私の言葉を耳にした娘は。
「挨拶くらいしなさい!」
妻の小さな怒りを食らうほど冷淡に私を無視した。今日も今日とて、今日もか。私は嘆息を吐いて怒る妻に努めて優しく言った。
「母さん、いいよ。そういう日だってあるさ」
毎日だけど。私は言って、そのまま妻の顔を見ずに家を出た。妻は私に対し眉を下げ、顎には手を当てている。もう十年連れ添った仲だ。哀れみと同情の仕草などは心得ている。だから、私は背中でつい「止めろ」と示し家を出るのだ。
これが、ここ最近の日課だった。
「うーん」
その足で私は歩いて学校へと向かった。一駅をまたぐという距離でもなく、学校はなんとバス停を一つ交えたすぐ先にある。
学校では、いつものような教職員用の朝礼から始まった。校長の長話と教頭の有難い最新注意事項音読があり、それが終わると、各々が細々とした調整を始め、後は、もっぱら授業の準備や、小テストの採点、中には登校してきた生徒の間に入って遊んでくるという猛者もいる。私はその猛者、ではない。授業の準備だ。
「あ、高田先生。おはようございます」
「ん? ああ、グッドモーニング……」
私が授業のデータを入れたパソコンを開いて二年三組の名簿を確認した時だ。とある人懐っこそうな、手で持ち辛いフワフワと浮ついた声が聞こえてきた。理科の斎藤女史だ。同じく人懐こそうな顔に大体が笑みを纏っていて、おまけに声もかなり間延びしている。性格もそれと同義だが、彼女はなんと、ロボットバトルの世界大会で三回連続優勝している別の意味で猛者だ。それを点で感じさせない立ち振る舞いは、それを知ってしまうとある意味で恐ろしい。が、私にはそんなことはどうでもいい。彼女は普段、少し間の抜けた女性教師だ。
彼女は如何にも呑気な口調で私に挨拶をしてくれたが、しかし私は名簿の中に高田 雅美の名前を見つけてしまい、今朝のことを思い出して、つい平坦な口調を取り彼女に素っ気なくかえした。
このままそれに返してくれるな。小さくそう思ったが、彼女は呑気であるにしろ、そう言った機微を逃そうとはしない。呑気な口調でそこをついてきた。
「あ、なんか冷たいですねー。何か考え事ですか?」
やっぱり聞いてきた。聞かれると、嫌でも娘のことを考えてしまう。私は名簿から目を離せなくなり、かといって良い言い訳を思いつくわけもなく、
「ん? んん。んん……」
とかなり曖昧な返事しかできなかった。そう言ってしまうと、もう斉藤女史は私のほんの些細な変化をその垂れた目にしかと捉え、再び的確に突いてくる。彼女は正に勝負師の目と耳を備えているのだ。
「ありゃ、目細めちゃって。かーなり深刻な悩みですね」
大丈夫ですか? 心配までされてしまっては堪らない。私は画面から無理に目を離すと、斉藤女史と目を合わせた。栗色のまだ若々しい瞳が目に入る。彼女はまだ二十代だ。若いということは、それだけ目立つ失敗を抱えているということだ。私は話題をはぐらかすためにその失敗を突き返した。
「ん。いや……。何でもないです。強いて言えば、斎藤先生が濡らしたプリントを勿体無いと感じてたまでです」
「うえー。まだ言います?」
斉藤女史は鋭いが、こういうところは幼い。話題のすり替えは容易で、増してや自身の失敗に関する話題は彼女を辟易とさせた。こういうことは絶対に口には出さないが、少し、ザマーミロだ。
「そりゃ二年の生徒全員分だものね」
私が胴を突いたところ、もう一人が意表を突いて、小手だ。軽快な口調でそう明るい声がした。私の向かいに座る、数学の三田先生である。小テストの採点をしていた三田教諭は我々の会話、それも斉藤女史の失敗に気を惹かれたのか、手を動かしながらその会話に混じってきた。二人から痛い口撃を食らった斉藤女史は頰を膨らませて「ぶー」だ。私は思わず、フッと息を吹き出した。
「いや、ごめん。全員分じゃないか。えーと、確か……百二十三名分?」
一方の三田教諭は言えば、この通り、彼も調子に乗ってさらに面を叩く。第二学年は全員で百四十一名である。三田教諭は数学教師、些細な数字を覚えるものである。
「…………」
面は流石にやりすぎた。斉藤女史はすっかりとむくれて口を尖らせた。若い顔がとたんにおばさん臭い顔に早変わりだ。三田教諭は流石に、「いや、ごめんって……」と、しかし軽く平謝りをした。やれやれ。私が肩をすくめて作業に戻ろうとしたところ。
「ま、なんとなくだけど。俺は高田先生のお悩みがわかるよ」
え? 私も虚を突かれた。斉藤女史ではなく、三田教諭にだ。一瞬手が震えて、パソコン越しに彼を見ると、彼は視線をこちらに向けて薄く笑い、言葉を続けた。
「思うに、雅美ちゃんのことだね」
私はその言葉を聞くや、三田教諭を見たまま下唇を噛んだ。そうだった。彼はナンプレの日本大会第一位だ。何かしらの一位は警戒すべきだった。斉藤女史は人の悩みを聞いてしまった。彼女はそれを聞いた直後に、気持ちをすっかりと戻して、まるで合点がいったとばかりに口に両手を当てた。そして、言うのだ。職員室中に響くような大声で。
「えー! 娘さんと仲がよろしくないんですか!」
ファッキン。口汚いと罵られようがもう知ったことか。顔女の発言の後、私の口からはそう小さく漏れた。例え大人の世界であろうと、噂や面白い事、特に興味を唆られるような家族の喧嘩という出来事は、むしろ閉塞気味な社会の中では一大ムーブメントになる。一挙に、私は神輿に担がわれ、観光客に注目を浴びる羽目になった。
「高田先生、喧嘩ですか?」
「え、あの高田さんが娘さんとですか?」
「あの子喧嘩とかするんだ……」
「まあ、気が強そうだもんね」
散々言ってくれる。職員室中の教師は私を取り囲むや否や、好き勝手に言ってくれた。その中には教師のまとめ役、教頭の姿もある。仕事しなさいよ。私は心の中でそう呟き、大体の質問を無視した。当然だ。なんでよく知りもしない連中に自分の家庭事情を話さにゃいかんのだ。と、私が大体を無視していると、やがて、わかったようなしたり顔をした独身英語教師が言った。
「まー娘と父親だから、一度は起こりますよね? どうせあれでしょ? 洗濯物が一緒だとか、学校で親しくするなとか……」
「「あー」」
あー、じゃねえよ。独身が何を語ってやがる。しかも頷いたのは大多数が独身だ。現実を小説の中だけで推し量ったような連中はその意見に満足すると自分の席に戻っていった。だが、結婚をして、実際に子供をこさえた連中はまだ張り付いていた。共感を得ようと、または子供をこれから育てる上での教訓にでもしようとしているのだ。雑事を聞こうとする連中は五万といるが、相談に乗ろうとする人はかなり少ない。
いい加減鬱陶しくなった私は今朝の平坦さを以って張り付く連中に言い放った。
「すみませんが、勝手に盛り上がらんと。これ以上いくようなら私は体調不良になります」
これでまた半分は、悪いと思って席に戻る。しかしまだいる。
「まあまあ、そこをなんとか。事情だけでも教えてくださいよ」
「そうですよ。高田先生いい人ですから、心配です」
まだ聞くか。しかもその急先鋒は誰であろう、斎藤女史だ。もうお手上げだ。私が苛々を募らせていると、結局はそれを鑑みた鶴が一声を上げる。
「ま、個人的なことなんだから。詮索はやめてあげなさい」
校長先生、ありがとうございます。私は心で、また体で校長先生にお辞儀をした。まあ、校長先生も野次馬に入っていたのだが。
「で、実際はどうなの?」
「まだ聞くか」
人がいなくなったと思ったら、向かいの三田教諭が聞いてくる。神輿に火を入れたのはあなただろうに。どういう神経をしているんだ。と、私の隣の席には斎藤女史がいる。彼女は三田教諭の発言にウンウンと同意していた。
「斉藤先生もですか?」
四つの目は完璧に私を見ている。私は歯ぎしりをして目をかなり細め、それぞれを睨んだが、しかし隣から向けられている純粋な興味の瞳というものはかなり堪える。聞けるまでここにいる気かもしれない。観念して、私はポツリと、ことのあらましを話し出した。
ことは一ヶ月前に遡る。
私は私の娘、雅美と長屋勉という同学年の男女にある事情から肩入れをした。その内に、私は気が付いてしまったのだ。娘の恋慕がどこに向いているのかを。勉という少年は丸い黒縁のメガネをかけた、見てくれは冴えない少年だが、心には芯があった。それにしっかりとした道徳心もだ。正義感だって強い。だから私は、密かに彼を認めてしまい、あまつさえ協力した。そしてその結果、モテ男だった勉が災いしてしまったのかは不明だが、学年の大半を敵に回すという大ポカをやらかした。敵に回ったのは私ではない。雅美だ。そして、最終的には私の協力がバレ、私は彼女に嫌われた。
事実が露呈したのは、つい昨日ことだった。
「と、いうことです。娘のためを思ったことでしたが、完全に裏目に出ました」
言い切った。私が言い切ると、二人は腕を組んで「うーん」と唸り、三田教諭は小さく苦笑しながら言った。
「それは、なんとも、ご愁傷様です……」
続いて斎藤女史も同じことを言うと、彼女はある疑問を呈した。
「勉君は私の部にいますけど……。あの子そんなにモテるんですか? 非モテ属性の塊ですよ?」
酷いことをサラリと言う。生徒の姿さえなければ教師はこんなもんだ。その生徒が例え、自身の「ロボット研究会」に所属していようとも。彼女の疑問には、私は勉の個人的な頼みごとも打ち明けてしまう。もう口は止まらなかった。
「みたいですよー。クラス、学年中の好意を払うのに今四苦八苦してるんだそうで、彼の相談がことの始まりでした。助けになればと画策したんですよ。まさか、その過程で娘が惹かれるとは……」
へー。斎藤女史はそう頷き、感心したとばかりにニヤニヤした。教え子の交際事情を知った彼女は一体何を考えているのやら。どうにも、彼女は底が知れず、やはりどこかが恐ろしい。
「それで高田先生が嫌われてしまう羽目になったと……」
三田教諭が合いの手を入れる。私はそうですと頷いた。 すると、二人は頭を抱え込んで唸る。三田先生、採点の手がすっかり止まっていますよ。二人は相談に乗る気満々だったのだ。いい人たちだ。二人とも底が見えないにしてもだ。やがて、考えた斎藤女史は、はい、といって手を挙げ、次にはこう提案した。
「いっそ私の方から勉君に進言してみましょうか?」
「なんて言うんです? 全校放送で交際宣言なんてしたら、それこそバカップル
と笑われますよ。最悪、学校だって取りざたされる羽目になる。大事にしてはいかんでしょ」
三田教諭がすぐさま疑問をぶつけた。すると、斎藤女史は軍隊式の敬礼をしながら言う。
「まあそこは、お任せあれ」
頼りになるとは思えないなあ。その姿はあまりに締まらず私は素直にそう思った。口に出そうかと思ったが、斎藤女史は宣言をすると止める間も無く職員室を出て行った。
男二人が取り残される。私は次に何を言おうかと思案を(多分向こうもだ)していると、予鈴のチャイムがなり、相談はお開きになった。
「話しあってみるしかないんじゃないですか?」
「やっぱ、そうですよね……」
教室へ行く途中に三田教諭が私にある結論を申し上げ、なし崩しに私は同意した。
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