3

増田さん

うるさくしてすいませんでした。今後は注意します。

おわびと言ってはなんですが、もしよかったら今度飲みにでも行きましょう!

鈴木



もちろん謝罪する気持ちなど皆無である。飲みに行くつもりだって微塵もない。何も考えていなさそうに見えた青年だが、これくらいの社交辞令は心得ていた。そして、それから少しの間だけ、部屋に人を呼ばないことにした。

男の返事は以下の通りである。



あなたの気持ちはわかりました。でも、許すことはできません

僕は、なるべく人との衝突を避けたいです、一人で静かにすごしたいです

のみかいのお話。おことわりします。僕は、人と一緒にいるといらいらしてしまうので



前の手紙とは違ってよれよれの字で書かれていた。書き間違えたところをボールペンで塗りつぶしていて汚かった。酔っている時にでも書いているのだろうか、と青年は考えた。というのも、このところ男は、夜中になって泥酔して帰ってくることが多くなったのだ。ドタドタと足音がうるさいのと、青年の部屋の戸を叩くのとで、青年も、ほかの住民たちも迷惑していた。―彼らは初めのうち、増田が大家に禁止命令を出させようとしているのを面白がった。青年のことが嫌いというわけではないが、かといって好きなわけでもないし、それに、静かになるに越したことはないと思って、これに加担していたのである。しかしいざ事がうまく運ばれてみると、鈴木芳は静かになったが、今度は増田のほうがうるさくなった。それも夜中だからたちが悪い。大家もこの状況を知り、増田の性質に問題があるのではと考え始めるようになった。

当の本人は、相変わらず青年に手紙を出し続けていた。青年の家に人が出入りしない今、もう書く話題もないので、青年の独り言や電話で話す声などがうるさいと文句をつけるようになった。仕舞いにはありもしない事実をでっち上げて責めた。また、ただ苦情を書くだけではつまらなくなったのか、自分の身の上話も添えてみた。文字にすることで日々の鬱憤を晴らし、今までにない快楽を味わうことが出来たのである。けれども愚かな男は、これを単にあの青年を攻撃したことで得られる、優越感のおかげだと思い込んだ。そのせいで、言葉遣いはどんどん荒くなり、脅し文句は「怒鳴る」から「殴る」へと変わっていった。それはもう十分然るべきところに通報される度合のものであったが、幸か不幸か青年はそういったことはしなかった。せいぜい友人に愚痴を漏らすくらいだ。口先だけで、どうせ実際にはやれないと思っていたのだろう。

それでも、何日も続くとさすがに耐えられなくなって、青年は大家の元へ話し合いに行った。せめて、出入り禁止などという馬鹿げた決まりはなくしてもらおうと思ったのだ。

さて、この大家は非常に臆病者である。それ故に増田のしつこい苦情に押し負け、あのような制約を作ることになってしまったのだ。だから今回も、青年が少し強く言っただけでぺこぺこ謝り、あっさり取り消しになった。こうなればあの男も、今ほど調子に乗った態度ではいられないはずだ。

その翌日から、青年は何食わぬ顔で友人を呼ぶようになった。男は当然、激しい怒りを感じたが、手紙に書いたように怒鳴ったり、ドアを蹴ったりすることはしなかった。そんな度胸も気力もなかった。ましてつまみ出すなんて出来るはずもなかった。



四ヶ月が経った。あれからもう、男は手紙を出すのをやめていた。青年の部屋の戸を叩くのも、相当酔った時だけになった。一方で青年は、何事もなかったかのように、以前と同じく友人や恋人を呼ぶようになっていた。そして、お互いがばったり出くわすと、必ずにらみ合いが始まり、最終的に口論にまで発展することもあった。一度だけ殴り合いになりそうな時もあったが、その時はほかの住民や大家が駆けつけたので、大事にはならないで済んだ。

――くそっ!ついてねえ!

この日も男は苛々していた。ここ数日、態度の悪い客にばかり当たる上に、営収も芳しくなかったのである。気分は最悪で、何をする気も起きなかった。しかも更に運がないのは、青年の部屋に騒がしい友人が来ていることである。普段は夕方近くなってから人が来ることが多いのに、今日はなぜか男の目が覚めた昼頃にはもう来ていた。男は、彼らがなかなか帰らないことを知っていたので、夜まで出かけることにした。出かけると言っても、近所のパチンコ屋に行って、そのあと居酒屋で酔いつぶれてから帰ってくるだけであったが。いくら薄給とはいえ、趣味もなく、家賃もそう高くないのに金が全く貯まらないのは、このせいだった。


辺りはすっかり暗くなり、男はひどく泥酔して帰ってきた。ふらついて、まっすぐ歩けていない。体重の全てを惜しみなく乗せて、通路の床をどすどす鳴らしながら歩いた。ふと、青年の部屋の前に差し掛かったとき、室内が賑やかなのに、はっとする。一瞬、素面に戻りそうになった。もっとも、酔っていようがいまいが、考えることは変わらないのだが。

男は朦朧とした意識の中で、もう耐えられない、耐えてやるもんかと、ただそれだけははっきり思った。いや、思っただけでは留まらない。すぐ行動に移った。酒の力にのまれたときの行動力というのは、驚くべきものである。男は青年の部屋に乗り込むべく、戸を何度も何度も殴りつけ、蹴り飛ばした。これまでも同じ事をしてきたが、今日は明確な目的意識の下でやっているから、達成するまでは絶対に帰るつもりはない。何としても開けさせると思っていた。

今までは収まるまで無視をしていた青年も、今日は友達の手前もあり、追い返さなくてはと思った。はあっと息をつく。それから、ゆっくりと戸を薄く開いた。

「なんですか……増田さん」

「なんですかじゃねえよ、静かにしろ」

ヒクッ、と小さなしゃっくりが出た。酒の匂いがする。

「そっちこそ……毎晩毎晩、勘弁してくださいよ。おれ就活とかあるんで忙しいんです」

鈴木芳は迷惑そうに、しかし半分得意げにそう言った。本当はそれほど忙しいわけではない。

「いつまでやってるんだ。この間だってそう言ってただろ」

増田は酔って赤い顔を更に赤くして怒った。この間というのは、以前口論になった時のことである。

「今時こんなもんすよ。――まぁおれはダブってるし、人よりちょっと長いかも」

自慢話をするかのごとく、増田にとっては驚きの事実を告げた。

「ふん、留年なんかしてるやつが就職なんて出来るか」

これを聞いてムッとした鈴木芳は、申し訳程度の敬語すら忘れて、

「高卒のあんたが就職出来たんだから大卒のおれができないわけないだろ」

と反論した。増田は、鈴木芳が自信満々にそう言うので、なるほどそうかもしれないと思いつつ、反撃を試みる。

「俺は留年なんかしてない」

「だからなんだよ。大体高校と大学は違うってーの。大学なんて留年するくらいが丁度いいんだから」

そういうものなのか?と増田は一瞬考えた。鈴木芳はもう疲れたと言わんばかりに大げさに肩をすくめ、

「いいからさ、もうどっか行ってよ」

「それはこっちの台詞……」

「ねえ、あんたまだわかってないの?あんただけだよ、おれのこと追い出そうとしてるの。みっともないと思わないの?未来ある若者に向かってこんな陰湿な真似してさあ」

鈴木芳は歪んだ笑みをうかべた。増田と初めて対面した時の、あの人懐こそうな顔はどこへ行ってしまったのか。

「ははっ、自分で言っちゃったよ。未来ある若者だってよ!」

友人たちがからからと笑って言った。

増田は黙っていた。鈴木芳はさらに気を良くして話を続ける。

「おれとあんたさ、どっちのほうが世の中から必要とされてると思う?」

「俺、ヨシに一票!」

一人目は何も考えずに手を挙げた。

「じゃあ俺も」

二人目もやはり何も考えずに手を挙げた。

「ほらね。これが現実だよ」

まるで世の中のすべてを見透かしているような口ぶりである。彼らにとって現実とは、今自らの目に映るもの、ただそれだけでしかないのだ。こんなにもふわふわとして、いい加減な話なのだから、いくらでも反論は出来る筈である。けれども増田は、何故か何も言わなかった。

「ねえ、なんか言ったら?―ああ、図星過ぎて何も言えないんですかね?」

嫌味っぽく笑った。今、鈴木芳は最高に気分がいいことだろう。こんな優越感は、この先もう二度と味わえないかもしれない。

「もういっそ……あれ、なに、かえるの」

増田は何も言わずにとぼとぼと自分の部屋へ戻って行った。酔いは既に醒めていた。


部屋の前に立ち、鍵を開けようとするがうまく刺さらない。鍵が反対向きになっていた。二回ほど打ち付けて、ようやくそれに気付く。すぐ鍵をひっくり返そうとしたが、思うように行かず、もたついた。やっと鍵が開いた。中に入り、うつろな目で部屋を見る。ため息を吐く元気もなかった。

男には、青年が言いかけたことの後に続く言葉がふっと思い浮かんだ。その瞬間、自分の中に新しい可能性が芽生えた気がした。そうだ。これだったのだ。伸びた芽は男の中でみるみるうちに育っていく。男は血走った眼で部屋を見渡した。衣紋掛けに引っ掛けてあったベルトをゆっくりその手に掴みとる。震えながらベルトで輪をつくった。

どくん、どくん、と鼓動が聞こえる。

――死んでやる!

そうすればあの青年は驚き、恐れるだろうと考えた。口元が自然に歪んだ笑みをつくり出す。そこから漏れる息はどんどん荒くなる。気が付けば涙が流れていた。なんとなく気になったので手で拭った。さらに心臓がばくばく言い出した。

壁の適当なフックを探してベルトを引っ掛けた。あとは頭を伸ばして、通すだけ。ただそれだけが、出来ない。もたついていると、涙とは別の体液が顔や手にじわじわ出てきた。男は必死になって、通せ、通せと自分自身に命令した。それでも、出来なかった。男はその場に崩れ落ちた。悔しさと怒りがこみあげる。しかし、それが何に対するものなのかはよく分からない。とにかく腹が立った。

けれどもよくよく考えてみれば、別に今日である必要はないと男は思った。一回だけの大勝負だ。焦らなくてもいいだろう。青年が明日引っ越すわけでもあるまい。

――俺は絶対死んでやるんだ!

 そう意気込んですぐ、眠気が襲う。男は布団も敷かないまま畳の上に倒れこみ、気絶するように眠りに落ちた。

男の大きないびきは、隣の青年たちにも聞こえただろうか。

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